地図の中で紹介している「先人たちの碑」と「史跡」の一覧 |
@鈴木主税
生誕地碑 |
すずき ちから
鈴木主税(1814〜1856)は、文化11年、福井市日之出1丁目(現いすず自動車修理工場付近)に誕生。
英才で知られる主税は、松平春嶽の側近として、中根雪江、橋本左内らとともに福井藩の立て直しに活躍した。また、寺社奉行、郡奉行として善政をしいた。
その人生に深く感謝した木田町民は、主税を生前から神として、「世直し神社」を建て仰いだ。
|
A岡田啓介
生誕地碑 |
おかだ けいすけ
岡田啓介(1868〜1952)は、慶応4年、新屋敷(現日之出3丁目中島織物機業場敷地内)に誕生。
海軍大将、連合艦隊司令長官、海軍大臣等を経て、内閣総理大臣となる。その後重臣として敗戦の収拾、平和回復に心を砕いた。
2・26事件に遭遇し、ボディガード役の松尾伝蔵が身代わりに射殺されたのは有名な話である。
|
B吉田東篁
生誕地碑 |
よしだ とうこう
吉田東篁(1808〜1875)は、文化5年、土居組長屋(現旭小北校舎付近)に誕生。日頃から学問は実践にあると主張していた東篁は、黒船来航の時には江戸へ向かい、水戸藩に意向を伝える。ロシア軍艦の大阪来航の時も大阪へ向かう。
これらの政治的役目をなした後、明道館教授となって、矢島立軒、橋本左内、鈴木主計、由利公正、杉田定一らを育てた。
|
C桜の馬場 |
荒川の堤防沿いに作られた桜の馬場は、福井藩の武士が馬術の練習をする場所であった。当時の馬場は桜の木も多く植えられ、春には見事な花を咲かせていたので「桜の馬場」と呼ばれていた。
1819年、この桜の馬場の一隅に「正義道」(旭小学校の全身)が建てられて、幾多の偉人を育て、福井市の学問発祥の地となった。
|
D荒 川 |
荒川は、以前は吉野川といい、旧吉野村(現在の松岡町)の吉野岳を源流に、下吉野から松岡町下吉野から西に曲がり福井市に入り、重立、原目の山裾を流れ、さらに今泉、河増、四ツ居の田畑を潤しながら、旭地区を北から南に横切り足羽川に合流する全長15qに及んでる。藩政の頃には、日之出から勝見に向けて、一直線に1.2qにわたり、付け替えられたと言われている。
ひとたび大雨が降ると洪水になる「あばれ川」であったが、近年改修工事が進められ、荒川の水害も治まっている。
|
E松尾伝蔵大佐の像 |
まつお でんぞう
松尾伝蔵(1872〜1936)は、昭和5年8月16日、手寄上町55番地に誕生。
陸軍大佐、歩兵第59連隊長としてシベリア出兵。その後、旭社会教育会長、在郷軍人分会長を歴任。昭和9年内閣総理大臣秘書官を拝命。2.26事件に遭遇し、首相官邸において岡田啓介首相(義兄)の身代わりとなって殉職された。
|
F大森房吉
生誕地碑 |
おおもり ふさきち
大森房吉(1868〜1923)は、明治元年9月、百軒長屋(現手寄2丁目3−24)に誕生。理学博士。
地震学の研究で世界的に有名。海外への遊学も10回以上に及んだ。
設計した「大森式地震計」は、今日でも永らく機能を発揮、気象台で使用されていたが、昭和39年福井市に寄贈され、郷土歴史館に展示されている。
|
G火産霊神社
(馬鹿ばやし) |
ほむすび
火産霊神社は、明治5年に現在の名称に改称され、区民に「秋葉さん」と呼び親しまれた。
創立は、福井藩祖松平秀康公が、下総国結城(茨城県)に在城の頃、防災の神と崇めていた遠州国(静岡県)秋葉神社の御分霊を、慶長6年北の庄に転封の際、彼地より移し、当初は元豊島下町に鎮座されたが、戦後現在地に移転した。
当神社に伝わる馬鹿ばやし(福井県無形文化財指定)は、朝倉家の御用商人多田善四郎が城の橋通りに住み、その人の伝授で町内の人々が祝祭日などに披露していたのが始まりと言われている。
|
H加藤寛治
生誕地碑 |
かとう かんじ
加藤寛治(1870〜1939)は、明治3年豊島中町に誕生。
海軍兵学校を主席で卒業。昭和2年海軍大将となる。この間、日清・日露戦争、第1次世界大戦に参戦。連合艦隊司令長官、軍令部長、軍事参議官等の要職を歴任。
昭和5年ロンドン軍縮会議の妥結に際し、軍拡派としての持論を貫くため軍令部長を辞職。海軍の長老で、資性豪快、幼くして父を亡くし、母に仕えて至孝であった。
|
I塚原芥山
生誕地 |
つかはらかいざん
福井が生んだ陶芸家塚原芥山(1907〜1945)は、明治40年3月21日、福井市豊島中町160番地に誕生。本名は正志。
大正14年福井中学を卒業。福井社記者、代用教員などの職を転々とした後、昭和5年瀬戸の加藤雲山に弟子入りし、生涯の師友加藤唐九郎を知る。
昭和20年7月、38才で死去するまで、抜群のろくろ技術と秀でた絵付けにより、土に根ざした独特の世界を形づくった。最後まで芸術的良心を持ち続けた陶芸家である。
|
J東光寺 |
臨済宗妙心寺派富士山東光寺が正式の寺号である。開祖は、旧越前三代藩主松平忠昌公。寛永元年、兄忠直公が大分へ流罪となり、その後継として忠昌公が越前入封の際、越後高田(新潟県)より移転した。この地は、忠直公乱行の際、妊婦の腹を割いたと伝えられている。
|
K地方気象台 |
明治29年福井県議会の議決により、同年2月日の出町26番地で工事が開始され、翌年1月から県営福井測候所として気象観測業務を開始した。
昭和14年に文部省に移管され、福井測候所と改称。昭和18年に運輸省に移管。昭和32年に福井気象台と改称。
昭和20年に戦火に遭い、豊島2丁目に移転し、現在に至っている。地方気象や地震の他、色々な観測を行っている。
|
L荒川水門 |
一級河川荒川は、松岡帳上吉野から福井市街地に至る流路延長15q、流域面積42.19平方qで、その大部分の区域となる市街地は低平地に位置しているため、出水のたびに浸冠水の被害を引き起こしていたので、昭和39年〜50年度にポンプ場を設置して対応したが、その後市街化区域が広がるとともに下水事業による総排水量が不足となり改修計画を検討。
|
M北向観音堂 |
慶長6年、結城秀康入国の頃、勝見村に前田文助という大庄屋がいた。
ある夜文助が、足羽川で魚をとっていたところ、網に木像がかかったが気にもとめず川に捨ててしまった。しかし何度網を打っても先ほどの木像がかかってきたので、家に持ち帰り安置すると、その夜観音の姿が夢枕に立った。さらに正面に安置したが、いつとはなく北向きに変わっていた。
その後文助たちにより、堂が建立され、観音像は北向きに祀られた。以降人々は、北向観音と称した。
|
N白髭神社
(七夜おどり) |
しらひげ
白髭神社は、平安時代の延喜式神名帳に記載されている式内神社で、桓武天皇の御代延暦年中(1200年前)、坂上苅田麿が当国主であった時、深く崇敬して再建された。
祭神は、猿田彦大明神。
当神社には、古来から伝わる太刀・書軸などの多くの宝物が収蔵されていたが、昭和20年の戦災で消失した。
七夜おどりは、200年以上もの昔から当神社境内で踊られてきた「やっしき踊り」で、毎年8月17日から7夜躍られる素朴な盆踊りである。
|