旭地区は、JR福井駅の東側に位置し、東西約1q、南北約0.8q、西はJR北陸線、南は足羽川、北は北陸電力福井支店、東は県立高志高校に囲まれた福井市街の中心に位置しています。今までは鉄道によって行政、商業地区からは分離されてしまいましたが、ほぼ中央には荒川が流れ、足羽川に注いでいます。
 戸数2,000戸、人口6,000人。
 21世紀を目指した県都福井のまちづくり事業、すなわち、福井駅立体交差事業、福井駅周辺区画整理事業が始まり、駅周辺の家屋の移転や道路築造が進み、駅西と一体となった旭地区に生まれ変わろうとしています。
 一方、本地区は旧福井城の三の丸地区にあたり、武家屋敷でした。歴史的背景のもとに眺めても、福井市の中では郷土色豊かな土地柄で、公民館では「歴史と文化がみえるまち」として運営に重点を置いています。





1.学問のまち 旭

 1819年福井藩第13藩主 松平治好より、旭地区にある桜の馬場に学問所「正義堂」が創設され、武芸中心の藩から、学問重視の藩へと大きく転換しました。入学者は武士の師弟だけでなく、一般町人の師弟も入学を許可されるという、全国的にも珍しく開かれた学問所でした。
 明治7年平瀬儀作が旭小学校を創立しました。以来、旭校は今日まで校名、校地、校歌をそのままに受けついでいます。
 明治31年には、福井師範学校が、その付属小学校とともに移転してきました。
 昭和5年には、県立女子高等学校(現県立高志高等学校)が御幸に移転し、旭地区は文字通り、福井市における文教地区として今日に至っています。

2.偉大な先人輩出のまち 旭

 正義堂の教官 吉田東篁は、なたさしの子でした。旭校の創設者 平瀬儀作は、17石どりの下級武士でした。その長男 平瀬作五郎は、「いちょう」の精子を発見しことにより、恩賜賞の栄に浴しています。
 また、福井県でただ唯一の総理大臣 岡田啓介、2・26事件の松尾伝蔵、世界的な地震学者 大森房吉も旭校に在籍しました。
 さらに、科学者 仙石 亮、比企 忠、種痘医者の笠原 白翁も旭地区に住んでいました。
 日本を代表する土木人 飛島文吉、熊谷太三郎もまた、旭地区ゆかりの人物です。
 初代福井市長 鈴木準道、3代 東郷竜雄、6代 永井 環、10代 熊谷太三郎も旭地区出身者です。
 旭地区は、文句なしに偉大な先人輩出の地といえます。

3.商業と住宅の調和のまち 旭

 徳川末期、福井藩は一般商家の三の丸居住を許したことにより、城之大通りの東端の手寄門には、美山・大野・三国方面の物質が集まり、にぎわいをみせていました。
 武家と商人とが混然として平穏に栄えたわけです。
 現在も、この城之橋大通りを中心に、板垣大通り、そして駅東大通りの3本の大通りを軸に、一般住宅と商業家屋が混然となって繁栄している地区といえます。

4.桜並木を中心とした水明のまち 旭

 福井藩時代から受けつがれた桜の馬場には、荒川下流右岸、幅約10m、長さ約400mの桜並木がありました。荒川に続く足羽川にも桜が植えられ、藩政時代、藩はこの桜の馬場の観桜を一般人にも解放しました。
 武士と町人が一体となって桜散る馬場で、馬術の訓練に励む若武者にやんやの拍手を送ったといわれています。
 明治、大正を経て、昭和の初期には城東橋の上流や、足羽川の調練場堤防に茶店が数軒並び、客人の便に供されました。
 このように、荒川と足羽川は区民に親しまれた地域となっています。

5.文化財のまち 旭

 当地区には、約400年の昔から火産霊(ほむすび)神社に伝わる、県無形文化財の「馬鹿ばやし」、また1300年の歴史を誇る白髭神社には、約200年以上の伝統を持つ「七夜踊り」があります。
 市の中心部にこうした立派な文化財を持つことは大変珍しいことです。
 昭和62年には、全区民の力で作られた「旭音頭」は、区民に親しまれている新しい文化財といってもいいでしょう。


 


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 地図の中で紹介している「先人たちの碑」と「史跡」の一覧
 @鈴木主税
    生誕地碑
 すずき ちから
 鈴木主税(1814〜1856)は、文化11年、福井市日之出1丁目(現いすず自動車修理工場付近)に誕生。
 英才で知られる主税は、松平春嶽の側近として、中根雪江、橋本左内らとともに福井藩の立て直しに活躍した。また、寺社奉行、郡奉行として善政をしいた。
 その人生に深く感謝した木田町民は、主税を生前から神として、「世直し神社」を建て仰いだ。
 A岡田啓介
   生誕地碑
 おかだ けいすけ
 岡田啓介(1868〜1952)は、慶応4年、新屋敷(現日之出3丁目中島織物機業場敷地内)に誕生。
 海軍大将、連合艦隊司令長官、海軍大臣等を経て、内閣総理大臣となる。その後重臣として敗戦の収拾、平和回復に心を砕いた。
 2・26事件に遭遇し、ボディガード役の松尾伝蔵が身代わりに射殺されたのは有名な話である。
 B吉田東篁
   生誕地碑
 よしだ とうこう
 
吉田東篁(1808〜1875)は、文化5年、土居組長屋(現旭小北校舎付近)に誕生。日頃から学問は実践にあると主張していた東篁は、黒船来航の時には江戸へ向かい、水戸藩に意向を伝える。ロシア軍艦の大阪来航の時も大阪へ向かう。
 これらの政治的役目をなした後、明道館教授となって、矢島立軒、橋本左内、鈴木主計、由利公正、杉田定一らを育てた。
 C桜の馬場
 荒川の堤防沿いに作られた桜の馬場は、福井藩の武士が馬術の練習をする場所であった。当時の馬場は桜の木も多く植えられ、春には見事な花を咲かせていたので「桜の馬場」と呼ばれていた。
 1819年、この桜の馬場の一隅に「正義道」(旭小学校の全身)が建てられて、幾多の偉人を育て、福井市の学問発祥の地となった。
 D荒 川
 荒川は、以前は吉野川といい、旧吉野村(現在の松岡町)の吉野岳を源流に、下吉野から松岡町下吉野から西に曲がり福井市に入り、重立、原目の山裾を流れ、さらに今泉、河増、四ツ居の田畑を潤しながら、旭地区を北から南に横切り足羽川に合流する全長15qに及んでる。藩政の頃には、日之出から勝見に向けて、一直線に1.2qにわたり、付け替えられたと言われている。
 ひとたび大雨が降ると洪水になる「あばれ川」であったが、近年改修工事が進められ、荒川の水害も治まっている。
 E松尾伝蔵大佐の像  まつお  でんぞう
 松尾伝蔵(1872〜1936)は、昭和5年8月16日、手寄上町55番地に誕生。
 陸軍大佐、歩兵第59連隊長としてシベリア出兵。その後、旭社会教育会長、在郷軍人分会長を歴任。昭和9年内閣総理大臣秘書官を拝命。2.26事件に遭遇し、首相官邸において岡田啓介首相(義兄)の身代わりとなって殉職された。
 F大森房吉
   生誕地
 おおもり ふさきち
 大森房吉(1868〜1923)は、明治元年9月、百軒長屋(現手寄2丁目3−24)に誕生。理学博士。
 地震学の研究で世界的に有名。海外への遊学も10回以上に及んだ。
 設計した「大森式地震計」は、今日でも永らく機能を発揮、気象台で使用されていたが、昭和39年福井市に寄贈され、郷土歴史館に展示されている。
 G火産霊神社
 (馬鹿ばやし)
  ほむすび
 火産霊神社は、明治5年に現在の名称に改称され、区民に「秋葉さん」と呼び親しまれた。
 創立は、福井藩祖松平秀康公が、下総国結城(茨城県)に在城の頃、防災の神と崇めていた遠州国(静岡県)秋葉神社の御分霊を、慶長6年北の庄に転封の際、彼地より移し、当初は元豊島下町に鎮座されたが、戦後現在地に移転した。
 当神社に伝わる馬鹿ばやし(福井県無形文化財指定)は、朝倉家の御用商人多田善四郎が城の橋通りに住み、その人の伝授で町内の人々が祝祭日などに披露していたのが始まりと言われている。
 H加藤寛治
   生誕地碑
 かとう  かんじ
 加藤寛治(1870〜1939)は、明治3年豊島中町に誕生。
 海軍兵学校を主席で卒業。昭和2年海軍大将となる。この間、日清・日露戦争、第1次世界大戦に参戦。連合艦隊司令長官、軍令部長、軍事参議官等の要職を歴任。
 昭和5年ロンドン軍縮会議の妥結に際し、軍拡派としての持論を貫くため軍令部長を辞職。海軍の長老で、資性豪快、幼くして父を亡くし、母に仕えて至孝であった。
 I塚原芥山
   生誕地
               つかはらかいざん
 福井が生んだ陶芸家塚原芥山(1907〜1945)は、明治40年3月21日、福井市豊島中町160番地に誕生。本名は正志。
 大正14年福井中学を卒業。福井社記者、代用教員などの職を転々とした後、昭和5年瀬戸の加藤雲山に弟子入りし、生涯の師友加藤唐九郎を知る。
 昭和20年7月、38才で死去するまで、抜群のろくろ技術と秀でた絵付けにより、土に根ざした独特の世界を形づくった。最後まで芸術的良心を持ち続けた陶芸家である。
 J東光寺
 臨済宗妙心寺派富士山東光寺が正式の寺号である。開祖は、旧越前三代藩主松平忠昌公。寛永元年、兄忠直公が大分へ流罪となり、その後継として忠昌公が越前入封の際、越後高田(新潟県)より移転した。この地は、忠直公乱行の際、妊婦の腹を割いたと伝えられている。
 K地方気象台
 明治29年福井県議会の議決により、同年2月日の出町26番地で工事が開始され、翌年1月から県営福井測候所として気象観測業務を開始した。
 昭和14年に文部省に移管され、福井測候所と改称。昭和18年に運輸省に移管。昭和32年に福井気象台と改称。
 昭和20年に戦火に遭い、豊島2丁目に移転し、現在に至っている。地方気象や地震の他、色々な観測を行っている。
 
 L荒川水門
 一級河川荒川は、松岡帳上吉野から福井市街地に至る流路延長15q、流域面積42.19平方qで、その大部分の区域となる市街地は低平地に位置しているため、出水のたびに浸冠水の被害を引き起こしていたので、昭和39年〜50年度にポンプ場を設置して対応したが、その後市街化区域が広がるとともに下水事業による総排水量が不足となり改修計画を検討。
 M北向観音堂  
 慶長6年、結城秀康入国の頃、勝見村に前田文助という大庄屋がいた。
 ある夜文助が、足羽川で魚をとっていたところ、網に木像がかかったが気にもとめず川に捨ててしまった。しかし何度網を打っても先ほどの木像がかかってきたので、家に持ち帰り安置すると、その夜観音の姿が夢枕に立った。さらに正面に安置したが、いつとはなく北向きに変わっていた。
 その後文助たちにより、堂が建立され、観音像は北向きに祀られた。以降人々は、北向観音と称した。
 N白髭神社
 (七夜おどり)
 しらひげ
 白髭神社は、平安時代の延喜式神名帳に記載されている式内神社で、桓武天皇の御代延暦年中(1200年前)、坂上苅田麿が当国主であった時、深く崇敬して再建された。
 祭神は、猿田彦大明神。
 当神社には、古来から伝わる太刀・書軸などの多くの宝物が収蔵されていたが、昭和20年の戦災で消失した。
 七夜おどりは、200年以上もの昔から当神社境内で踊られてきた「やっしき踊り」で、毎年8月17日から7夜躍られる素朴な盆踊りである。