登リ口案内
角原コース 〔約40分〕 大文殊に直行する最短コース。
二上コース 〔約50分〕 福井市街地に近いこともあり人気コース。
大村コース 〔約1時間〕 急な坂道がなく誰でも登れる楽々コース。
大正寺コース 〔約50分〕 文殊山南側からは一番の人気コース。
南井コース 〔約40分〕 奥の院への最短だが最初は急峻。
四方谷コース   〔約1時間30分〕    急なのぼりの後は尾根伝いに奥の院へ直行。

文殊山  標高365m

越前五山の一つとして知られている文殊山は、養老元年に泰澄大師が開山して以来、信仰の山として親しまれている。
山上には三つの峯があり、北から室堂(小文殊)、大文殊(本道)、奥の院(大汝)と呼ばれている。
市街地が近いことや、さまざまな登山コースがあるので大人から子どもまでが楽しめるハイキングコースとして親しまれている。
春のカタクリから始まり椿、こぶし、桜、つつじ、秋の紅葉まで四季を通じて飽きることのなく小鳥たちの種類も豊富だ。

現在、大文殊の本堂には文殊支利菩薩を、奥の院堂(通称、大汝)には正観世音菩薩を、室堂(通称、小文殊)には阿弥陀如来像(三尊とも泰澄大師の自作であると伝えられる。)が安置されている。

文殊山は角原からの眺めが富士山に似ているところから別名「角原富士」とも呼ばれ、西行法師が当地を行脚した時に

   越に来て富士とやいはん角原の文殊が岳の雪のあけぼの

と詠んだ。

文殊祭は毎年4月25日。


文殊山の自然

カタクリ 展望台付近など、随所にカタクリの群生地がある。
ソメイヨシノが咲く頃にカタクリも満開になり、
白花も見つかります。
椿 七曲坂付近や四方谷コースの尾根一帯に群生地がある。
ヤブツバキ、ユキバタツバキが冬から春に咲き乱れる。
キンキマメザクラ、ヤマザクラ、カスミザクラ、ウワミズザクラ
などが次々に開花する。
江戸時代に文殊山は遅桜の名所だった。
現在は福井県文殊会が登山道一帯にソメイヨシノ、ヤマトザクラ、ヤマザクラなど300本を植樹し、よみがえるのを待つばかりだ。
天狗杉 小文殊の室堂前に樹齢数百年の大きな杉が一本そそり立っている。その昔、このスジの木の上に天狗が住みついていたといわれ、「天狗杉」と呼ばれている。
智恵の大杉 大文殊の本道近くに樹齢何百年という杉の巨木がある。智恵の山の山頂にふさわしく「智恵の大杉」と呼んでいる。
紅葉 見ごろは11月中旬以降。七曲坂、展望台付近、大文殊がら奥の院にかけてが紅葉の人気スポットになっている。
キノコ マツタケを見つけるのは至難の技ですが、シメジ、ナメコ、ヒラタケ、アミタケ、シイタケなどが豊富です。
毎年10月最終日曜日、福井文殊会主催の「文殊きのこ狩り大会」が開催されます。
カモシカ 平成8年、文殊山でニホンカモシカが目撃された。その後、文殊山中の至る所で目撃されるようになった。
人には危害を加えないので、遭遇した時はそっと見守ってほしい。

文殊山の伝説

◆文殊山の大汝道にある胎内くぐりの大岩には、いくつかの伝説がある。
昔、女人禁制だった頃、この山に登った女の人が、山の神の怒りに触れ、岩に間に閉じ込められたという伝説の他にも、次のような話がある。
文殊山頂には雌雄の大岩がある。その岩を潜ると、知恵を頂けるというので、祭礼の日には参詣人が多い。2度目にはお礼参りをするそうで3度参ると馬鹿になると言っている。
岩の下には御堂がある。 それは昔、角原にあったが、浅水の神様と争った結果、角原の神様が負けて、 文殊山へお上りになったと言われている。(福井県の伝説より)

文殊の知恵にまつわる伝説には、この他に次のようなものもある。
 文殊山の下山の途中では、決して振返ってはならない。もし振返るようなことがあると神様のバチがあたって、せっかく授かった知恵もなくなってしまう。

◆南井コ−スの出発点の南井集落には『甚平と山婆』という怪奇な伝説が伝わっている。[山角力]で名高い文殊山の麓に平和な村があり、村人から慕われている甚平という爺さんが住んでいた。ある朝、甚平の家の飯びつがからっぽになっていたので神の怒りと思い、甚平は広い境内の掃除を毎日する事にした。
ところが甚平の家を振り出しに一晩に一軒ずつ飯びつがからっぽになり、村人の恐怖は大きくなるばかり。男たちが寝ずの番をしても知らぬ間に眠り、目覚めたときは飯びつはからっぽであった。 こんな日が何日も続いた後、甚平の案で、隣村の医者に相談し、飯びつの まわりに油を塗っておくことにした。明け方、ドシンと言う音に飛び起きてみるとものすごい顔の、大きな山婆が倒れていた。
36日も掛かってやっと捕らえることができたのである。甚平を先頭に村人たちが文殊山頂の祠へ御礼に行こうとした所、山道に飯粒が落ちているのでたどっていくと大きな岩穴があった。中には驚いた事になくなった飯が山になっていたと言う。その後も甚平はますますむら一番の人として尊敬されたということである。
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