明治時代の学校 

 富国強兵を目指す維新政府にとって、教育の近代化は最重要課題の一つであった。
 その方向性が明確にされたのは明治5年(1872)の「学制」の発布で、その前文に教育理念として、旧来の儒学的思想を否走し、公教育思想と個人主義的実学主義的な教育思想を明確に示した。
 こうして円山地区に明治7年(1874)に今泉小学校と四ツ居小学校の2校が創立された。
当時の小学校は、下等小学校(6歳より9歳までの4年)と上等小学校(10歳より13歳までの4年)に分かれていて、この2校は下等小学校であった。

 明治12年(1879)に「教育令」が公布され、更に明治13年(1880)に改正された。翌明治14年(1881)に福井県が誕生すると、「教育令」の改正と相まって新県の教育行政は法令・規則の整備および地域間の調整などで多忙を極めることになった。
 「改正教育令」では、一転して国家による統制や干渉が強化された。教育内容では「修身教育」が重視され、儒教主義的徳育教育が採用されるようになつた。
 明治15年(1882)に県は「小学教則」を定め、小学校は初等科3年、中等科3年、高等科2年の計8年間とした。

 明治18年(1885)に「太政官制」が廃止され、新たに「内閣制度」が採用された。初代総理大臣に伊藤博文が就任した。内閣の一省として文部省が置かれ、初代文部大臣に森有礼が就任した。
明治19年(1886)に「学校令」が敷かれ、市同大学・師範学校, 中学校・小学校の制度が確立された。師範学校・中学校・小学校にはそれぞれ高等科と尋常科が置かれて, 尋常中学校は旧制の中学校に当たり、小学校は6 歳より14歳までの8 年間児童を教育するもので、尋常科の4 年間は義務制とされた、この「学校令」方式は昭和22年(1947)の「学校教育法」まで続くことになった。
 なお、尋常科の4 年間は3 年間の「簡易科」で代行できるとしたので、今泉小学校と四ツ居小学校も簡易科であった。

 明治22年(1889)に「大日本帝国憲法」( 旧憲法) と「衆院選挙法」が公布された。更に各国に「市町村制」が敦かれ、「吉団郡円山東村」が発足した。そして全員が尋常小学校に就学しなければならなくなったので、簡易科は廃止された。
 なお、円山東村は足羽郡の四ツ居渡村・北四ツ居村・下四ツ居村・米松村・吉田郡河増村・北今泉村・東今泉村・下中村の八か村を以って発足した。今泉校区と四ツ居校区が初めて一村となり、教育振興に好都合となった。村名の円山束村は丸山に因んで付けられ、東を「円山束村」、西を「円山西村」としたとされ、当時の地区民が丸山(円山)を非常に親しんでいたことが伺える。

 明治23年(1890)に「教育に関する勅語」(教育勅語)が発布され、天皇・皇后の肖像写真である「御真影」と共に「忠君愛国」の「国家主義教育」とが進められた。明治23年の小学校令に基づき、明治24年(1891)に文部省は「小学校教育大綱」を定め、県は翌年に「小学校教則」を示した。
これによって「修身教育」を中心とする各教科を課した。
 こうして、「教育勅語」と「御真影」は昭和20年(1945)まで学校で学んだ人たちは忘れられないものであった。戦後進駐軍の指示により、当時の天谷甚兵寄校長がこれをお返しした。

 明治33年(1900)に小学校令が改iにされ、尋常小学校4カ年の義務制が確立された。また明治36年(1903)には小学校令改正によつて小学校「国定教科書」ができた。
明治40年(1907)の小学校令の改正で義務制の尋常科は6年となり、高等科は2年となった。
 これらの時代背景としては日清戦争(明治27年〜28年)と日露戦争(明治37年〜38年)があった。
こうした世界史的位置の中で一層国家主義的教育が進められてきたことがわかる。

円山尋常小学校
 
 就学児童の増加と義務教育の延長で、今泉,米松両校を増築し、内容を充実させていくことは財政上極めて困難であった。
 それよりも両校を合併して規模を整えることがより新制度に沿うとして、明治41年(1908)に北四ツ居地籍の現在地に円山尋常小学校が建設された。開校当時の学校は校長1名、教員4名、児童数222名であった。

 明治44年(1911)より、農村地域ということで「農業補習学校」が併設され、これは昭和10年(1935)に「青年学校」制度が発足するまで続いた。

 大正3年(1914)から大正7年(191)にかけて,三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)との対立によって「第一次世界大戦」があり,日本は協商側に入って参戦した。その最中の大正6年(1917)にロシアで世界最初の「社会主義革命」が起こり,ソ連の「社会主義国」が誕生した。
 大正7年(1918)に県の方針として高等科を設置することになり,学区が定められて,「円山尋常高等小学校」が発足した。

 大正15年から戦争の時代を反映して小学校に「青年訓練所」が併設され,軍事訓練を受けるようになった。
 こうした「軍国主義・国家主義教育」の中でも,大正期の教育は一方で「大正デモクラシー」の影響で自由主義教育の「新教育運動」が起こった。
その例としては,進放尋常小学校の「自学補導学習」や木田尋常小学校の「童謡教育」などがあった。円山尋常高等小学校ではどうであったかは今後の研究課題である。

 当時の政治状況はどうであったか。
 大正7年(1918)に「米騒動」で寺内内閣が倒れ,政友会総裁原敬が,陸軍・海軍・外務の3大臣を除きすべて党員で内閣を組織し,最初の純然たる「政党内閣」が誕生した。
そして大正14年(1925)に「普通選挙法」(男子普選)が公布された。
この頃には社会運動が高まり,大正11年(1922)には「日本共産党」が非合法下で侵略戦争反対・主権在民の民主主義・国民本位の政治を目指して戦いを始めた。
これらの動きを弾圧するため大正14年(1925)に「治安維持法」が制定された。

 昭和4年(1929)にアメリカで始まった「大恐慌」は全世界に波及し,日本の「昭和恐慌」となり,地方財政を圧迫し教育にも影響を及ぼした。
 また,前年の昭和3年(1928)に思想取締りのために「特別高等警察」(特高)が新設されたことも重要である。こうして暗い時代が進んでいった。

 昭和5年(1930)に浜口首相が狙撃され,右翼の台頭が著しくなると,昭和6年(193)に「満州事変」が起きて15年戦争の口火が切られた。そして,昭和7年(1932)に「満州国」が建国された。

 昭和8年(1933)には,日本は第一次世界大戦後の世界平和を守る「国際連盟」を脱退し,ますます国際的に孤立していった。
 国内的には思想・学問の自由が弾圧されていった。昭和13年(1938)に「国家総動員法」が制定され,統制の強化・国防国家体制の確立が図られた。
 次いで,昭和15年(1940)には,ナチスやファシスト党のように「一国一党制」を主張し,政党は解党して,「大政翼賛会」が成立した。また,労働組合も解散して,「大日本産業報国会」が成立した。
 昭和14年(1939)にドイツはポーランドを侵略し,イギリス・フランスと戦争になり,「第二次世界大戦」が勃発した。
 昭和15年(1940)に「日独伊三国同盟」が結ばれた。
 昭和16年に陸軍大臣東条英樹が現役のまま首相となり,独裁内閣を組織し米英などと戦う「太平洋戦争」に突入し,昭和20年(1945)8月15日の敗戦となった。

 なお,「第二次世界大戦」,「太平洋戦争」は婦人や青少年などに大きな影響を与えた。婦人はそれ以前の昭和7年(1932)に大阪の主婦らが「国防婦人会」を作り,昭和 17年(1942)には「大日本国防婦人会」に統合して戦争に協力した。青少年については次の「3.円山国民学校」で述べることとする。

円山国民学校

 昭和16年(1941)3月の「国民学校令」により,小学校は「国民学校」に改められ,初等科6年,高等科2年の8年間が義務教育とされた。それは戦時体制への即応と皇国民の基礎的練成を目的とした。戦後の昭和22年(1947)にその初等科は再び小学校となった。
 昭和16年4月1日に円山東村が福井市に合併編入された。そして「福井県福井市円山国民学校」と改称するにいたった。
当時の校区は、下中町・北今泉町・東今泉町・北四ツ居町・四ツ居渡町(現在の南四ツ居町)・河増町・下四ツ居町(志比口町、山ノ前町を含む)・米松町と広範囲に亘っていた。当然のこととして児童数が多く、尋常科の児童数は7学級で368名、高等科の児童数は2学級で64名であったと記録されている。
 それ以前のこととして,昭和10年(1935)の「青年学校令」により併設されていた「農業補習学校」と「青年訓練学校」は廃止され,新たに「円山東青年学校」となって円山国民学校に併設された。青年学校では,小学校卒業後に中等学校に進まない者が社会の要請に応ずるように教育された。
 また,昭和15年(1940)に堂前広氏の寄贈で,薪
(たきぎ)を背負って歩きながら本を読んでいる「二宮尊徳先生」の銅像を校門正面に建て,非常時下の勤労・勉学・孝行の模範とされ,全国の他の小学校に銅像が建てられた。
 しかし昭和18年(1943)に戦争用金属不足で,銅像は出陣(供出)された。更に,円山国民学校発足時に「校旗」が北四ツ居町の林慧氏の寄贈で作られた。
 国民学校令の掲げた皇国民としての人間像は,「国体に対する確固たる信念を有し,皇国の使命に対する自覚を有していること」「国運の進展に貢献しうること」「献身奉公の実践力を有していること」などの言葉で示されたが,そうした資質を練成するために,従来の教科は次のように統合再編成された。
  国民科:修身・国語・国史・地理
  理数科:算数・理科
  体練科:武道・体操
  芸能科:音楽・習字・図画・工作・裁縫 
高等科では,芸能科に家事(女子),実業科に農業・工業・商業・水産が加えられた。
 さらに,この時期の学校行事は、時局を色濃く反映しており,戦勝祈願のための神社参拝,出征兵士の歓送,戦傷・戦病兵士の病院への慰問,校区戦没者の慰霊などであった。それらは随時・日常的に行われていたが,昭和16年(1941)の太平洋戦争勃発後は防空訓練などが増加した。
 昭和19年(1944)には本土空襲が激しくなり,「学童集団疎開」が始まり,本県も受け入れ先となった。当時男女共児童は常に防空頭巾を携帯し,女児はモンペをはき,男子先生は茶褐色の国民服を着て,服装は戦時色豊かであった。
 「国家総動員法」に基づき,昭和13年(1938)に「集団的勤労作業実施に関する件」が通知された。市においても「福井市が学童勤労奉仕団」が結成された。円山国民学校においても高学年を中心に道路の除草,神社寺院等の清掃,出征遺家族の農作業の手伝い等が行われた。
 また,昭和1年(1941)に文部省は「青少年学徒食料増産運動」を発表し,年間30日以内は正課として扱うこととされた。戦時下で食料不足となり, 蝗(いなご)採集,田螺(たにし)採集が行われた。さらには米も不足し,校庭を開墾してさつま芋を栽培したりした。こうして食料に限らず衣料品等も配給制度いわゆる「統制経済」に移行した。
 戦争が激しくなり,昭和18 年(1943)に「学徒戦時動員体制確立要綱」が,続いて昭和19年(1944)に「学徒勤労動員実施要綱」が出され,学徒動員が始まった。学徒出陣と共に非常時局となり,ついに教室で勉強ができなくなった。高等科の生徒は先生に引率されて近くの軍需用資材の生産工場へ勤労動員されることとなった。
 昭和20年(1945)7月19日の夕刻に福井大空襲があり,円山地区も被災したが,幸いにも田んぼの中にポツンと建つ一軒家同様の小学校校舎は消失を免れることができた。更に,広島・長崎に原爆投下があり,昭和 20年(1945)8月15日の天皇陛下の玉音放送で無条件降伏となった。
 終戦当時は、小学校の講堂や教室、および廊下には多くの空襲被災者が避難生活をしていたので、2学期が始まっても十分な授業を行うことは不可能であった。
 昭和21年(1946)4月に市は国民学校の整理と学区の変更を行った。円山国民学校は高等科のみとなり,初等科は「日之出国民学校円山分校」となった。

戦後の教育制度
への過渡期

 

 戦後間もなく、福井市はいち早く復興に着手し始めた。しかし、戦災疎開などで従来の小学校のままでは支障が多かったので、翌年の昭和21年4月より、市内の国民学校の整理が行われ、同時に学校区域の変更も実施された。
 これにより、円山国民学校は、同年4月1日より、高等科の児童のみを収容する学校となった。学区は円山・日之出・旭・松本・啓蒙の各校下全域であった。そして円山地区の初等科(尋常科)児童は、日之出国民学校の統合収容されることになった。
 このようにして、円山国民学校には、市の東北部一体の広い地域から高等科児童約320名が通学することになった。そしてまた、初等科は日之出校の分校という形にはなったが、ほとんどの学年は円山校舎を共同で使用し、一部の高学年児童だけが日之出校のバラック校舎で授業を受けるという状況であった。

 昭和21年(1946)11月3日に「日本国憲法」が国会の議決を経て公布された。
 次に昭和22年(1947)3月29日付けで「教育基本法」が公布され,6・3制の新教育制度となった。 同時に「学校教育法」も公布され、いわゆる6・3・3制と呼ばれる教育制度が確立された。これにより義務教育は小学校6年,中学校3年の計9年となった。
 これらの新法は同年4月1日より施行されることになり、円山国民学校高等科はそのまま福井市第四中学校(後の進明中学校)となった。しかし円山校の校舎は手狭で、小学校(昭和22年には日之出校の分校)との共同使用ではきわめて支障が多かったので、昭和23年(1948)に旧進放小学校跡に移転した。同時に併設されていた青年学校は昭和23年3月31日をもって閉校となった。

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