円山小学校再開校 |
目まぐるしい変化を経て、ついに昭和23年4月1日付けをもって、ようやく円山地区の小学校として福井市円山小学校が改めて開校された。
市内には、戦後の混乱の中で、長い伝統を誇りながらも、廃校や統合により消え去るという運命に翻弄された学校がいくつもあった。しかしながら、そのような混乱期の中にあっても、円山という地区名を冠した福井市円山小学校が再び開校できたのは、当時の円山地区住民の総力を挙げての並々ならぬ努力があったからである。
昭和22年4月に開校した第4中学校が移転してからも、財政事情などから新校舎建設は不可能であり、円山小学校での授業は余儀なくされ、小学校の児童たちは大変窮屈で不便な学校生活を強いられていた。
また、円山小学校の再開校と同時に校区の見直しも行われ、新しい校区は下中町・北今泉町・東今泉町・河増町・南四ツ居町・北四ツ居町の6町となり、それまで校区に入っていた米松や下四ツ居地区は日之出小学校の校区に入ることになった。当然のことながら、児童数は減少し、当時の学校規模は職員9名、児童221名、学級数6という小規模校として再出発をした。
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更なる試練 |
戦中戦後の苦境を潜り抜け、再出発を果たした円山小学校であるが、それからわずか2ヶ月あまりの6月28日、今度は天の試練「福井大震災」に見舞われてしまった。この未曾有の大震災によって校舎は忽ちにして全壊してしまったが、学校内での人的被害がなかったことが唯一の救いであった。
この震災により、学校での授業はもちろん不可能となり、児童も職員も全過程が被災してしまった。そこで夏休みの繰上げ実施が行われ、大人も子どもも震災の後始末に終われる日々が続いた。
それでもこのような悪条件の中にあって、8月には当時の進駐米軍より貸与された大型テントを使用して授業が再開された。また、早くも秋には新校舎建設が開始され、翌年春にはその新校舎を使っての学習が再開された。さらに昭和25年秋には屋内体育館の建設が始まり、翌年春には竣工となり、ここにようやく円山小学校としての正常な教育活動を展開することが可能となった。
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復興に向けて |
このように、多くの苦難を乗り越えてきた円山小学校は、児童たちに自信を希望を持たせようと、当時の校長はじめ全職員が知恵を絞り協議を重ね、特別活動として全校児童に珠算を奨励することとした。
職員の熱心な指導と児童たちの意欲的な取り組みによりその成果が着々と現れはじめ、珠算の各種大会において優秀な成績をあげるようになり、ついに昭和28年には「福井県第1位」を獲得するまでになった。
その後も取り組みはますます盛んになり、成績はどんどんあがってきて、県下はもちろん近県での珠算界の王座につくまでになった。そして昭和31年の全国珠算競技大会においては、「全国第2位」という栄冠を勝ち取るまでになった。
小規模校ながらも、全校あげて一丸となり、保護者や地域住民の温かい支援を得ながら意欲的に取り組んだ特別活動としての珠算教育が大きな実を結び、円山小学校は見事に復活した。
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都市化と近代化
の中で
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昭和29年に北四ツ居町地籍に市営住宅団地が造成され、昭和31年には白菊町内会、翌32年には北今泉町地籍に清風園町内会、さらに昭和40年に円山町内会、昭和43年新円山町内会と河増南町内会、また、昭和43年には国道バイパス(現在の国道8号線)が一先ず完成し、住宅や商店などの建設が進んだ。このように新しい町内が誕生し戸数や人口が増えるにつれ、校区の様相も大きく変化し、円山小学校の児童数は徐々に増え始め、昭和43年には学級数11、児童数311名を抱える学校となった。
児童数の増加とともに校舎の拡張が必要となり、昭和43年にはそれまでの木造校舎を取り壊して鉄筋3階校舎が完成した。さらに昭和45年には児童玄関・宿直室・用務員室など、鉄筋2階建てが完成した。昭和46年からは校地の拡張工事が開始され、49年末には総校地面積17.719uが確保され、ほぼ現在の校地となった。
その後も次々と新しい町内会が誕生し、昭和48年には校区内の町内会数は13になった。それにつれて学校規模も大きくなり、学級数12、児童数438名の中規模校へと変貌を遂げた。そして昭和49年には、円山校の開学以来百年目という輝かしい節目をむかえることができた。
昭和50年代に入ると、人口が増え、地区内の町内会の改編が行われて、昭和51年には町内会の数は15町内会となった。
また、バイパス沿いに位置する北四ツ居町や南四ツ居町にも転入者が増え、大町内会へと変身した。当然のことながらこれに比例して円山小学校の児童数は飛躍的に増加し、昭和50年には528名、51年には577名、52年には592名と増え続けた。昭和52年からは県および市より学校保健研究委嘱校の指定を受け、以降健康安全教育に特に力を入れて取り組むことになった。
さらに昭和53年になると児童数は640名、54年には686名と増え続け、昭和56年には692名という開校以来最多数の児童を抱える大規模校となった。そしてそれ以降も多少の変動はあるものの、600名前後の児童数を保ち続けてきた。
この間、学校の校地校舎や施設整備の充実も続けられm昭和54年には南校舎が建設され、59年には体育館の改築が行われた。さらに昭和60年には校庭の周囲にフェンスが完成し、61年には校庭の周囲に樹木の移植が終わり、校庭整備工事が完了した。
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平成へ・・・ |
平成に入り、全国的な少子化現象の影響を受けて児童数が若干減少したが、常時500名を越す児童を抱えている。
教育活動の面では、健康安全教育に加え、平成元年に完成した大規模花壇を使っての花壇作りが開始された。以後、毎年各種花壇コンクールに参加し優れた成績を上げている。
また、平成3年には北校舎の大規模改造が行われ、中庭が完成した。さらに平成7年には、北校舎給食室および中校舎増改築工事が完成し、学校規模相応の施設がようやく整備された。
教育活動の面では、平成7年に福井県視聴覚教育研究大会を開催したことに始まって、同8年には福井からの発信21世紀の学校づくり推進事業・推進校となった。同時に学校におけるマルチメディア通信ネットワークの利用実験メイン校となって、マルチメディアコンピューター21台が設置され、情報技術教育への手始めとなった。
平成13年度からは障害を持つ子どもたちのための「ひまわり学級」(特殊学級)を開設した。
近年は学校での教育活動が多様化してきて、多くの分野での活動が活発に展開されている。最近の主な成果を若干列記してみると次のようなものがある。
・平成8年 第46回全国学校保健研究大会 「学校保健文部大臣表彰」受賞
・平成9年 第41回県歯の少年少女コンテスト 「優秀学校賞」受賞
・平成10年 コンピューターと子ども・音楽創作コンペ’97 「優秀賞」受賞
・平成11年 福井県教職員顕彰 「功績賞」受賞
・平成12年 日本経済新聞社主催スクールホームページグランプリ 「最優秀賞」受賞
・平成13年 第38回全国花いっぱいコンクール地方審査 「最優秀賞」受賞
・平成14年 FBCコンクール春花壇 「国土交通大臣賞」受賞
・平成15年 不死鳥のねがい花壇コンクール 「金賞」受賞
・平成16年 県ふるさとづくり広報誌コンクール 「優秀賞」受賞
・平成17年 FBCコンクール春花壇 「中日新聞社賞」、秋花壇「大賞」受賞
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補 足
(中学校への進学)
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戦後施行された教育制度により、小学校6年を終了した後は中学校に進むことになった。当時の円山小学校の校区には6つの町内が属し、中学校区の線引きは当初は第四中学校であったが、昭和24年に第五中学校(現成和中学校)が開校すると、6つの町内のうち、下中町・北今泉町・東今泉町の3町内地籍の児童は進明中学校(第四中学校)へ、河増町・南四ツ居町・北四ツ居町の3町内地籍の児童は成和中学校(第五中学校)へと二つに分かれて進学することになった。
昭和53年に、それまでの藤岡中学校が円山地区の下中・北今泉両町地籍内に移転新築され、大東中学校として新しく開校した。円山小学校は大東中学校の校区に入り、同年度から円山小学校の卒業生は全員同一の中学校に進むことが出来るようになった。
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