円山史跡めぐり
この場所には詳しい案内板が立っています。散策してみてはいかがでしょうか



1 志比道(永平寺参詣道) この道は城下の中島(現在の日之出小学校附近)より荒川の流れに沿って、四ツ居、河増、寮を経て、吉野の島村、猪谷に出、それより梨ノ木峠を超えて、京善、荒谷を通り、更に志比地方に入る道で、途中2ヶ所の峠越えがあるが、志比地方へ行く道として古くから村人により用いられた道である。
この沿線の村々の起源が非常に古く、この道は生活道として中世以前より開かれていたようだ。
福井、上志比両地方ともに永平寺参拝の近道として利用されていた。
2 おたか道 荒川は以前は九頭竜川の分流が流れ込んでいたので現在よりずっと大きな川であり、水量であった。しかも、比較的平坦な土地を曲流していたのでいったん増水するとたちどころに氾濫し沿岸地域一帯冠水することは珍しくなかった。
そのため、水没しないように土盛の高い「高道」がつくられた。
「高道」が「鷹道」とも言われたのは、藩主が鷹狩りによく利用したからであり、沿道の村人たちは常に土盛を心がけていた。
4 北庄上之郷神明社 中世の頃、河増・東今泉・北今泉の地は「北庄上之郷」といわれていた。今の足羽川北岸には「足羽御厨北庄」といわれた伊勢神宮の神領が古くからおかれていたが、この郷はその一部で最も上流につくられていた神領であった。その社はその神領の鎮守として神宮の神霊を勧請した社である。
石造りの社殿は石龕であるため小さいが古式であり、この社の前にあるこれとほぼ同じ頃に造られたとみられる素朴な石燈篭には、応永三年(1396)という室町初期の紀年銘が沈刻されている。この銘は現在わかっている福井地方の築造物の紀年の銘文としては福井市本堂町の高尾神社にある多重塔の正応三年(1290)の銘に次ぐもので、この神明社が室町初期という古い時代からの由緒ある社であることを示している。
また、この社は「北庄上之郷」の現存する唯一の遺物で貴重な歴史的記念物であるといえる。
6 伊藤三郎右ヱ門屋敷跡 一乗谷に居城を移した朝倉敏景は、一乗谷の要害を中心として国内の要地に一族老臣を配し、また、国内の支配と作戦用兵上の幹線軍用路として、一乗谷に通じる朝倉街道をつくり、沿線の戦略上の要地にも一族郎黨や家臣を配して、これにより国内は水も漏らさぬ支配体制を作り上げていた。
桶田(河増)村は、かつて南条郡の杣山で敗退した甲斐氏等が、この桶田、殿下の地に據ってここでこれを追撃する敏景等と決戦を挑み遂に亡んだ地で朝倉街道の沿線中でも特に要地と見られる地であった。
朝倉氏はここに家臣伊藤三郎右ヱ門を配していた。伊藤の
桶田における館の構えは知るすべもないが、江戸時代の書「城跡考」によるとその屋敷跡は十五間に七間ばかりのものが遺存していると記されている。
7 河増遺跡 この附近は、堀立柱跡の遺構や土器の破片等が出土する古代の集落遺跡とみられる地である。県道福井吉野線の敷設工事に先立って行なわれた調査によって発見されたもので、福井平野のおける古代集落の遺構として貴重な存在であるが、調査発掘した土地が極めてわずかなために未だ全貌は明らかにされていない。
9 今泉小学跡 明治五年に学制が頒布されたが、明治7年にこの地に今泉小学が創立された。当初、その今泉小学はこの真宗西誓寺の本堂を借用して仮校舎として創立され、西誓寺の住職今泉乗該が指導に当たった。この学校へは東今泉・北今泉・下中・河増の四ケ村の生徒を収容した。就学の生徒は男子五十九名、女子は八名であった。
明治九年に、校舎を新築、校舎の規模は総面積18坪余の小さいものであるが、他の学校は民家や寺を借用して仮校舎に当てているのに対し、この今泉小学は率先して専用の校舎を建築していることはそこにこの校下四ケ村の教育に対する強い熱意の程をうかがい知ることができる。
11 永平寺道跡 円山地方より永平寺への参詣するには、近世の頃は通常、下吉野の越坂をたどっていたが、古くは、河増、島、湯谷より梨ノ木峠を超える志比道と下中、西野中を経て湯谷で志比道に出る道とがあった。この道はほとんどの道のようであったが、近道でよく利用されていた。その頃の道は耕地の近代化とともになくなりこの道はわずかにその一部が残ったものである。
13 下中の吉川氏居館跡 戦国の頃、朝倉義景の家臣吉川久太夫が千三百二十八石を領して、この下中に館を構えていたと伝えられている.この地にはその伝承をしのばせる「館」「館の腰」「お館道」などという地名の地籍が今も遺存している。
 米松には、入母屋道の石龕の中に千手観音菩薩坐像が祀られている「古堂様」といわれる祠がある。そしてその祠の後壁に掘出された像の脇にはこの石龕、尊像は慶長五年(1600)に造られたことを示す文字が沈刻されている。
 伝承によれば、この古堂様は吉川久太夫が勧請したものだと言われている。久太夫は米松村に観音像を勧請したが彼が先に悲運の最期を遂げた義景に殉じて亡くなる直前、その尊像を観音堂の別当小角小兵衛に託して加賀国那谷寺にかくさせ、その尊像の写しを領民の安穏を願い、この地に遺して祀らせたのがこの「古堂様」だといわれている。
 死の直前まで久太夫の領民を思う心情には誰しも心打たれぬ者はない尊像である。
3 南・北四ツ居の河戸 円山ではどの村も荒川の川筋にある。昔は九頭竜川の分流がこの荒川に合流していたので水量も多く、かつ流れも足羽川九頭竜川の両氾濫地域の縫合地をうねうねと緩やかに曲流していたので古くから舟運に利用されていた。
陸路運送の十分発達していなかった藩政の頃は、重い荷物を大量に運ぶには船便によるより方法はなかったので、円山のどの村も川筋にあり、舟運に恵まれた村であった。そのため、どの村も「河戸」といわれる船着場があって船荷の積み込みや下ろしをそこで行なっていた。
5 河増の河戸
8 東・北今泉の河戸
14 下中の河戸
10 桜用水 円山の水田を潅漑する三ツ矢・桜の両用水は、城下士民の飲料に供していた「御上水」の水を分水し、それを引いていたので、藩の直轄用水として、流末の小さい江川に至るまでも上水奉行の厳しい支配を受けていた。
それは城下士民の飲料に供する水を確保するためになされたもので、常に水量を測らせ、干天等で流水が少なくなると三ツ矢・桜などの御上水に水源を求めている各用水の分水を次第に制限し、御上水本位の水の管理がなされていた。
そのために円山の水田を養う三ツ矢、桜の両用水は御上水の水を引いている用水として、水引き・水揚げの期日、分水口の構造、川幅はもちろんのことかけ樋の寸法、構造にいたるまで細かく定められてい手、勝手にこれを変えることは堅く禁じられていた。
下四ツ居、丸山、米松、四ツ居渡、新保、北四ツ居村は桜用水により、下中、北今泉、東今泉、河増村は三ツ矢用水によって養われていたが、藩の直轄用水であったために水の苦しみは一通りでなかった。
12 三ツ矢(三ツ屋)用水