東藤島の概要

東藤島地区の地勢・地形   東藤島地区の成立   東藤島地区各時代の概観と史跡     

東藤島地区の地勢・地形

  東藤島地区は、越美山地の油坂峠付近に源を発する九頭竜川が各谷川や河川を集めながら大野・勝山両盆地を流れぬけ、やがて松岡地区で山稜部と分かれを告げて福井平野のど真中を貫流し始める地帯、その流れの河南に広がる地区である。
  集落数は17(林、藤島、泉田、堂島、大和田、北野下、北野上、中ノ郷、橋合、島橋、玄正島、間山、重立、原目、上中、追分、若栄)、9,405kuの面積をもつ地区である。
  九頭竜川の流れは約18,000年の堆積作用によって出来上がった沖積平野上にあり、地表は永年の開墾、整地によって田畑や屋敷地として整備されているが、土を深く掘れば砂や礫が出てくる河原田地帯、その間隙を縫って作られた良田地帯、また地区の西部は流れの水溜りやヨシやアシの生い茂るに任せた湿田地帯等からなっている。
 〔東方〕遠望すれば浄法寺山、たけくらべ丈競山さらに奥越の山々の向こうに霊峰白山が見られ、間近に松岡地区の二本松山、吉野岳が見られる。
 〔北方〕福井県最大の川、九頭竜川の流れを規制する立派な堤防が走り、その向こう側に坂井郡の山々が並んでいる。
 〔西方〕遠く丹生山地の山並み、中でも高須山、国見岳が目に映り、足羽山、大安寺の山並みも見られるが、近頃は福井市のビルに邪魔されて美しい夕日が見づらくなってきたことは、寂しい限りである。
 〔南方〕地区内の重立、間山、原目の小高い山並みの向こうに、文殊山が見渡せる。

  地区内は田園地帯が広がり、縦横に整備された用水や河川には稲作が始まる頃となれば九頭竜川から分流された水が溢れんばかりに流れ、水田を潤し、まさに東藤島地区は、水と緑の宝庫、で「高齢者楽園地」である。

東藤島地区の成立


  東藤島地区は、町村制が施行された明治22年に誕生した旧東藤島村が、約67年間にわたって続いた。
  昭和31年、隣の岡保村と合併して藤岡村になる。
  更に昭和36年、当時広く進められた市町村合併の動きに沿って岡保地区と共に福井市に統合され、現在に至っている。
  したがって、現在の東藤島地区は、旧東藤島村をそのまま継承している地区である。

東藤島地区各代時代の概観と史跡


 @林遺跡(縄文時代)
     地区内の林遺跡はその地層から縄文時代も晩年と推定され、出土した土器石器類によれば、その時代人々が住み活動していたことがわかるが、この遺跡からは稲作につながるものは出てこないので、狩猟生活が中心であったと考えられる。
    
 A原目山古墳(弥生時代)
     弥生時代の遺跡として原目山古墳がある。古墳から出土したのみ鑿やとうす刀子(小刀)か
ら鉄器の普及が確認され、古墳のつくりから弥生時代後期であること、当時の社会にはすでに階層が成立していたことが推察されている。
     原目山古墳第1号墓は、20m×20m×4mの規模で、墓壙内から舟形木棺、その内部から素環頭太刀や鉄刀が出土しており、このような山頂に大規模な墓を作れる首長はかなりの広範囲を治めた者だろうと推測される。

 B正倉院文書に見られる中ノ郷の地名(奈良時代)
「正倉院文書 物部古麻呂解」によると、戸主物部古麻呂及び物部越麻呂と呼ぶ者が中野郷(中ノ郷)に住み、四反弐百九拾四歩の田を開田し、また道守荘においても開田を行って東大寺の寺田としたことが見えている。また当時この地方は足羽郡に属し、和名類聚抄によれば、中野郷(中ノ郷)の他に近辺には足羽郷(足羽山の麓)、少多郷(岡保村寮)、江上郷(松岡)、草原郷(松岡)があったことが書かれている。

 C藤島の荘(平安時代〜戦国時代)
      桓武天皇が平安京に遷都(794年)したのは、奈良時代に進んだ寺院勢力の強化による弊害を修正する意図があったが、福井地方には律令制度に支えられた道守荘、糞置荘などが依然として存在し、逆に各有力者が土地所有を図るために権力者と結合するようになり、次の武家政権へと移行していった。この時代の吉田郡内には藤島の荘(東藤島、中藤島、西藤島、円山西の一部)、曽万布の荘、芝原荘、志比の荘、河合の荘、など数多くの荘が存在し、その中でも藤島の荘は木曽義仲が一たび平泉寺へ寄進して以来、平泉寺衆徒の最も大切な食糧の地として重視され、この荘園が没収されるたびにその帰属問題をめぐって奪還のための争いが行われた。
 D藤島超勝寺と一向一揆
      藤島超勝寺は真宗に属し、古くより越前の名刹として世に知られている寺である。室町時代に入り、当地の領主、斯波馬之助豊郷は、真宗に深く帰依し、本願寺の第五世綽如上人が豊郷の館に宿られた折、上人の次男頓円鸞芸を寺主に迎え(1392年)翌年超勝寺を建立したと伝えられる。また、第八世蓮如上人は文明年間(1469〜1487年)、吉崎御坊から一時法難を避けて藤島超勝寺に避難滞在された。その後四代寺主蓮超は上人の息女蓮周尼を迎えたこともあって本願寺の一族たる寺格を得たといわれている。
      一向一揆は真宗本願寺教団に組織された武士・農民並びに僧侶によって戦われた反体制運動だが、吉崎御坊と藤島超勝寺もこの一向一揆に深く関わっている。中でも永正3年の一揆が最も大きな戦いであった。
1506年6月(永正3年)加賀、越中、能登の一向一揆は、越前の超勝寺、本覚寺宗徒等と共に加越の国境を越えて越前に侵入し、各地に火を放ち瞬く間に九頭竜川以北の地を手中に収め、決戦の体制を整えた。その勢実に30万といわれている。迎え撃つ朝倉勢と高田専修寺、毫接寺、専照寺、誠照寺連合軍は、20分の1の17000で、主力は藤島に本陣を張る朝倉宗滴で、互いに九頭竜川の北と南に陣を敷いたが、朝倉宗滴は先制して川を渡り敵の不意を撃つより外に勝算なしと押し渡ったため、一揆の主力は算を乱し退却し、浮き足立った一揆勢は国境外に逃げ去った。
この戦のあと、朝倉氏は吉崎御坊をはじめ、藤島の超勝寺、和田本覚寺以下、本願寺派の寺々を悉く破却し、関係者を追放し、一般市民でも本願寺派の教えに帰依していたものは所有していた土地財産をすべて没収し、徹底的に制裁を加えたという。しかし加賀の国で日増しに勢いを増した一向一揆の宗徒は、越前を奪還すべく争いを繰り返したが、一進一退の膠着状態になってしまった。
弘治2年3月(1556年)時の将軍足利義輝の勧めに従い争乱は漸く終わりを告げた。国を追われて50年、超勝寺、本覚寺等の本願寺門下の諸寺は、この和睦によってようやくもとの寺に帰ることができた。

 E芝原用水と東藤島地区
峡谷を流れてきた九頭竜川は松岡付近から急に越前平野に広がるので、治水工事が進んでいなかった昔は、松岡付近を分岐点にして多くの分流が自然に作られ、人が定住し水田耕作が始まると、この分流を利用して灌漑のための江川を整えていったであろう。
平安の初めに作られた和名類聚抄の中に足羽郡内の10郷の中に「江上の郷(松岡町室・椚・窪)」を挙げていることから、古くから用水が作られ、江川が整えられていったことが推定される。
芝原用水は、福井城下近辺の地域約4万石の領地を灌漑する用水として重視されたばかりでなく、御上水といわれ、藩政時代には城下の飲料水として使用していたので、藩はこの用水を直轄用水として上水奉行を置いて管理していた。東藤島地区は、この御上水が村の中央を貫流していた為、住民は用水の恩恵を受けることが大きかった一面、上流に住むものの義務として、水の清浄を保持するために格別の注意が要求され、常に厳重な取締りを受けていた。
慶長6年(1601年)、北ノ庄城(後に福井城と改める)が改築された際、福井藩の家老であった本多富正(武生城主)が城のお堀や城下の飲料水の問題もあって最高責任者として芝原用水の開鑿整備にあたったという。

 F元覚堤と比丘尼塚
九頭竜川の流れについては1400有余年の昔、第26代の皇位に就かれた継体天皇が王子として越前に御潜竜のとき、九頭竜・足羽・日野の三大河川を治められて、住民の苦しみをお除きになったと伝えられているが、それ以降、中世時代にかけては、治水らしき事業が無かったものか、明らかでない。
江戸時代に入り、先に述べたとおり本多富正は藩政の根本施策の一つとして格別に治水に意を注ぎ、久しく省みられなかった堤防の修築にも大きな力を尽されたので、永年の水害より開放された人々は、その功績をたたえ彼の号(元覚斉)並びに法名(元覚)にちなみ、中ノ郷付近の堤防を元覚堤と呼ぶようになったと伝えられている。また、当時九頭竜川は松岡の下流、現在の内水面総合センター東端地籍あたりの地点から島橋、玄正島、間山を経て原目の山際に出て荒川に合流する分流があったが、分水のために堤防が切れている上に本流が右に大きく曲がる地点に当たっていたことから、少しの出水にも濁流が堤防に打ち当り、極めて決壊しやすい状態にあったので、富正はこの地点の構築については、格別の努力を払ったという。
この地は比丘尼塚と呼ばれているが、伝説によれば比丘尼を人柱として生きながら土中に埋め堤を築いたと言われ、越前名蹟考などにも載せられているところを見るとよほど古くから語り継がれている話のようである。

 G東藤島地区の近現代
・行政・自治
明治4年の廃藩置県から、何度か県名や県域の変動があり、足羽郡、石川県、敦賀県などを経て明治14年、福井県が誕生した。
明治5年、(1872年)住民を把握する戸籍を作成するため全国的に調査作成が行われ、明治6年の「敦賀県区分表」の中にこの地区関係の大字別戸数が列記されており、それによると、「北野上村50、林村39、中ノ郷村48、泉田村37、藤島村48、島橋村19、上中村71、間山村44、玄正島村20、重立村63、北野下村28、堂島村67、大和田村76、原目村63、合計663戸」とある。橋合、追分、若栄の名称が見えておらず、14の集落であった。
・産業・経済
当地区の産業経済の中心は農業で、農家組合員数は565戸を数え地区全体の48.1%を占めるが、専業農家は10件程度と少なく、殆どが給料あるいは年金に依存する状態である。
各地区の商工業の歴史をたどると、江戸時代の「越前名蹟考」に藤島村枝鍛冶村の項で刀鍛冶加州清光元祖藤島友重の住居、云々の記述が残っている。
また、明治以来東藤島地区を支えてきた工業はやはり織物業である。明治42年(1909年)発行の「吉田郡誌」によれば、同郡内で最も早い創業者は現島橋町のかせ屋家であるという。大正8年(1919年)の地区内織物業者は6件。昭和に入り織物業者の隆盛期となるが、戦争と震災により苦しい時代が続いたため地区内機織業者は昭和28年(1953年)には14件となった。昭和30年代に入ると合成繊維時代に入り、同時にサイジング手法が導入され、品質の向上と生産の合理化が進んだ。昭和40年代になると繊維業界は大量生産による過剰供給から来る値崩れがおこり、発展途上国の繊維産業振興により徐々に競争追い上げを受け業界の活気は次第になくなっている。
一方商業では江戸時代既に堂島町は飴の製造地として名が表れ、その飴を各地へ行商して歩いたようであり、またその飴を受けて売る商いをしていたのが島橋の茶屋であったという。さらに「吉田郡誌」には、九頭竜川の鮎、追分の木葉寿司、島橋の酒などが揚げられている。
昭和28年、「東藤島村商工会」が結成され、当地区の商工業の組織体として改善発達を目指したが、当時の村内商業者は24軒で、昭和31年藤岡村誕生により「藤岡商工会」と名称変更をした時は、東藤島・岡保合わせて製造業者数140、卸売小売業者57件の記録が残っている。
平成13年現在の地区内商工業者数、会員数は次のとおりとなっている。
業種分類 建設業 製造業 卸売業 小売業 サービス業 その他 合計
商工業者数 32名 36名 3名 35名 14名 6名 126名
会員数 25名 26名 2名 32名 10名 2名 97名

・教育・文化
     ≪小学校・中学校≫
明治5年(1872年)学制が公布され、翌年に東藤島小学校の前身である藤島学校(藤島、林、泉田、北野上、中ノ郷、島橋、玄正島、上中)、原目学校(原目、間山、坂下、堅達)、大和田学校(大和田、堂島、北野下、新田三ヶ、南河合新保)が創立された。(重立の児童は吉野学校に通った。現在は坂下、堅達は岡保小、新田三ヶ、南河合新保は中藤小学区。)明治21年(1888年)藤島・原目の学校が合併し上中小学校と改称し、大和田学校は敬進小学校、更に明治41年に大和田小学校と改称した。昭和23年(1948年)に東藤島小学校として上中小学校と大和田小学校が統合され現在に至っている。
一方、小学校修了者が進む中学校が義務教育化され、昭和22年(1947年)村立東藤島中学校が誕生し、昭和24年(1949年)東藤島村、岡保村組合立藤岡中学校が誕生。昭和31年(1956年)藤岡村立藤岡中学校と改称され、昭和36年(1961年)福井市立藤岡中学校に名称を変更した。更に昭和53年(1978年)福井市立大東中学校に統合され現在に至っている。

     ≪公民館≫
第二次世界大戦後廃墟の中から立ち上がったわが国は、昭和24年、社会教育法成立により、地域の社会教育機関の機能を発揮し地域文化の振興の役割を背負って誕生したのが公民館である。東藤島地区は、昭和22年(1947年)他村に先駆けて村役場内に看板を掲げ青空公民館を開設している。
その後当地区は岡保村と合併、吉田郡藤岡村が誕生し、役場も移転したが、公民館はそのまま東藤島出張所内に置かれていた。昭和36年、藤岡村が福井市に編入したが、当公民館は引き続き東藤島出張所に同居していた。昭和51年(1976年)現在の鉄筋二階建ての公民館が新築され、更に昭和61年(1976年)に別館も落成し、ますます地区の社会教育の拠点として充実が図られている。平成5年(1993年)全国優良公民館として文部大臣表彰を受けている。

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