史跡・名所  東安居村
                                書籍 (福井県の伝説より   昭和48年6/20発行)
今の境區は慶應の頃少し北方にあったが、漸次福井市に接近して来た。境の名は足羽・吉田の両群と福井市とに境するとこにあるから起ったのである。昔にはこの地には温泉が湧出したこともある。
菅谷猫出すな
菅谷區はもと吉田郡西藤島村の三朗丸附近にあったが、其の辺に鴨溜があって、福井の殿様は毎年堤づたひに家臣をつれ鷹を使って鴨狩りをせられた。その時「煙出すな」「猫出すな」「子供泣かすな」のおふれを出された。違反したものは牢につながれる厳罰に処せられたので、毎年これにこりた農民は遂に現地に移轉したのである。
白山権現(菅谷)
白山神社の祭神を権現様といふ。元の菅谷の地に五十嵐與左衛門先祖がいた。或る年の六月十八日に川の中からこの権現様を拾ひあげた。それで毎年六月十八日の夜は村人が與左衛門の前庭に集つて踊ることになった。
石の観音(菅谷)
白山神社の境内に、石のカラトの中に四角の石に観音様を刻んだのが納められてある。昔、村の或る人が戯れに観音様に不淨物をかけた。すると其の人は病気にかかつて死んでしまつた。其の家の人は大層怒つて観音様を火葬場に移してしまつたが、村の人々は相談して又神社境内に移し、新しい石のカラトを造つて安置したのであるといふ。
光明寺用水
むかし、境、菅谷、大瀬三村の戸長は殿様に福井影町の錠から水を三村に下さる様にと請うた。若し江を掘つても土地の高低で水が流れない時は、三戸長は自ら首を捧げますと誓約した。さて福井と大瀬との両端に火を點じてのぞいて見ると果して大瀬の地は低く見えるのでこれは大丈夫と三村民は協力して水路を掘つた。かくて水を通さうとしたら光明寺の近くの堤に弱い所があつて意外にも水は田地にあふれて、あはや三戸長の首も風前の燈となり果てやうとした。これを見た光明寺の住職は人の命を助けるのはこの時と手早く寺の畳を持ち出して水口をせき止めて水を荒川の水路に流した。かかる大恩があるによつて今も尚毎年三区の民は貢を持つて寺に禮に詣るといふ。
明里
明治維新前は安居付近一帯は松平家の領地であつた。諸々方々から集つて来る年貢米は明里の大蔵に納入するため殆ど足羽川の船筏をかりた。その時ここの区民はちようもちを命ぜられたが皆正直で勤労を厭はず常に藩主から褒められた。即ち心明るい人の住む所として、明里と呼ばれるやうになつたのである。
御仕置場の跡(明里)
麈芥焼却場の東隣に屠畜場、其の東に石地蔵がある。石地蔵の直後が藩政時代に罪人を仕置した所である。石地蔵は天保年間の飢饉に悪疫流行のため死んだ多くの人の屍を埋んでその上に建てたもので、前の石碑には其の由来を刻んである。縄付の罪人を獄より引出して来るもの今坂者といひ、首切りは誓願寺の輩がこれにあたり白鞘の刀で切つた。さらしものは橋下のものがこれを扱つた。今坂者とは結城秀康が北荘に入部の頃、小山谷瑞源寺の地を浪士の住所と定めたので、其の浪士の子孫を今坂者と呼んだ。今坂者は郡部に於ける探偵で、今坂の名は地名から出たものである。昔、岡、今坂者が御仕置につれて行く途中、醫王寺、妙国寺の前を通る。若し罪人が一歩でもこれ等の寺地に入る時は放免となるのである。しかし多くの罪人は其の力なく何れも悄然として首をうなだれて行過ぎるばかりであつた。ここに一人の出家があつた。或る罪のためつながれて醫王寺の前を通つた。寺の尼は寺地を踏ませようと「ぼたもち」を出家に與へようといつた。出家は「帰りにもらふわい」とて行つた。さて仕置場に至つて役人が首をはねようとすると不思議にも刀が二つに折れてしまつた。よつて神妙なりといふので?は放免になつた。?は約束の通り右の寺に帰つて「ぼたもち」を馳走になつたといふ話もある。
御蔵跡(明里)
明里部落の中程に古びた門を有し、周囲に杉の並木が立つて、一見異様の地所に、福井傅染病院がある。地積約九段歩、ここが松平家の御蔵の跡である。周囲には木柵と、又約九尺幅の堀をめぐらしてある。門前には石橋があり、足羽川には大コート四間のもの二つあつて、昔は、庄屋より舟で運んだ米を陸上げいた所である。福井藩では明里と、南条郡の廣瀬、坂井群の三国とに大倉庫を建てて地方の納米を扱つたが、明里の倉庫は就中規模が宏大であつた。地方米は多くは三国港から大阪、江戸に回漕して売却したのである。
水越の名称
明治維新前後足羽川が氾濫する折毎に、常に當区付近一帯の沼地を通り越して、三国方面に流れたので、自然に水越の名称が起こつたといふ。元は高柳といつた。福井の神明神社はもとこの地にあり、其の他成佛寺の寺みあつた。
明石殿の屋敷跡(水越)
廃藩置県の當時、福井藩士で千石持の明石縫殿氏がこの地の橋下に住居をかまへていた。今は井戸の輪石だけ残つているが、岩堀家の門は明石氏の門であつたのを移築したのであるといふ。
御殿屋敷跡(水越)
下市橋の東の袂から稍東にかたよつた河川堤のある所は、元福井藩主の別荘のあつた地である。藩主、姫君は時々ここに来られた。座敷から眺めると居ながらにして日野川の水にうつる下市山の風景を望みその上釣の遊びにもよいとろだつたからである。御駕の見ゆる時には、大瀬、角折の人家には前似て掃除をなさしめ、雨戸障子など貼りかへしめ、威風堂々と行列せられた。殿様の時は「下によ下によ」の聲、お姫様の行列には「はいれはいれ」の聲もいかめしく、人々は皆土下座して拜んだ。子供は騒いだり指さしなどして不敬なことをしてはと家の外へは出さなかつたものです。
寄宮大神社(大瀬)
下市の山腹に鎭座した寄宮大神社は、元大瀬の大杉の下にあつた。昔或る人が福井の下肥を車につけて、この祠の前を通行した。神様はこれを忌んで、ござ舟にて下市に移らせられた。下市の「大瀬がいち」に一左衛門といふものがあつた。夢の告げにこれを知り、驚いて下市山腹に堂を立てて神の鎭座とした。今の錠者仁左衛門の祖先は大神社の錠まもりであつたといふ。
角折
昔角折君之妹稚子媛が此の地に居住せられたので、此の名が残つたのである。
飯塚
昔元正天皇の御代の頃、行基が諸国巡行の折、此の村に来て神木にて五尺二寸の観音菩薩の像を自ら彫刻したが、堂がなかつたので、塚を造つて其處に御飯の名が起つた。
観音堂(飯塚)
飯塚の神社と並んで建つている。昔は七堂伽藍があつて繁盛を極めた。行基の開く所で、近世神佛混淆の爲神社と並んで位置し、福井の神明神社が支配していたが、維新の際に神佛分離してから、木田の長慶寺の持分となつた。十七年毎に中開帳三十三年毎に本開帳がある。御厨子の内に安置する正観世音菩薩の像は、行基の作で、相好円満の尊像である。天正元年、信長の兵乱の時火災に逢ひ、川向の茅原へ移られ、晝夜光を放たれたので、従来の諸人は奇異の思をなした。観世音堂の住職が尋ねて来て之を見ると果して尊像を信心に拜するものは、現世には七難消滅して七福を生ずるといふ。
亀山神社(下市)
継体天皇の后稚子媛を祀つてある。媛の舊地の地名をとつて亀山神社」と名づけた。神社は初め下市の亀山にあつた。初め大瀬にあつて下市山の中腹に移つた寄宮大神社(継体天皇を祀る)は、これも亀山神社に合祀せられた。寄宮大神社のあつた山の中腹には、今は森の中に石のカラトだけ残つていて木像が二體安置してある。石のカラトはもともと木造の社殿中にあつたが、木造のは亀山神社に移して拜殿とした。石のカラトの屋根のは継体天皇のお顔を刻んである。「かむろし」は北方河岸近くの林中にある、「冠石」の義で、継体天皇の冠をおかれた岩である。「泉」は山の麓にあつて柴山、泉水の古びた形がかすかに残り、又石地蔵が並んでいる。元この地には寺があつたといはれている。
漆ヶ淵(下市)
下市から金屋に至る県道の出張つた所は、日野川と足羽川の合流点で水流はよどんで三四丈の淵をなしている。その岸に大きな岩がある。昔この上で殿様、藩士などの方々が魚釣りをなしたといふ。もとここに大なる漆樹があつた為に漆ヶ淵の名が起つた。
安居城跡(金屋)
下市から金屋に行く途中、道の傍に泉がある。この直上を眺めると約一町の所に平かなる林地があつて、左右の岡にはさまれているのである。これが足羽七城の一なる安居城跡で朝倉孫三郎景行の築いたもの、慶長の頃には戸田武蔵守勝成が居城したことがある。土地の者は御殿地と呼んでいる。明治の初めにはまだ礎石が残つて、城のおもかげがやや残つている。足羽川、日野川の合流点で後は山脈連り漆ヶ淵の要害に立てば萬夫も叶はなかつたであらうと思はれる。城からは山上に上る道、溜池に下る二筋の間道、及び近道、遠道、曲り道など種々あつて、敵を防ぐには容易であると思はしめる。
甘露水(金屋)
弘祥寺跡に殿様のうば(局)の墓がある。石材で柵をめぐらし下は石にて畳んである。正面には「不老院殿春菴看花大信女」の文字があるといふ。局の墓の前にある楕円形で拾も瓜を半分に割つた如く土地の人は死に水にこれを汲み、病人にも與へるといふ。
弘祥寺跡(金屋)
金屋の山麓で、前に川をひかへ眺めのよい小高い所に、昔隆盛を極めた弘祥寺の跡がある。今は田となつているが、前に石佛と古い柿の木がある。明治年間には寺下に四軒残つていたが今はない。近くに不動堂がある。これは門徒の建てたものであるといふ。この寺が廢せられるとき宝物什器の一切は大安寺に送つたといふことである。
大渡、小渡
河川改修前は大渡、小渡の二区存在していたが今日はこの区はない。大渡は角折と下市とを連絡する渡しであつたが、今はス少し下流に二光橋が出来たので廃止された。小渡は金屋と社村の東下野とを連絡する渡しで、今は個人的に金屋の茶屋が営んでいて、船賃も二銭となつている。これは昔の小渡の名残であらう。天正十一年四月に羽柴秀吉が柴田勝家を北荘に攻めたとき毛矢河の渡の船方をこの大渡、小渡のものに命じ、後其の褒美として同村の宅地千八十歩は免租の恩典を與へた。
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