西安居村
                 書籍 (福井県の伝説より   昭和48年6/20発行)             東安居公民館
西安居村
安居の名は昔應神天皇三世之孫阿居乃王の居住地であつたところから起つた。中世には安居と書き、明治二十二年、町村制寛施の際に足羽郡の東安居村と区別するために西安居村と命名した。
五太子ノ瀧(五太子)
大丹生川の上流は、水が清らかで山椒魚や河鹿等を産し、初夏の頃は河鹿は愛らしく啼く。此の川が、五太子の地籍で六十余尺の断崖より直下して、所謂五太子の瀧となつている。幅四尺位、水音が高く響いて皷を打つ様であるから里人は鳴瀧と称している。下流には香魚を産する。
五太子の塚
五太子の字樓の尾に大塚、小塚、知行塚と呼ぶ三個の小丘がある。古くから古墳であると言ひ伝へている。
三ッ淵(上一光)
貞享元年に上一光の山岳が崩れて三個の池を作つたが、漸次埋もれて一個と成つたが、面積も広く、底の深さもいくらか分からず、常に紺碧の清水を湛えて、大蛇が棲んでいると言はれていたが、現今は長さ百間、巾三十間、深さ一丈余りである。
御花杉(一光旧道)
一光旧道峠の頂上に一本杉とて周囲約一丈七尺、更に手入した事がなく、幹の下部から枝を密生して、皹る繁茂している杉の古木がある。昔何人かが越知大権現へ遥かに供へた御花であると言はれている。
漆千ばい朱千ばい(末)
末区字方丈谷に旧時の遺物の伽藍の礎石乃大門の跡と称する礎石等が存在し、それより少し隔てて道元禅師の像を安置した古堂がある。昔、阻曹洞宗の本山永平寺は此の地にあつたが、兵火に罹つたので寺像や宝物全部を牛に背負はせて、何れへなりと縁ある処へ退去せよと放つたところ、牛は吉田郡志比谷に至つたといはれている。又其の隣字の乱登(卵塔といふのを後世乱登と誤つたのであらう)は当時の和尚の入定した地で「為徳光明澤公禅師也」「天文二年八月四日」と刻んだ墓碑があり、地下には漆と朱とを埋めてあるとて「漆千ばい朱千ばい」と言はれている。当地にて白椿を発見したものだけ、此の地を掘る資格が有り、余人は此の地を掘れば蛇が出る。入定和尚は蛇に化したのであるからとて、手を触れる者なく、草木は自然のままに繁茂している。
蛭子神社(末)
末の字牧谷にある神社で蛭子神社を祀る。籌永三年に佐々木四郎高綱が、近江国より当地へ移転の際に守本尊としていたのを、社殿を造営して祀つたのであると。
木末神社
末の字下前田にある。八衢彦命を祀る。昔弘法大師が諸国巡教の際に一本の木で三体の地蔵尊を造り、其の本なる一体は近江の国に、其の末なる一体は当地に祀つた。故に其の地名を近江の木の本、越前の木の末と名づけたが、後世略して末と称する様になつたと。(末の地は昔陶(すえ)を製造した地であるから此の名が起つたともうふ)。
天狗松(更毛)
更毛の字柳谷山地に周囲約六尺の繁茂せる寄生の臺笠形の老松樹がある。里人は之を天狗の巣と呼んで伐採することを恐れている。
御薬師湯(本堂)
本堂の字楽師と称する山地に大国主命を祀つた神社があつたが、明治四十一年に高雄神社へ合祀した。この地に面積十坪程の冷泉がある。薬師の夢想があつたとて之を御薬師湯と称して、煮沸して浴すると皮膚病に効がある。或る時ここの石を破壊して、他の石垣に使用しようとした石工に、崇があつたと伝へている。
古墳(本堂)
本堂の字大光(王子を後世大光と誤つたのではないかといふ)畑地の中に古墳の発掘破壊された跡がある。これは或は阿居乃王の御墳墓ではないかといはれている。附近にも古墳が破壊されて田畑と化しているところがあるといふ此の田地を所有する者には崇があると伝へている。
畑を陷すは青木より(本堂)
本堂区に字城箇谷と呼ぶ高い山が有る。絶頂の面積は約一反歩で周囲に空堀の跡が連続した凹地が有る。ここは畑時能(はたときよし)の臣、青木其の居城した所であるといふ。坂井群鷹巣城の畑時能を攻め陷せとの意味で「畑を陷すは青木より」といふ口碑が今に遺つている。しかし居城としては低い様であるから古墳ではないかといふ説もある。
狼岩(本堂)
本堂区の字佛谷山地に大きい数個の岩石が堆積して自然に洞穴を成しているところがある。昔狼が此の中に棲んでいた。洞穴は深くて凄い。
?子岩(本堂)
本堂の字松谷山地に楕円形の?子に似た直径約一丈の石がある。昔弁慶がこの岩を箸に差して山上から此所に投げたのであると里人はいつている。
人身供養(本堂)
本堂の字松手に月読命を祀り高雄大権現に属した宵宮(よいのみや)があつたが、明治四十一年に高雄神社に合祀し、今は秋季例祭獅子の渡御に用ふる御旅所のみ在す。昔は毎年、秋季例祭前日郷内の幼女を持つ者は神籤を抽き、富籤者の母は同夜之を伴うて人身供養として宵宮に献じた。其の途中街道の中央に青黒色の滑かな天然の大石橋が有る。之を越えると宮に近いのでここで、今世の名残りに母は我が娘に乳房を握らせて、訣れを惜しんだから、此の石橋を死兒(しにこ)の橋と呼び今も存在している。若し此の人身供養えを缺くと、郷内三千石の田畑は荒されて、大不作となるので、年々継続して来たが、或る年猿田彦の後裔だと言ふ一人の武士が来て、それは必ず妖怪変化狐狸の所業であらう、退治してやらうと、自ら幼女に代つて犠牲にとなり、厚板にて造つた箱に幾個の穴を穿けて、其の中に潜んで待つていた。真夜中頃果して怪物が来て箱を撫で回し、やがて穴より手を挿し込んだ。武士はここぞと其の手を?むや否や斬取つてしまつたので、怪物は其の儘どこかへ逃げ去つた。翌朝村民等は、前夜の模様は如何に成つたかと案じながら来て見ると、武士は無事で、夜中にあつた次第を物語つて、老樹の繁茂している神々しい高雄大権現社殿の後方に鋤鍬?棒等を携へて、滴り落ちている血痕を辿っつて行くと、老樹の繁茂している神々しい高雄大権現社殿の後方に、片手を切り取られて呻いている。大古貉(むじな)を発見し大勢にて毆き殺し、件の武士を徳として長く氏神として之を祀り、春は三月二十六日、秋は九月十三日に祭礼を行い十二日の昼は郷内を獅子の渡御、同夜は本社より宵宮へ猿田彦乃獅子の渡御、十三日昼は宵宮より本社に還御せられる。又宵宮への渡御乃本社への還御の時は獅子の顔前に笹を覆うて徐行する。此の笹を棒持するものは兒童で「祭礼々々御祭礼ステデコデン(太鼓の昔の形容)ト行クマイカ・・・・・・・」死兒(しにこ)の橋ヲ越ヘタレバ大(いか)イ乳ヲ握ラシテ・・・・・・」と節面白く大声に口唱し太鼓を敲いて之を囃す。其の昔は単調で技巧のすぐれたものではないが、一種の簡古な味なひを感じさせる。そうして其の宮に近づくに隋つて歩を速め囃を急にし、宵宮へ渡御の時は死兒の橋にて、本社へ還御の時は大門にて、獅子頭を数回振廻し、奮迅の勢で社内に駆け入るのである。これが終つた時、?飯(十二日の昼、郷内渡御の際氏子より献じた御膳米で製したものでオンモクと呼んでいる)を、腕力の強い者が高臺の上から参詣者中の強力者は競うて之を奪ひとる。其の様は蠻風であるが亦無邪気である。尚、獅子の守護を勤めるものは本堂区の堂下喜右衛門、堂下吉太夫、宮越傳兵衛、圓光庄太夫等である。大正二年の秋季例祭以降祭日を春は四月十三日に、秋は九月二十六日に変更したが、郷内旧七ヶ村同時に祭礼を営み、人身供養の遺物である前記の行事は今尚存している。
鼻缺堂の跡(恐神)
恐神(おそがみ)区の字溜池谷の内に鼻缺堂と呼ぶ池がある。昔田の中から発見したと伝へられる、半ば磨滅した大きい舟御光型の、石地蔵を安置した古堂があつたが、明治の中頃字宮の下の現在の地に移した。
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