西藤島村
                  書籍 (福井県の伝説より   昭和48年6/20発行)             東安居公民館
底喰川の蜆
福井市の下水の流れ込む川に底喰川(そこばみがわ)がある、昔は屈曲した川で、降雨の際にはすぐに氾濫した。この川と九頭竜川の氾濫のために、この附近にあつた藤島神社は福井市の足羽山に移されたのである。この底喰川には蜆(しじみ)がたくさんいる。それは福井藩主松平治公のとき、蜆をこの川に放たれたからである。昔はこの川に底喰といふ恐しい大蛇がいて見る人の膽を奪つたのである。
一口観音(牧島)
観世音堂長安寺は牧島(まきのしま)にある。本尊十一面観音は、寛永年中に底喰川権現橋の流から出現したもので、何事でも一口祈願すれば叶へてもらへるといふので一口観音とも云はれている。この境内に鷹を彫つた石燈籠がある。寛永の頃福井藩主忠昌公が牧の島で放鷹をされた時、鷹の足革が樹枝に引かかつてどうすることも出来ず鷹匠はすつかり当惑した。その時たまたま通り合わせた飯島新左衛門由久は早速藪の竹を切つて弓となし、懐中から一鏃を取り出して、絡つた所を射切つて無事に鷹匠に渡したので、皆はあつといつて感歎した。忠昌公は直ぐに由久を召抱へて家来にされた。由久は矢を放つ時一口観音に祈願して目的を達したので其の御報謝のために此の石燈籠を寄進したのである。
祇王御前の屋敷跡(三朗丸)
祇王御前の屋敷跡といふのが三朗丸にある。祇王は平清盛に召された白拍子であつた。此の御前の守り佛だつたといふ如意輪の堂が此所にあるとか、祇王が佛御前におもひかへられて入道の屋形を出るとて障子に書付けたといふ歌は
        もえ出るも 枯るるも同じ 野べの草
            いづれか秋に あはではつべき
新田塚(三ツ屋)
新田義貞戦死の後三百余年明暦年中、三ツ屋の農民嘉兵衛といふものが土地を開墾して一の古兜を発見し、恠しいと思つたまま持帰つたが、嘉兵衛の老婆は何心なくそれを績笥の用に充てていた。時に福井藩士中に其の頃聞えていた井原番右衛門といふものが或日鷹狩に出て余すがら嘉兵衛の家に憩んだ折ふとこの績笥の唯ならぬのを見て其の由を聞いて打ながめていたが、嘉兵衛に請うて持帰り、愛玩の余朝夕摩擦していると、錆固つた古質もいつの間にか光澤を添へ四十二の筋線を現はしさては三十番神號さへはつきりと読まれ裏面には暦鷹元八月相摸国の刻字さへ見え名工名珍の作と思はれた。古書に義貞公の御冑には三十番神號を刻んであると書いてあるのに思合せて、藩主松平光通公に差出した。候は大そう喜んで其の地の六十数間を棚にて限つて牧樵どもの濫りに出入することを禁じて碑をたてて其の遺跡を表した。これが新田塚のおこりである。
善照寺(海老助)
源頼朝の臣熊谷蓮生房直寛の子孫が足利氏に従つて黒丸城にて戦つたが、戦後脱俗出家して真言宗を学び一寺を三朗丸に開いて熊谷山善国寺と称したが、文明中に蓮如上人が越前に来錫された時之に帰依して法名を善知と與へられた。よつて善知を中興の開基とする。天正年中一揆騒のとき豊臣秀吉は焚かれたので三ツ屋に移り、更に地蔵堂に移し、元禄年中に現今の地に轉じ熊谷山善照寺と称する様になつた。
元旦の雑煮餅(黒丸)
小黒丸城が新田義貞に攻められた時は大歳の晩から正月元旦にかけてであつたので、村内は大騒ぎで、元旦の雑煮餅をたべる所ではなかつた。其が例になつて元旦は午前十時からでないと雑煮餅を食べないことにしている。或る家でその時間より早く食べたら家の都合がだんだん悪くなつて、後には財産を売払はねばならなくなつて他所へ行つてしまつたといわれている。勿論十時前でも他所の村で食べるのは、差しつかへない。又元旦に白い餅を煮ると鈎縄の上へ白蛇が下るともいはれている。
小黒丸城址(黒丸)
斯波高経の足羽七城の一なる小黒丸城址は黒丸にある。近くに郡といふ部落があるので郡の黒丸とも呼んだ。延元四年七月十六日に官軍(脇屋義助等新田義貞の弔合戦のため)が東西から攻めたので高経は城に火をかけて加賀国に逃げて行つた。
首塚(郡)
天正年中の一揆騒動の時、敵みかたが討取つたところの首を互に陣に埋めて首塚を築いた。その首塚である。
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