本郷ってこんなところ |
史跡龍興寺跡について |
竜興寺は八幡町南東の山頂(海抜220メートル)にあり、永享初年(1429年)安居代官藤原清長により創建され、天正二年(1574 )一向一揆の放火のため廃寺となるまで、約140年間繁栄した大寺であった。曹洞宗の寺として、最盛期には七堂伽藍を誇った名刺と言われ、当時、「八幡の竜興寺」または「本郷の竜興寺」と呼ばれていた。江戸期(1743年頃)に書かれた「越藩拾遺録」には次のように記されている。 本郷竜興寺小豆坂ノ奥ニアリ。曹洞希明の開祖ニテ、七堂伽藍ノ大地ナルニ、天正二年兵火ニカカリテ退転シ、ソノ跡ニ百姓家一軒残レリ。希明ハ天真ノ弟子、四哲の内也。本尊・開山ノ像・宝物等、末寺故ニ福井心月寺ニ在り。 これによると、本尊・開山の木像・宝物等は末寺の心月寺にあることになっているがこれらは明治33年4月19日の大火で焼失して現存しない。 また、今庄町宅良にある慈眼寺保存の古文書によると、「この寺の開山は希明であり、慈眼寺の天真禅師の直弟子であった。また、福井市玉井町にある心月寺は龍興寺の末寺である」と書かれている。 寺跡は、八幡町の集落から林道を数百メートルほど入り、さらに、徒歩で20分ほど登ったところにある。「越前国名勝志」(1738年頃)にも「本郷竜興寺の跡小豆坂の奥山の上にあり」と書かれている。この小豆坂については、「越前名跡考」(1815年頃)に大安寺剣大谷より竜興寺に至る登り坂であると記されている。小豆坂の土は小豆色をしている事から名付けられたようである。 寺跡は昭和30年代頃までは農地として稲作をしており、耕作人はそこで生活をしていた。現在は、植林したスギが大きく成長して鬱蒼としている。そのため古井戸や十数基の崩れた五輪塔や礎石らしい石があちこちに散在しているだけで往時の面影は全く見られない。 また朝倉始末記によると永禄四年(1561)四月六日、朝倉義景は一万余人の軍勢を連れて三里浜で犬追物を見物したとき、竜興寺で一泊したと書かれている。 また天正元年(五七三)に織田の軍勢に攻めこまれ、朝倉時代が終わりを告げ義景の終蔦のあと、義景の二人の娘が暫くここに隠れていたといわれている。 天正二年(1574)六月一八日当寺院は、一向一揆軍の争乱によって放火され、灰塵となる。現在、寺跡に残っている石塔の読むことのできる銘文には 五輪塔に「永正一七年(1520)六月五日永仲宗長 石像仏の背銘には「天文八年二五三九)巳亥八月□旨求敬白」 と彫りこんであるものがある。(□は読み取れない) 五輪塔に掘り込んである「永仲宗長」は、朝倉一族で北庄城主の朝倉土佐守頼景の戒名で、竜興寺は朝倉土佐守家の菩提寺であると云われている。 竜興寺で禅僧として修業したといわれる朝倉金吾宗滴は、朝倉敏景(初代孝景)の八男であり、文明九年(1477)に生まれ、一族中の剛勇といわれ、敦賀城主となった。永正三年(1506)に加賀と越前の連合する大規模な一向一揆があったが、これを朝倉金吾宗滴の率いる軍勢が撃退している。3代貞景から5代義景まで3代にわたり、越前朝倉氏の軍奉行として朝倉軍を率い、数々の武勲を立て、朝倉家の隆盛を支えたが、天文二四年(1555)九月に亡くなった。
朝倉氏の越前支配下において天真派は同氏や一族の外護を受けて、いくつかの寺院を建立している。桃庵の弟子の芥室令拾は永春寺(福井市つくも)の開山となっている。同寺は一族で北庄城主であった頼景が建立した寺院であった。芥室の法孫である勧雄宗学は、やはり北庄城主の朝倉景行の外護を受けて慶相院(福井市つくも)を開山している。 【龍興寺跡整備活動・ウォークイベント活動】 本郷地区では、越前朝倉氏とゆかりが深い龍興寺跡について、平成25年より森林所有者や福井森林組合の協力を得て、文化財龍興寺跡周辺の遊歩道や竹林、池周り整備等による環境保全活動や案内看板設置等を行うとともに、ふるさとの森林里山と文化財、歴史を知る子供向け森林環境教育・山林体験教室等を開催しています。 龍興寺跡整備活動・ウォークイベント紹介 ◎やろっさFUKUI 山の恵みを楽しもう-龍興寺イベント 2018.11.16 林道途中の白山遥拝所 龍興寺跡前広場 龍興寺跡五輪塔 龍興寺池 石塔群 お不動さん 秋の龍興寺ウォーク「山の恵みを楽しもう」 |
本郷公民館から車で約6km、約15分公民館から県道福井・大森・河野線を南進、大年町で左折 市道大年−四十谷線を東進、途中案内看板で左折、作業道に 作業道を案内看板に沿って、龍興寺跡近く広場まで |