啓蒙の宝を探せ!

平成2年当時の地図(クリック)

名前の由来 (由緒ある啓蒙)
啓蒙小学校の校下を私たちは「啓蒙地区」と呼んでいる。
啓蒙の名が「啓蒙」小学校に由来するのは間違いないだろう。
それでは啓蒙小学校の名前はいつつけられたのだろう。
『啓蒙小学校開校百年記念誌』によると明治20年(1887)10月、
開発小学校から啓蒙小学校に改称されたとある。
童蒙の知能と徳を磨く、扉を開いて文明の光を入れるという意味で
啓蒙と名づけたのであろう。
名付け親については、
初代校長の村上正孚先生と松平春獄公との2説がある。

   松平春獄公が付けたといわれる校名
  道明 − 現在の松本小学校
  進放 − 現在の進明中学校の所にあった
        (進明中学校の名は進放と道明からとった)
  原泉 − 現在の宝永小学校
  敬進 − 東藤島地区大和田にあった小学校 

明治から昭和初期まで啓蒙小学校の講堂には、春獄公の筆による
「啓蒙」の額が掲げられていて、当時の教育訓練のよりどころとなっていた。
残念なことに昭和6年の火災でこの額は焼失してしまった。
私たちの祖先
このあたりに人が住み始めたのはいつ頃だろう。
新保遺跡からの出土品が一つの手がかりを与えてくれている。
昭和47年(1972)に林遺跡の土地改良事業に関連して、
隣接する新保地係で緊急発掘調査が行われた。
その時に水路、溝、矢板、土器などが出土し、新保遺跡と命名した。
これらの出土品は、弥生時代後期から古墳時代前期のものと推定された。
わが国で稲作が始まったのは、約2000年前の弥生時代であり、
新保遺跡から発掘された矢板使用の溝や畦は農業用施設と考えられている。
だから、私たちの祖先は2000年前から1500年前にはすでに、
このあたりの比較的高い所に住みつき、溝や矢板、水路、農耕具、
米貯蔵用の土器その他、生産や生活に必要ないろいろなものを作りながら
低湿な沖積地で稲作を行っていたようである。
地名、人名などが初めて記録に現れるのを初見というが
丸山、開発、新保の初見は次のとおりとされる。
丸山 − 1340年 新田方の黒丸城に対して、足利方の得江頼員が
丸岡(丸山)に城を築いて対抗した。(東大資料編纂所保管尊経閣文庫)
開発 − 1374年 大乗院の御忌(命日の法事)の費用を開発などから納めた
年貢でまかなった。(京都大学保管明王院文書)
新保 − 1646年 正保郷帳に新保村高1,835石2斗2升と出てくる。
地区の沿革
啓蒙地区は、福井市中心部より北東に位置し、
昭和17年(1942)に福井市に編入するまでは吉田郡円山西村と称し、
啓蒙のシンボルマークになっているはん榛の木が
地区のほとんどの田んぼに植えられていた純農村地帯であった。
芝原用水の恩恵を授かり、永平寺や勝山に至る街道と
旧京福電鉄越前線沿いに発展してきました。
近年めざましく開発され、大型ショッピングセンターや自治体、メディア関連
などの施設を多く有し、戸数2000戸、7000人の商業ゾーンと農家の
混在する地区になりました。
また、国道8号線と国道416号線が交わる交通の要所であり、
今や福井市の副都心である。
歴史と文化のあるこの地区は、今後も発展を続け21世紀にはばたく
一大情報発信地を担う役割を果します。
こういう地域
新保
越前18新保のひとつで、この名前は新しい村の意味である。
鏡味明克三重大学教授によると
「福井県に多い地名としては、まず新保や“かいほつ”と
読む開発があげられる。
新保は本保に対する新開墾地を意味する中世地名で、
福井県から新潟県まで北陸一円に広く分布するものである。
また、開発も文字通り開墾地で、越前、加賀、越中に多い地名。
新保も開発も、北陸と近接する滋賀県以外の他の地方には、
ほとんど見られないものである。」
新保とは、このように新しくつくられた村、元村に対する分村、
親村に対する枝村である。
慶長11年(1616)の「越前国絵図」を見ると
新保は林之郷に含まれており、慶長から正保までの期間に
林之郷から分離し独立した。
都市の近郊であるという利点をいかして、
ウリ、ナスなど菰菜類の生産、出荷が盛んに行われた。
昭和43年(1968) 福井バイパス(のちの国道8号)が
新保地係を通過し、その後、現国道416号線とつながり、
隣接の開発町とともに商業ゾーンを形成しつつある。
開発
「開発」という字のイメージから、
開拓に関係のある地名と考えられがちであるが、
カイホツという地名は、仏教用語の「宿善の開発」
(しゅうぜんのかいほつ)
から名づけられたと伝えられている。
大正3(1914)越前電鉄福井〜大野口間が開通したが、
「駅ができると開発の金が出ていく」との理由で、
昭和7年(1932)まで駅が開設されなかった、というエピソードがある。
啓蒙地区ではかつて冬期農閑期の副業として手箒づくりが
盛んであり、開発では年間十数万本を生産した。
昭和39年(1964)の福井国体を契機として、
関連道路整備事業が進展した。
同43年(1968)福井バイパス(のちの国道8号)丸山〜大町間、
同48年(1973)には丸岡〜丸山間が開通し、
その後、現国道416号と接続し、整備された。
続いて、主要幹線街路として明治橋開発線と東環状線が
開発を通過し、この道路体系の整備を受けて、昭和49年(1974)、
隣接の大和田町に福井市中央卸売り市場が建設された。
これを皮切りに、工場、オフィス、配送センター、倉庫、大型店舗、
ホテル、遊技場、飲食店、ホームセンター、医療機関、金融機関
などが相次いで進出し、いまや一大商業ゾーンへと
変貌を遂げている。

(注)
御文章「平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふことわりを
ききひらくことは、宿善の開発によるがゆゑなり...」
   宿善とは…前世に積んだ善根
丸山
丸山はむかし丸岡山といった。
地名の由来は丸山という山の名前から来ている。
丸山の頂上に古墳があり、昭和29年(1954)福井市上水道の
配水池工事で発見された。
工事用に測量された図面から墳丘を推測すると
円墳または前方後円墳であったと考えられるため、
丸山古墳と命名されたという。
真宗大谷派願応寺の寺伝によると、
新田義貞戦死のとき家臣田村義智が丸岡(開発南畑の地)に
隠れ、剃髪し智観と称し天台宗に帰依、
のちに村民と丸山のふもとに移り村をなした
とあるのが丸山の起源である。
田村全有、太田権右エ門の家塾が基礎となり、明治7年(1874)には
丸山小学校が設立された。
(後に開発村の開発小学校に統合された)
昭和43年(1968)福井バイパス(のちの国道8号)の開通を
契機として、保養施設、ショッピングセンターなどの進出があり、
市街地化が進んだ。
長本
長本は芝原用水沿いの丸山の小字であった。
いつごろから家屋が建ち始めたか判然としないが、
明治末または大正期には、すでに集落があったと思われる。
ある程度の戸数がそろって丸山の垣内つまり地域として
発足したのは昭和3年(1928)。
会計の自治が認められたのは昭和8年(1933)で、
この時が事実上の独立といえる。
長本町が行政区としてスタートしたのは、昭和17年(1942)、
円山西村が福井市に編入した時である。
芝原用水と勝山街道に沿って人家が集まり発展した、
その名のとおり長い町である。
昭和50年代、福井市の東部第5区画整理事業の完成によって、
県道南側一帯の宅地化が一気に進んだ。
芝原用水の改修や国道8号バイパス、東環状線の開通も
発展に大きく貢献した。
丸山の出村として発生しながら、農家は一軒もなく、
古くは機屋、現在は会社、商店、民家などが
渾然一体となっているのも特徴のひとつである。
開発橋のたもとに「永平寺へ三里十一丁」と彫られた
笏谷石製の道標がある。
福井から永平寺への参道として賑わった往時が偲ばれる。

西開発
元来は水田地帯であったが、
昭和38、39年頃の東環状線の通過をきっかけに、
開発町の業者によって宅地造成が行われた。
この地を購入した者が、昭和40年(1965)秋頃から
家屋の新築にかかり、翌年までに新築された7軒によって
開発第9町内会が結成された。
これが現在の西開発1丁目町内会の始まりである。
啓蒙小学校や進明中学校はもとより県立病院や
京福電鉄福井口駅に近くかつ閑静で生活環境に最適な
ところから、永住の地として求め集まってきた方々によって
急速に発展し今日に至っている。
宅地造成当初は、松本上町や開発町広安という地名で
あったが、開発町の農地委員や区画整理組合、
町内会の代表が協議した結果、
「西開発」という地名がよいということになり、
昭和41年(1966)福井市の町名改訂によって
正式に西開発1丁目と称することになった。