数の世界


2002/ 1/14作製
フェルマーの最終定理(4)

Story of math-master


アンドリュー・ワイルズ

1993年6月23日 フェルマーの最終定理ついに解決か!

1993年6月下旬、プリンストン大学のアンドリュー・ワイルズは数学の国際会議のためイギリス・ケンブリッジへ旅立った。ケンブリッジはワイルズが大学院時代をすごした古巣で、ワイルズの指導教官であったコーツ教授が会議を主催していた。今回の国際会議は「岩澤理論」がテーマで、ワイルズは学位論文で岩澤理論をあつかっていて、その分野の権威でもあった。

コーツ教授はワイルズに、国際会議で1時間程度の短い講演を依頼していた。ところがワイルズから3時間の講演時間を打診され、逆にコーツ教授は驚いた。 ワイルズは過去7年間、自宅の屋根裏にある書斎で孤独な戦いをしていた。子供時代の夢であった、未解決のフェルマー予想に挑んでいたのであった。

ワイルズの講演は、最近オープンしたばかりのケンブリッジのアイザック・ニュートン数理科学研究所で行われた。ワイルズの演題は「モジュラー形式(=保型形式)、楕円曲線、ガロア表現」というものだったが、講演の内容はこの分野の専門家でも想像つかなかった。

  • 6月21日午前10時、講演初日がはじまった。聴講者は20数名程度であった。ワイルズは、思いがけない数学的成果を披露したが、講演はまだ2日分も残っていた。
  • 6月22日午前10時、2日目は前日内容を聞きつけて大勢の聴講者が来ていた。ワイルズの講演は力強く、抽象的な証明を伴った数々新しい定理を発表した。この先どうなるのか、ワイルズは何のヒントも与えずに急いで会場を立ち去った。
  • 6月23日午前10時、3日目は人混みをかき分けて演壇に行くほどになっていた。入口の外にまで立ち見の人であふれ、多くの人がカメラを用意していた。ワイルズの講演は、難解な「谷山・志村予想」を慎重に解説し、彼の証明を黒板に書き終えた。そして、最期に1行を書き加えた。

       「このことから、フェルマーの最終定理は証明されます。」

    一瞬会場は沈黙した。それから、聴衆の称賛の声があがり、カメラのフラシュがたかれ、全員が総立ちでワイルズの証明を祝った。数分以内に、電子メールが飛び交い、ファックスは世界中にニュースを伝えた。
数学の歴史上、最も有名な難問が、いま解決されたと会議の聴衆は確信していた。(参考3/p14-18)


アンドリュー・ワイルズの憂鬱

1994年9月19日 アンドリュー・ワイルズ

●問題発生
ワイルズの提出した200ページを超える論文に、6人のレフリーがついた。(通常は1、2人)ところが8月になって、問題が見つかった。かれの必死の努力にもかかわらず半年が過ぎ、とうとう12月に次のような声明を発表した。
「不完全な部分を発見したが、近い将来に克服されると思う。2月に始まるプリンストン大学での講義において完全な証明を述べる予定である。」

●共同作業
1994年1月から、レフリーの一人で且つ教え子でもあるリチャード・テーラー(ケンブリッジ大)との共同作業が始まった。しかし、夏になっても二人の仕事に進展はなかった。敗北宣言が脳裏をかすめ、弱音を吐くようになったワイルズをテイラーはもう1ヶ月頑張ってみましょうと励ました。

●美しい瞬間
ワイルズは欠陥のある第3章(コリバギン・フラッハ法の関する部分)を捨てる気持ちになっていた。9月19日彼は、せめて慰めにその敗因を調べていた。
「突然、まったく不意に信じがたい閃きに打たれました。コリバギン・フラッハ法だけでは駄目だが、岩澤理論と合わせると上手く行くことに気づいたのです。」
ワイルズはテーラーに電話で伝え、テーラーはそれをもとに厳密な証明を作り上げた。 10月に2つの論文が提出された。

・モジュラー楕円曲線とフェルマーの最終定理(アンドリューズ・ワイルズ著)
・ある種のヘッケ環の理論的性質(リチャード・テーラー、アンドリューズ・ワイルズ著)

論文の審査に数ヶ月を要したが、今回はなんの問題もなかった。2つの論文は、1995年5月数学専門誌「数学年報」の掲載された。
この号は発売日前に売り切れとなった。(参照3:p192)


▼参考文献
  1. 足立恒雄著「フェルマーの大定理が解けた」1995、講談社
  2. 富永裕久著(山口周監修)「フェルマーの最終定理に挑戦」1996、ナツメ社
  3. A・D・アクゼル著(吉永良正訳)「天才数学者たちが挑んだ最大の難問」1996(1999訳)、早川書房
  4. E・T・ベル著(田中勇・銀林浩訳)「数学をつくった人びと」1937(1997訳)、東京図書


Return