KenYaoの天文資料館


1997/8/31作成
2001/2/4更新

近代宇宙論の歩み

地動説が受け入れられはじめた17〜18世紀にかけて、望遠鏡や観測機器の開発が進み地動説に有利な観測結果が揃っていきます。 さらに数学や物理科学の発展も加わって、宇宙の姿が少しずつ明らかにされていきました。
この時代多くの天文学者・物理学者・数学者が貢献していますが、まずは3人の登場です。


アイザック・ニュートン

○生涯(1643-1724年)

  • 職 業:物理学者、数学者
  • 出生地:イギリス・リンカーンシャー・ウールソープ村
  • 活動地:イギリス


●万有引力の発見
ニュートンが生まれた17世紀前半は「ガリレオ裁判」などいまだ天動説が主流の時代であったが、 後半になると惑星運動の精密な観測結果により地動説のケプラーの法則が有力視されるようになった。
ニュートンが「万有引力の法則」を体系的に表したのは、1687年に出版した著書「プリンキピア」の中であった。 彼は「プリンキピア」の中で「運動の3法則」(慣性の法則・運動の法則・作用反作用の法則)を表し、 彼自身の開発した「微分・積分法」の数学的手法を駆使して、ケプラーの法則を「万有引力」を使って証明しました。

1665〜1666年頃ヨーロッパ全土でペストが大流行したが、この頃ニュートンは微分法・色に関する理論・積分法と研究が進み、 万有引力の法則についてもこの時期に目鼻をつけたといわれている。 (ウールソープ村にあったニュートン家の農園にあるマーナーハウスの庭のリンゴの木から実が落ちるのを見て、万有引力のヒントを得たと伝えられているが・・・?)

●光理論と反射望遠鏡の発明
ニュートンは雨戸の隙間から差し込む光にプリズムを当てると、7色の光に分解することに注目しました。 分解した光を反対向きの第2プリズムに再度通すと、元の白色の光に戻ります。また第2プリズムの代わりにレンズで集光した場合も白色光になります。 1669年〜1971年にかけて「光と色についての新理論」として発表しました。

当時の望遠鏡はガラスレンズの色収差に悩まされていたので、ニュートンはレンズとレンズの間に水を入れることで 色消しレンズのヒントをつかみかけていましたが、実現は難しいと判断したのか、金属板による反射望遠鏡の制作に方向転換しました。
1668年の秋に反射望遠鏡(主鏡直径34mm)1号機を作製し、木星や金星の観測をしました。 この話が王立協会に伝わり、1971年秋(主鏡直径60mmの反射望遠鏡)2号機を制作し協会に提出しました。 ニュートンは反射望遠鏡の主鏡が放物線鏡なら球面収差はなくなることは知っていましたが、検査法がなかったので球面鏡に作りました。 1672年1月、王立協会会員に推薦されました。



ウィリアム・ハーシェル

○生涯(1738-1822年)

  • 職 業:音楽家、天文学者
  • 出生地:ハノーバー
  • 活動地:イギリス・バース→ロンドン


●天王星の発見
ハーシェルはドイツ親衛隊の軍楽隊員で、イギリスに渡ってからは音楽家として生活を始め、35才にして望遠鏡マニアに変身しました。 自分で作った反射望遠鏡で星の観測を続け、1781年に天王星を発見する。

●ハーシェルの島宇宙
天王星発見の翌年から国王の天文官として働き、いくつもの反射望遠鏡を作りながら妹キャロラインとの共同作業で星の観測を続けた。 夜空に区画を切って番号を付け、各番地にある星の明るさと個数を調べていった。 ハーシェルは星本来の明るさが一定であると仮定して、星までの距離を推測した。( これを全天空の番地について調べると、星分布の立体図ができる。)さらに2500個にも及ぶ星雲を詳しく観測し、 それらが多数の星の集団であることを明らかにした。
ハーシェルらは、星は半径と高さの比が5:1の筒状に分布しているという結論に達し、その断面図を描いてみた。 「星は多数集まって星雲(島宇宙)を作っており・・・私たちは平たい円盤状の星雲にいる・・・、宇宙には無限個の星雲が転々と散らばっている」と予想した。


アルバート・アインシュタイン

○生涯(1879-1955年)

  • 職 業:物理学者
  • 出生地:ドイツ南部・ウルム
  • 活動地:スイス→アメリカ


●特許庁の技官
アルバートはユダヤ系ドイツ人としてウルムで生まれ、子供時代はミュンヘンで過ごしました。軍国主義的な雰囲気になじめず、 16才のときドイツの高校(ギムナジウム)を中退して、スイスのチューリッヒ工科大学を受験するが失敗する。 大学長の推薦を受け1年間スイスの高校に入学。翌年、卒業試験に合格して数学と物理の教職課程入学する。 大学時代も自己流の勉強法で、特にマックスウェルの電磁気学を独学しました。卒業後、大学物理学助手に応募するが、物理学教授との折り合いが悪く不採用となる。
その後不安定な生活が続く中、友人グロスマンの薦めで(グロスマンの父の推薦状をもらい)スイスの特許庁を受験する。 採用後、約2年間の苦しい臨時職員を経て、1902年6月特許庁の見習い技官となる。

●特殊相対性理論
1905年、スイスの特許庁に勤めていたアインシュタイン(当時26歳)はドイツの物理学雑誌「アナーレン・デア・フィジーク」に論文を発表しました。
  • 光量子説:それまでは波と考えられてきた光をエネルギィーの粒であると考えた。
  • ブラウン運動論:物質を構成している分子の動きや構造を説明。
  • 特殊相対性理論:(等速直線運動系に限れば)座標系を変えても物理法則は不変である。光速度不変の原理。
発表直後無名の技師の理論を支持したのは、相対論に影響を与えたローレンツ(物理学者)やポアンカレ(数学者)などでしたが、その革命的な内容までは理解していませんでした。
特殊相対性理論の革命性に最初に気づいたのは、「アナーレン・デア・フィジーク」誌の主宰者で当時物理学会の少壮気鋭の学者であったマックス・プランクでした。彼は特殊相対性理論に対して肯定する論文を発表し、その重要性を他の研究者に知らせた。

(プランクは量子論の基礎となる「量子仮説」の提唱者で、アインシュタインの光量子説は彼の理論を基礎にしていた。)


●一般性相対性理論
アインシュタインは1915年、相対性理論をひろく一般的な座標系にまで広げた理論を発表しました。
  • 等価原理:加速度により生じた慣性力と重力は区別できない。
  • 共変原理:ローレンツ変換で座標変換をするのではなく、重力場自体を記述するために「曲がった時空」を考えた。

特殊相対性理論では「光速より速いものは存在しない」という。しかし、重力は瞬時に伝わる・・・という矛盾を抱えていました。アインシュタインは思考を重ね、「物体の質量により空間は歪む。重力はその歪みによって発生する力である。」と説いてみせた。
万有引力に依らなくても、地球によって歪められた空間を、月は楕円軌道を描いて自由進んでいるのである。そして、光も空間によってまがることを示した。
こうして、現代の物理学は空間と時間を自由に扱えるようになったのである。(参考4:p26)


▼参考文献
  1. 磯部秀三著「宇宙を意図したのは誰か」1995、PHP研究所
  2. 吉田正太郎著「望遠鏡発達史」1994、誠文堂新光社
  3. 三品隆司著(平井正則監修)「アインシュタインの世界」1993、PHP研究所
  4. 高橋清一著「宇宙・地球の神秘と謎」1998、日本文芸社

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