かぶて神の話 −徳光ももたれのふしぎ−
 むかしむかし、村の若者がつれだって山へ薪取りにいきました。 途中、桃垂川(江端川の上流、徳光の地籍)の一本橋を渡っていますと、木のかぶてが流れてきました。 一人の若者がもっていた鎌で「コン」たたいて引きあげました。 ところが、ふしぎにも、その木のかぶてから血が出ています。 みんなは驚いてそれをもって帰り、村の長老の家に持っていきました。 村の長老は「これは神か仏の化身だろう」
というので、村の八幡神社にお祭りしました。 ところが、またふしぎな事には、その子どもの目が悪くなり、とうとう盲人になってしまいました。 そして、それ以来その家の長男は、盲人になる運命になりました。 なお、江端川を、一部では「もうたれ川」と呼んでいるのも何か意味がありそうです。 村の人たちは「ももた」をさして、血が流れたのではないかといっています。
 
 
甚九郎の大なまず −北山の諏訪神社境内−
 むかし、北山部落に、「甚九郎」という家がありました。 今から四百年あまり前、一乗谷の朝倉義景が織田信長に攻めほろぼされたとき、朝倉の家臣「諏訪兵庫介甚九郎」も打たれました。 甚九郎の妻は、子どもを一人連れて、この北山に逃れ、諏訪神社の境内に住むことになったのです。(朝倉家の信仰深かった社) そのころ境内は、七十七アールもあって、大きなお堀もありました(現在境内は大門垣内という字で、堀の下という地番がついている)。そのお堀はいつも美しい水がいっぱいたまっていました。 そして、そのお堀には、大きな「なまず」がすんでいました。 そのうちに、諏訪兵庫介甚九郎のこどもは、成長してこの境内に館を築き、北山周辺の土地・八千三百石の地頭になって勢いをふるっていました。 お堀の「なまず」は年々大きくなっていきます。 何代目かの甚九郎(明治初年の甚之介という人の五代前)が「こんなに大きくなったのでは、なまずも堀の中ではきゅうくつで苦しいだろう。」といって、村人たちに頼んで桃垂川の「帆谷べい」というところに、はなしてやりました。 そのときは、なまずに太い縄をまき、その縄に八本の棒を通して、十六人の村人たちがかついで運んだということです。 ところが、それからは甚九郎の家が、だんだん貧乏になり、あとには、この北山にもいられなくなって、よその土地へ移っていきました。 村の人たちは、あの「大なまず」は甚九郎の主だったのだ。その主を川に出してしまったので、貧乏になってしまったのだといい伝えています。 甚九郎の子孫は、現在も残っているとのことです。
 
 
 
お身代わり大師 −大村の弘法大師像−
 今はむかし、大村の古めかしいお堂の近くに樫の大木がありました。 枝葉が繁って、まわりの日陰が広くなり、そのために農作物もとれず、それに年中、落ち葉にこまっていました。 むらの人たちはみんなが相談して、この木を切ってしまうことにきめました、そしてこの村で一ばん信心の深い「樵」が その木の切り役になりました。 さて樵がどうやら その木を切り終わった途端、その大木がくるりとまわって根本にいた樵の方へドッと倒れてきました。 アレヨアレヨと人びとは驚きましたが、とうとう樵は逃げる暇もなく大木の下敷になってしまいました。 みんなはびっくりしてはしりよって見ますと 樵は大木の下で虫の息になっています。 さあ大変と大木を数十人がかりでおこし樵を引き出してみますと、これは不思議、樵は元気にとび起きてくるではありせんか。 人びとはふしぎに思い、これはこの樵が日頃から弘法大師を信心しているからだろうということになり、この古寺の弘法大師の尊像をおがみにいきました。 ところが、そのご尊像の右手が折れて、血が出ているではありませんか。また よくみると お目にも星のようなものがかかっています。 これは大師が身代わりになってくださったのだと、みんなが話し合い、ますますこの大師の像をおうやまいするようになりました、 しかし、このまま放っておくわけにもいかないので、仏師にたのんで右手と目を数回修繕しましたが、何時のまにか 元のままになっているので、村人たちはますます感激し尊敬するようになったということです。   (大師像は鎌倉中期の代表作として保存されている。傷あともある。指定文化財)
 
 
 
御題目岩 −文殊山榎坂−
 この岩は、文殊山の中腹 榎坂の断崖絶壁の南の方にあります。 うしろの面と上下、左右は土に埋まっていて、高さがおよそ二・七メートル、巾が二メートルたらずの岩で、面に刻まれている三行の文字は 日蓮上人の弟子「日僧菩薩」の書かれたものだということです。「何無妙法蓮華経」の名号だけは、はっきりしていますが、そのほかの文字はよくわかりません。 今から六百年あまり前、日僧尊者が二十六歳のとき、能登、加賀をまわって、越前におかいりになり、文殊山のふもとを過ぎようとされました。 ところが、たいへんな雪で、従ってきた人びとは、途方にくれてしまいました。 そのとき、大きな岩が現れ、尊者は矢立を取り出して、お題目をお書きになると、にわかに太陽がてりかがやいて、みんな道が開かれて、よろこびあったということが伝えられています。この岩がお題目岩です。 ところが、それから年がたち、道が変わってお参りする人もまた少なくなりました。 明治四十年ころ、内田妙真という人がこれをおしんで、 「ここは、日僧菩薩が南越においでになった最初の土地で、四海唱導発祥の誓いを立てられたところでもある。お燈明に油もささず、火に薪をいれないならば、おとろえてしまうだろう。私は尼僧ではあっても、一生を捧げて薪となり 油となるならば、これにこしたよろこびはない。」といって、精進、経行に努めたということです。
 
 
 
西大味荒神様 −普願寺裏山の祠−
 西大味の米谷山普願寺(浄土真宗)の裏山のいただきに、小さな祠があって、その中に荒神様(火の神様)がおまつりしてあります。 真赤なお体で、目が三つ、手が八本、桶や火縄など、いろいろなものをもっておられます。 火事のときには、この火縄を張って、火をほかへ移さないようになさるといいます。だから西大味では めったに火事にならないし、火事になっても火元からひろまらないといわれています。 むかしの人は、荒神さまが体全体がびしょびしょになって、火を通していらっしゃるのを見たとか、火事がおさまってから荒神さまに お礼まいりにいったら、お体がびしょぬれになっていらっしゃったとか、言い伝えています。四月三十日が例祭日で 寺の住職が赤飯をつくってお供えしますが、一切男の手でしなければならないことになっています。 この普願寺は、もと 米谷山身相寺といって真言宗の寺でした。 加藤左門尉繁氏が出家して 「かるかや道心」といい 北国を巡って 西大味にとまったとき建てた寺だということです。 それからあと、朝倉敏景公の菩提所になって、七堂伽藍の立派なものでしたが、朝倉家がほろんだとき、この寺も焼かれてしまいました。 そこで 住職の行念は、本願寺の教如上人に帰依して、浄土真宗に改宗し、米谷山普願寺という寺号で、現在の場所に再建しました。 もとの身相寺は、今の祠のあるあたりに あったものと思われます。
 
 
稚子の森異聞 −東大味町「五蛇久保」地籍−
東大味町の字「五蛇久保」地籍に、俗に「稚子の森」と呼んでいるところがあります。どこからどこまでという境ははっきりしていませんが、南西に面した山裾のところです。 ここは、そのむかし朝倉時代に、明智光秀の稚子が非業の最期をとげたところで、その霊が葬られているといい伝えられています。 だから、このあたりをいじると祟りがあるといい伝えられて、近くの人たちもごみすて場などにしないようにしています。 大正の時代に、この村に「加川嘉七郎」と「日下留吉」という血気ざかりの若者がいました。 この二人は「この稚子の森は 大名の子どもが葬られているところだから、何か宝物がいっしょに埋められているにちがいない。ほり当ててみよう」というので、掘返しのしごとをはじめましたが、急に頭が痛んできて どうにもしごとを進めることができず、中止しなければならなくなったといいます。 また、稚子の森の南裾にある日下桂氏が、上の笹や芝等を削り落とす作業をはじめましたが、このときも頭が痛くなって作業をつづけることが出来ず、そのままにしておいたといいます。 その息子さんが、ここに杉苗を補植をしてみましたが、そのときも頭が痛んで、つらい思いをしたということです。
 
 
 
おおたのばばあ! −大祭の行事−
 上文殊「田治島部落」にむかしから残っている「火祭」の行事があります。 二月二十五日の夕方になると、部落の一戸一戸の家の前で藁に火をつけます。 そして「おおたのばばあーはあやすぞ」と叫びます。 よその家で火があがり、声がしだすと、こちらも負けずに火をつけて、大声をはりあげます。 それから、各班にわかれて、酒をのんだり子どもはお菓子をたべたりします。このごろでは、大人も子どもも 夜の食事を一しょにします。 この行事は、いつごろからはじまったかわかりませんが、古老の話では、むかし、大田という家のおばあさんが火元ををして 部落が大火になってからの行事だということです。
 
 
蜆の恩返し −子どものハシカをなおす−
 むかし この田中の部落に、家は貧乏ですが、とても親孝行な少年が住んでいました。体の弱い母親と二人のくらしを守るため。山から薪をとってきて売ったり、隣近所の薪割りにやとわれたりして、ささやかなお金をもらい、それでも二人平和で、水いらずのくらしをしていました。 ある日、山で薪取りをしていると、ものすごい雷雨がおこり、ぬれねずみのようになって家に帰りましたが、そのために熱が出て、とうとう、病の床についてしまいました。 その日その日の、収入で暮らしていたこの家では、少年の病気によって、その日からのくらしに困ってしまいました。 母親は弱い体でしたが、一生懸命この少年の看病につとめました。しかし、薬も飲ませることができません。病気はだんだん重くなるばかりでした。 体の弱い母親は、看病づかれで、この少年の枕辺で、うとうとと眠ってしまいました。 すると、小さなかわいい蜆が出てきて、 「私は川の中に棲んでいますが、力がないため、水に流されるばかりで、川をさかのぼることができません。やがて海に流されて死んでしまいます。 お願いですから 私を少しても川上にもっていって、私の寿命をのびしてください。そうすれば あなたの親孝行な少年の「ハシカ」という病気を治してあげましょう。」といったかと思ったら、目がさめました。夢だったのです。 母親は、その夢のお告げを信じ、さっそく近くの川へいって 両手一ぱいに拾って、川上へもっていって放しました。 ところが、この少年の病気はだんだんよくなり、三日後には すっかり元気になって、また、はたらけるようになったということです。 この田中の部落では、近頃まで子どもが、「ハシカ」にかかると、年よりは「蜆を夜中に 川上に持っていって放してやれ。」といったものです。 そして、そのききめもあったと伝えられています。