−趣 旨−
 奈良東大寺の所有する建物をはじめ仏像・絵画・古文書などは、我が国の歴史特に奈良時代の歴史・文化を物語る大変貴重なものであり、国の宝で世界遺産にもなっている。特に、上文殊地区と文殊地区にまたがる糞置荘開田絵図は二枚も現存し、本県最古の絵図として著名である。これらの絵図は、極めて正確に描かれている点や当時の土地開墾の様子が具体的に分かる点など、古文書とともに当地区にとっても大変貴重なものである。
 当時、東大寺は誕生まもない日本国家の威信をかけた大仏(殿)をはじめとする諸堂の建立が進められていた。その頃、足羽郡のみならず北陸でも最も勢威のあつた豪族・生江臣東人(いくえのおみあずまんど)は、造東大寺司史生として東大寺の造営に役人として参画し、越前での東大寺領荘園の設定や経営にも協力し自分の墾田百町歩をも東大寺へ寄進している。そして、後に足羽郡の大領にもなって活躍している。また、生江臣一族の女性は、東大寺へお経を九百巻も貢進している。さらに、足羽郡人の益田縄手(ますだのなわて)は、大仏殿建立に棟梁(大工)のひとりとして活躍し、連(むらじ)の姓(かばね)を賜るなど異例の出世をしている。
 このように、古代において東大寺と当地域とが密接な関係にあったことがわかる。
 よって、ここに「東大寺へ、文殊の里のお米送り事業」を地区内の各層のご協力を得て実施し、当地域の歴史を改めて見直し学習するとともに、おいしいお米の産地として有名な文殊の里の米を東大寺に奉献するなどして、当地区の活性化を図る。
 
   
   
  −基本方針−
(1)東大寺への奉献米生産作業を通して、米づくりの大変さや米の大切さを知るとともに、米作りの自然環境へ及ぼす影響などを学ぶ。
(2)地域住民のふれあい・助け合い・郷土愛を深め、さらにはこの事業を当地区のみならず関連する他地区への参加協力を求めたり、奈良県民との交流をするなど、できる限り広域的事業としていく。
(3)東大寺創建の歴史を知るとともに、大和(中央)と越前(地方)とのつながりを学び、さらに東大寺への米の奉献時には大和の優れた文化遺産などを見学し学習する。
   
   
  −事業概要−
(1)お田植え式
上文殊地区の五穀豊穣を願う神事と子ども達から高齢者まで地区民を挙げた田植えをおこなう。米づくりの伝承という観点から、地元の農家の人に教わりながら、小学生を中心に手植えにより実施する。
 子ども達は古代衣裳をまとい、雅楽が流れる中、太鼓に合わせて田植えをする。なお、環境問題を意識して、無肥料、低農薬で田圃を管理する。
(2)刈り取り式
 上文殊地区の五穀豊穣を感謝した神事と地区民を挙げた刈り取りをおこなう。田植え同様、作業を通して農業の大切さ、大変さを体験するため、小学生を中心に手狩りをする。 また、刈り取られた稲は天日干しをするため、稲架場(はさば)に掛ける。 
(3)お米送り
 東大寺の秋の大祭に収穫した米を奉献する。代表者が式典に参加し、地区民も式典を見学する。また、地元越前と大和(奈良)とのつながりを学ぶため、関係のあるお寺参りなどをおこなう。
(4)収穫祭
 一連の行事の締めくくりとして、収穫に感謝する祭をおこなう。
 地区民が汗を流して栽培した米を利用した食物(おにぎりなど)を配ったり、東大寺から講師を招いて講演会を実施するなどして、地域住民のふれあいの場とする。
 
   
   
  −写真特集−
   
 
 
  −上文殊と東大寺の歴史−

・上文殊地区に占定された東大寺荘園・糞置荘
 上文殊地区の帆谷町には(文殊地区二上町にかけ)、奈良時代中頃から平安時代前期頃にかけて東大寺荘園・糞置荘があった。しかも、現在2葉の糞置村開田図が正倉院に所蔵されている。それは天平宝字3年(759年)12月3日製作図と、天平神護2年(766年)10月21日製作図とである。前者は福井県最古の地図として有名であり、縦78センチ×横109センチあり、荘園面積は15町1反244歩、開田されているのは僅か2町5反316歩にすぎない。いっぽう後者は縦69センチ×横113センチあり、荘園面積が15町8反268歩あり、開田されているのは4町2反211歩となって開田面積は増加している。
 これら2葉の地図は現在の景観とよく一致していることで特に有名である。南の保々山(文殊山)、西の佐々尾山、東の動谷など、山や谷が写実的に描かれている。



越前に数多く占定された主な東大寺荘園
〈足羽郡下〉
 糞置荘 栗川荘 鴨野荘 鎧荘 道守荘
〈坂井郡下〉  
 国富荘 鯖田荘 小榛荘 子見荘 高串荘 溝江荘 桑原荘 田宮荘
〈丹生郡下〉
 椿原荘 水成



東大寺荘園の成立や経営に協力した生江臣東人
 足羽郡に本拠を置く豪族で、造東大寺司史生や足羽郡大領として活躍した奈良時代の中頃の人である。
 天平21年(749年)、造東大寺司史生として東大寺の占使平栄ととも越前国足羽郡栗川荘(福井市南部付近)の占定を行っている。当時の足羽郡大領生江臣安麻呂は東人とは近い親戚関係にあったと推定されている。天平勝宝7年(755年)には足羽郡大領となっていたことが確認でき、東人は越前国内の東大寺荘園の成立・経営に大きくかかわっていた。
 足羽郡道守荘(福井市社地区)は、東人が造成した墾田100町歩や溝を天平宝字初年(757年〜765年)に東大寺に功徳料として献上したところから始まり、天平神護2年(766年)の荘園の一円化にも東人はかかわっている。また、越前国坂井郡桑原荘(坂井郡あわら市)の経営にも当たっている。特に、東人は天平勝宝7年に4,700余束、同8年に3,100余束をその経営料として供出している。坂井郡の大領でない東人がかかわっているのは在地での勢力関係や造東大寺司とのかかわりからと考えられている。

 天平勝宝2年の御使勘間で東人は、田使からの召喚に応じられなかった理由として、神社の祭礼でよっぱらったことをあげており、在地の祭にも深く関わる有力者であった。この時は正六位上、神護景雲2年(768年)2月、外従五位下を授けられた。


東大寺にお経900巻を献上した生江臣家道女とその母大田女
 生江臣家道女は奈良時代の後半の越前国足羽郡江下郷(福井市和田地区、岡保地区付近)出身の優婆夷(うばい 女性の仏教信者)である。
 天平勝宝9年(757年)、聖武天皇の一周忌に母の大田女とともに「法華経」100部800巻、「瑜伽論」1部100巻併せて900巻を東大寺に献上している。その後、人の集まるところでみだりに罪福を説き、人々をまどわかしたとして延暦15年(796年)本国に送り返された。世の人々から越優婆夷といわれた。



東大寺大仏殿の建立などで活躍した益田縄手
 益田縄手は、越前国足羽郡出身の奈良時代の大工である。その頃の大工は、今のそれとは異なり、技術的な立場から工事全体を統率し指揮監督を年行った総括責任者であった。
 益田縄手はまず、東大寺造営に起用されたが、天平勝宝8年(756年)、東大寺大仏殿院の工事を担当する造大殿所において、正六位上の位で大工として従事している。同9年、聖武太上天皇の周忌に東大寺造営の功労者の一人として正六位上から外従五位下に叙せられ、最下位とはいえ貴族の仲間入りをした。そして、益田大夫と称された。
 天平宝字2年(758年)、大工の技術に優れているため石山寺(滋賀県大津市)の造営に関し意見を求められ指導している。この工事を当初指導したのは木工長上の船木宿奈麻呂であったが、彼の部材の寸法が良弁(石山寺造営の最高責任者)の気にいらなかったらしく、良弁は新たに益田縄手を呼んできて指導させているのである。同8年、外位から内位に転じて、一般中央官人と同列の待遇が認められた。翌、天平神護元年(765年)には「連(むらじ)」の姓(かばね)を賜り、この年の西大寺(奈良市西大寺芝町)の造営にも関わっている。
 このように、益田縄手は地方出身ながら、優れた建築技術をもって内位まで昇進した特異な官人だった。
 益田縄手が東大寺の造営に関係するようになったのは、彼の出身地の豪族生江臣東人や越前国司生・造東大寺司主典安都宿禰雄足(あとのすくねおたり)の推挙があってのことと考えられる。無論、推挙されたのも、越前の諸官施設や寺院の建立などでの実績が優れていたからのことであった。