これらは「オーストラリア見聞記」として「日刊福井」に4回にわたって掲載されたものです。

 第1回
          国籍越え友情育つ
                 英語の発音に四苦八苦 

 ぼくのシドニーでの家庭滞在中のホストは、クリスであった。そう、ちょうどギリシャの彫刻によくあるような彫りの深い顔つきで、ガッチリとした体格だ。ひとなつっこい目をしているが、年の割には完成された人間の落ちつきを持っている。17歳のカレと30歳のぼくとではあったが、そこは古い伝統である『メイト・シップ』(相棒精神)が存在するこの国のこと、まるで兄貴のようにぼくの面倒をみてくれた。
 両親が朝早く自分の店に行くので、カレが朝食を作ってくれた。作ってくれたといっても、コーン・フレークに牛乳をかけたのか、トーストであった。食事は朝食に限らず想像以上に質素だった。インスタント類が多いし、主婦が夕食にかける時間はせいぜい30分程度である。ただ、牛肉がふんだんにあるので、肉の好きなぼくにはうれしかった。レストランで食べても、800円も出せば日本で5000円以上はすると思われるボリュームのあるステーキを食べることができた。場所によっては固くてひどい肉もあったが、一般的に言って味はそれほど劣っているいるとは思えなかった。
 もちろんクリスがぼくの英語の先生でもあった訳だ。最初の朝「ハウアー・ユー・トウダイ」(How are you today?)と言われた時は内心「いよいよおいでなすったか」という気持ちだった。確かに日本にいる時からAはエイではなくアイになるんだという事は聞いていたし、自分でもわかっているつもりではいたが、いざ現実に聞かされるとは何とも複雑な気持ちだった。それからは「オウカイ」(OK)「アイト」(eight)「パイパー」(paper)などやたらに耳に入ってきた。
 英語では失敗談もある。コーヒーを注文したのにコーラが出てきて、体を温めるつもりが(ちなみに、オーストラリアは日本が夏の時冬である)寒々とした事があるし、硬貨がたくさんあったので紙幣(bill)に交換してもらおうと思ったら「うちにはビール(beer)は置いてありません」と断られてしまった事もある。クリスと話していても『パブリック・バス(bath)はあるか」と聞いたのに「もちろんバス(bus)はある」ととんちんかん答えが返ってきたり、ガソリンという言葉をどうしても通じさせる事ができずにいろいろ説明していると「ああ、ペトロル(petrol)の事ね」と言われたりした。オーストラリアはイギリス英語を使っているので、ガソリンという言葉でも全く違う語を使っているのだ。
 ところでクリスにぼくはとても悪いことをしてしまった。土曜日に、いとこの車でブルーマウンテンズ(シドニーから約100キロの所にあり、青紫のもやにかすむところからその名がつけられた山)に連れて行ってもらったぼくたちは、翌日の日曜日は何の計画も立てていなかった。
 翌日、9時に目を覚ましたが、これまでの疲れが出たものと見えクリスはまだ寝ていた。かわいそうになり、ここはクリスにゆっくり休んでもらおうと、置き手紙をして、1人でシドニーの街に出た。全く1人で電車に乗ったり、公園や街をぶらつくことはぼくには貴重な経験だった。しかし、クリスはぼくを探すためにすぐ後を追い、あの広いシドニーの街を1日中さまよっていたというのだ。「どうしてぼくを起こさなかったんだ」とぼくを責めるクリスの顔に「水臭いな、ぼくは君の事を本当に友達だと思っているんだぞ」という気持ちをありありと見ることができた。そして「悪かった。悪かった」としか言えない自分がとてもむなしく思われた。その時、年齢とか国籍を超えて、二人の間に男同士の友情(メイトシップと呼んでいいだろう)が通い合うのがはっきりとわかった。

 第2回
           移民に厳しい社会
                  独身男女複数で共同生活

 オーストラリアは誕生後二百年という新しい国であり、移民によって成り立っている。シドニーで滞在した家庭の両親は、ギリシャから移住してきた人たちである。
 人種的に見ると、オーストラリア人口の80%は英連邦系であり、他はいわゆるマイノリティー(少数民族)たちの多元社会であるといわれている。マイノリティーの中で、アボリジニ(原住民)の問題は別にすると、ギリシャ人や中近東から移ってきた人々には非常に厳しい現実が待ちかまえている。チリ広いやビルの清掃などをしているのはこれらの国々から来ている人に多い。
 オーストラリアにいるギリシャ人の数は30万人といわれているが、彼らはオーストラリア人(西ヨーロッパ系)の偏見にあい、どうしても彼らだけの世界を作りやすい。日本人を引き受けている家族同士のパーティーがあったが、「ぼくの家族は他の人達とあまりうまくうちとけていないなぁ」と、ふとその時感じた。儀礼的な挨拶は交わすのだが、そのあと話が続かない。みんなはおしゃべりをしたり歌を歌ったりしているのに、ぼくのテーブルだけしらけてしまっているのだ。途中なのにそそくさと会場を出てしまったとき、何とも言えないやるせないものを感じてしまった。
 彼らは来るまで20分程離れたところにフライドポテトや食料品、お菓子などを売る小さな店を経営しているが、毎日朝7時ごろ家を出ると、夜は8時過ぎにならないと帰ってこない。シドニーの街では5時には店が閉まい、土日には買い物もできないことを考えると、彼らの店は確かに忙しかった。日本人は働き者だというが、何のことはない、この両親にかかったら形無しである。何しろ休日が無いのである。彼らはなぜこのように朝から晩まで汗まみれになって働くのであろうか。彼らは何度となく「もっと大きくて立派な家を建てるんだ」と言った。貧しかった彼らにとって、やはり幸福のひとつの証は家なのだろう。そして遠い祖国に里帰りすることである。
 シドニーを出発する前の晩、母はぼくのベットに来て、今まで満足な世話をしてあげられなかったと言って幾重にもわび、今度は奥さんと子供を連れてこいという。そして「店が忙しくて何もしてあげられなかった。これで奥さんと子供に何かオーストラリアのおみやげを買って欲しい」と言ってなんとお金を握らせてくれたのだ。「とんでもない。ここでの生活がとても素敵だったと思っているし、あなたたちの親切は決して忘れることはない」と言うのが僕には精一杯だった。
 メルボルンでの滞在は、マーガレットという女性のフラット(日本流に言えばマンション)だった。彼女は、昼は先生をしていて、夜はメルボルン大学で心理学を専攻している勉強家だ。
 「このフラットには友達いっしょにと住んでいます」というので当然女の友達かと思ったら何と男性だった。独身の男性と女性がひとつ屋根の下で暮らすことが日本では考えられないことなので、マーガレットに聞いてみた。
 オーストラリアでは、高校を卒業すると親元を離れて暮らすのが普通だそうである。大学生の間では男性一人に女性二人といったふうに複数でフラットを借りるのがよくあるそうである。「どうして?」と言うぼくの問に、「その方が家賃が安いし、第一楽しい」という簡単明瞭な答えだった。食事の準備や後かたづけ、掃除、選択などの分担もはっきり守られていたし、それぞれ独立した部屋をもち、いわゆる同棲と全く違うことは確かだった。
 オーストラリアの若い夫婦や恋人は、人前もはばからずいちゃつくものだが、彼らにはそんなそぶりさえ見えず、また全くジメジメしたところもなかった。オーストラリアという大陸的な風土と日本人とは異なる結婚観を踏まえた上でないと、ぼくらにはとうてい理解できないことなのだろう。ともあれ、メルボルンの滞在はまるで3人で共同生活をしているかのように快適に過ごすことができた。「君たちは結婚するつもりなのかい」とマーガレットに野暮なことを聞いたら、「さあね」といっていたずらっぽく肩をすくめた。
 第3回
          浴衣着てひな祭り
                 小学生も日本語の勉強

 オーストラリア大陸を初めて攻撃したのは日本である。第2次大戦中、ダーウィンは60回以上にわたって日本軍の爆撃を受けたという。シドニー湾に2隻の日本の特殊潜航艇が進入したときは、オーストラリアの人々を震え上がらせた。この特殊潜航艇は、今もキャンベラの戦争記念館広場に陳列されている。
 こういうわけで、戦後日本に対するオーストラリアの人々の感情にはかなり厳しいものがあった。しかし、近年本国であるイギリスがECに加盟してオーストラリアとの経済的結びつきが薄くなっていくと。日本との関係が非常に緊密になってきた。現在0オーストラリアにとって日本は輸出の面で他国を圧倒的に引き離して第1位であり、輸入相手国としてもアメリカに次いで第2位である。
 そういうこともあってか、現在のオーストラリアは日本や日本人に対して非常に好意的である。日本語熱のさかんである。職業柄いくつか学校を訪問したが、メルボルンのグラモーガン・スクールをおとずれたのが印象に残っている。
 ぼくらを案内してくれたのが、メアリー田口という人で、日本に4年ほどいたことがあり、日本人を夫に持っていた。小学校から高校まで一貫教育をしているこの学校では、どの教室をのぞいてものびのびと勉強していた。受験地獄があるというどこかの国とは大違いである。
 特に興味があったのは、彼らが小学校の時から日本語を勉強している事だ。教室の壁には、ひらがなや簡単な漢字がべたべたとはりつけてあり、日本の代表的な景色をかたどった模型には「山」「森」「川」というように漢字で説明がしてあった。
 メアリーさんは日本の文化や伝統を紹介するのにも力を入れている。わざわざ京都から取り寄せた材料で日本の住宅の模型を作ったり、女の子には浴衣の作り方を教え、それを着てひな祭りまでやるというから念が入っている。ある教室では、コマをまわしたり折り紙を折ったりもしていた。
 ぼくはわれわれ日本人がどれだけ自国の伝統や文化を大事にしているかということを考えて、非常にはずかしい思いをした。そしてメアリーさんはいみじくも言った。「わたしは日本や日本人がとても好きです。でも、日本の教育はきらいです」
 メルボルンで、ぼくの親類の人のペンパルに1日案内してもらった。メルボルン大学で日本語や日本文学を勉強している女の子である。驚くほど日本語が上手で、日本語が話すのがうれしくて仕方がないといった様子だった。
 日本の建築や建築家についても造詣が深く、ここでも、日本人が忘れてしまっていることや知らないことを、他の国の人が勉強してくれているという、まことに皮肉な現象が生まれている。
 ともあれ、異国でしかも外国人と日本語で語り合えるなんて、信じがたい経験だった。
 約2週間のメルボルン滞在中、夢にまで見たアウトバック(奥地)へ出掛けることができた。TAAという国内航空でアデレードを経由してアリス・スプリングスに入った。そこからバスでエアーズ・ロックとキングズ・キャニオンを訪れるのがぼくの目的だ。アリス・スプリングスはオーストラリアの中央、砂漠の真ん中に作られた人口1万4千人ほどの町である。
 ここには、フライング・ドクター基地とラジオ学校施設がある。国土が広く、しかも人口が少ない所が多いので、誰かが病気になったときラジオで備え付けの薬の処方を連絡したり、症状によっては飛行機で医者が往診したりするのである。また、ラジオを通じて、学校のない地方の子供たちが勉強している。
 オーストラリアにはアボリジニという原住民がいることは、意外にもあまり知られていない。原住民に会ったこともないというオーストラリアの人が大勢いるのだから無理もない事なのかも知れない。
 アリス・スプリングスに来ると、街角にたくさんのアボリジニがたむろしている。中には昼間から酔っぱらっている者もいる。裸足や上半身裸の者もいて、集団でいる彼らには一種異様な雰囲気がある。彼らの住まいといえば、郊外のテントかトタンをのせただけの粗末な家である。
 白人たちは良い土地を彼らから奪って奥地へ奥地へと追いやってしまった。全く役に立たない動物として、見つけ次第殺してしまったこともあった。今、オーストラリアは彼らに対して、隔離することから同化させる政策に移っている。
 しかし、少し前までは原始的ではあるが独自の文化と伝統を持っていた彼らにとって、西欧文明に触れることは悲しいことでもある。ぼくには、スーパーマーケットで物欲しそうに食料品を見ていたアボリジニの子供の姿が忘れられない。
 第4回
          大平原に巨大な岩
               世界最大 周囲に原住民の洞窟も

 ラクダのマークの「オアシス・モーテル」までバスが迎えにきてくれた。モーテルというと誤解するかも知れないが、オーストラリアの地方都市や田舎町では、近代的な施設を誇る宿泊施設である。もちろんモーテルには車を駐車するスペースを持っているが、必ずしも不便なところにあるわけではない。
 事実、観光客はホテルにはあまり泊まりたがらない。シャワーやトイレが共同で、古ぼけた建物である場合が多いからだ。その点モーテルには冷蔵庫があり、コーヒー、紅茶や湯沸かしのセットなどが整っている。
 いよいよエアーズ・ロックへむけて出発である。赤茶けた岩がゴロゴロしている山、どこまでも続く草原地帯、時々黄色い絨毯を敷き詰めたように広がる野生の花々。ぼくにはどれも珍しい風景だった。
 奥地にはいると道路は舗装などしてなく、すれちがう車もほとんどない。もうもうと赤い煙をあげながらバスは走っていく。この気味が悪いほど赤い土はラテライト土といい、鉄分が残っていて酸化して赤くなったのだという。
 道端を見ていると丸いボールのようなものがゴロゴロ落ちていた。運転手がバスを止めたので降りてみてみると、まるいウリのような物だった。メロンの一種だが食べられないということだった。このボールを使って即席のボーリング大会が始まった。バスの少し低くなった通路をレーンにしてピンはジュースの空き缶である。子供から老人までワイワイ、キャーキャー言って騒いでいる。バスは相変わらず単調な砂漠地帯を走っていた。
 バスは何でもない所で止まることがあった。最初どうしてみんなちりぢりにブッシュの中に消えていくのかわからなかった。バスが出発する頃になると何喰わぬ顔をして集まってくるのだ。後で、彼らが自然の要求を満たしに行ったのだということがわかった。「何かおもしろい物があるの」とついていきそうになったぼくは、危うく恥をかくところだった。大自然がトイレに早変わりするのであるが、こんな事にためらっていたらとてもアウトバックの旅はできないのだ。
 アリス・スプリングスを出発して約7時間、太平原に忽然と島のような巨大な岩が現れてきた。これが世界最大の一枚岩といわれるエアーズ・ロックである。
 圧巻は何と言っても夕陽に変化する色の美しさだ。燃えるような赤になったかと思うと紫色に変わり、ネズミ色になって消えていく。これは岩肌の湿気に日光が反射してできるそうだが、その自然の神秘さに思わず我を忘れていた。
 朝焼けもきれいだ。モーテルのロビーでコーヒーをすすりながら見ていると、最初真っ黒だったのが日の出の直前には真っ赤になり、絵の具を流したような黄色に移っていく。エアーズ・ロックというスクリーンに映し出されたドラマは確かに一見の価値はあるだろう。
  エアーズ・ロックは高さ340b周囲9`の一枚岩である。この岩の周囲には、かつてアボリジニ(原住民)の祖先たちが使った洞窟がたくさんあり、壁面には彼らが描いた絵が残っている。また、一カ所登れるところがある。急なところには鎖が付けてあるが、ぞっとするような急斜面が多い。何しろ草一本生えていない岩山であるから、足を滑らせればまっさかさまに下まで落ちてしまう。事実転落して死亡した人も何人かいるようである。迷子にならないように白い点線が頂上まで続いている。
 アメリカのグランド・キャニオンにも劣らないというのがキングズ・キャニオンである。観光地といっても店一軒ないし、標識一つ立っていない寂しいところである。運転手だけが登るルートを知っていて、先頭に立ってくれる。崖あり谷ありでスリル満点であった。
 こうして大地を一歩一歩踏みしめていると、オーストラリア大陸を歩いているんだという実感と、遠いところへ来てしまったなという感慨がひしひしと旨に伝わってきた。
 アウトバックを旅して感激したのは、カンガルーやエミュ(ダチョウと同様飛べない大きな鳥)、マウンティン・デビル(棘のあるおもしろい形をしたトカゲ)などの野生の動物を目の当たりにできたことである。野生の花々も種類も多く色もきれいで、思いがけなくぼくを楽しませてくれた。
 やがてグァム・トゥリー(ユーカリの木)に日が傾き、南十字星が見えてくると一週間のアウトバックの旅に別れを告げる時が来た。落ちてきそうな程の満点の星を見つめながら、ぼくはヘッセの「世界は美しく、生は短い」という言葉を思い出していた。