
| 小学校の南西の一隅に 「観音堂」が建設されています | |||
| このお堂には 明治から昭和にかけて いくつかの戦争があり その | |||
| 犠牲となった 方々と 昭和23年6月28日の 福井大震災で亡くなった | |||
| 人たちの 法名を安置してあり その御霊を お弔いしています | |||
| (戦死者165柱 震災犠牲者39名 その他1名) | |||
| 観音堂の南には 忠魂碑があります | |||
| この忠魂碑が 最初に立てられたのは 大正5年の7月 河水区の山麓 | |||
| でした (1916年) | |||
| その後 大正9年5月 元の岡保村役場の南側に移転して お祀りして | |||
| 来ましたが 昭和20年8月15日の 大東亜戦の終戦により 進駐した米軍 | |||
| は この忠魂碑の破壊を命じました (1945年) | |||
| 村民は泣く泣く忠魂碑を取り壊しました しかしその碑は 心ある人 | |||
| の手によって ひそかに土中に埋められ保管されました | |||
| しかし 日本の国難にあたり 命をかけて戦った方々を お祀りしない | |||
| のは忍びがたい 忠魂碑に代るものを建設しようと 遺族有志が図り | |||
| 昭和27年2月観音堂の建設落慶となったものです (1952年) | |||
| その後 昭和27年9月平和条約が締結され 再び忠魂碑の再建を望む | |||
| 声があがり 昭和30年10月 村内有志の方々の手によって現在の地に | |||
| 再建され今日に至っております (1955年) | |||
| (忠魂碑の碑名板には戦死者142柱の名前が記載してあります) | |||
| 岡保奉賛会役員 | |
| 会長 | 泉 和弥 |
| 副会長 | 滝波 範男 |
| 副会長 | 大林 利昭 |
| 常任理事 | 天谷 弘之 |
| 事務局 | 服部 歩未 |
| 事務所 | 福井市河水町10-13 |
| (岡保公民館内) | |
| 0776-54-2519 | |




| 岡保奉賛会 |
| 目的 |
| .岡保地区における忠魂碑・観音堂の奉賛 |
| 戦没者の遺徳を敬崇し.併せて郷土愛の高揚に努める |
| 組織 |
| .岡保地区内に在住する市民で組織する。 |
| (地区外に居住する賛同者を含む) |
| 事業 |
| 毎年一回.戦没者の慰霊祭を行う。 |
| 忠魂碑並びに観音堂の清掃を実施し.施設の管理保護に努める。 |

| 観音堂の建立に尽力した方々 | 昭和27年2月4日 |
| 足羽山慰霊塔に安置の |
| 復興 慈母観音 |
| 多田瑞穂氏の作 |
| けやきの一木造り |
| 総丈4m |

| 2 復興 越の国観音三十三札所の由来 |
| 福井大震災はまことに惨憺たるものでした |
| それから2年目の記念日には福井市内の慈母観音 |
| 三十三札所が開かれましたが 震災にあった坂井 |
| 郡 吉田郡 足羽郡 福井市の各地区にも札所を |
| 開こうと 観音信仰の厚い方々が発起人となって |
| 震災の被災地全域に更に三十三札所を開きました |
| そしてこれが福井市の慈母観音と混同しないよう |
| にと永平寺の禅師さまが「越の国観音三十三札所」 |
| となずけられました |
| 岡保の観音様は |
| 「越の国観音三十三札所」の 第十二番札所です |

| ご詠歌 | |
| みなかみは いずくなるらん岩間寺 | |
| 岸うつ波は 松風の音 | |
| 1 復興 慈母観音三十三札所の由来 |
| 昭和20年7月の米軍による空襲で 福井市は 一夜にして焦土と化し | ||||
| 逃げ損なった人たちの死体が 濠や川 防空壕 寺や神社 公園道路を | ||||
| 埋め尽くし 鳥も犬も猫も石垣の蛇さえも 累々と焦げ死んでいました | ||||
| こうした 地獄のどん底から 立ち上がろうとする人達を励まし慰め | ||||
| 戦争の犠牲となり 惨死した霊魂を弔う為に 誰言うとなく「観音様を | ||||
| 建立したら」という声が起こり 東別院の前に御堂がたてられ 観音像 | ||||
| が安置されました それは丁度空襲から2年目の記念日でした | ||||
| 人々は この観音様を{復興慈母観音}と呼び 参拝する人が日増しに | ||||
| 増え その名も遠近に知られるようになりました | ||||
| 昭和23年6月28日 福井大震災が起きました 阿鼻叫喚地獄 観音堂 | ||||
| の付近も火の手が上がり火の海に包まれましたが 不思議にも お堂は | ||||
| 焼けずに残り 観音様も何の損傷もなく無事でした | ||||
| ( この親観音は 現在足羽山慰霊塔に安置してあります ) | ||||
| 「昔から福井市内には 三十三札所があつたが壊滅しており この慈母 | ||||
| 観音のご分身で札所を再興し 戦災 震災の犠牲者の霊位をお祀りして | ||||
| はどうか」との声が自然に起こり 忽ち賛同者が出来 わずか3ヶ月程 | ||||
| で完成しました | ||||

| 終戦50年の節目にあたり 岡保遺族会と奉賛会は 地区民より浄財を | |
| 募り 忠魂碑の前に 石碑「護持のお願い」と「前卓」を作成し敷地の | |
| 整備や樹木の剪定をし 観音堂の修復等を行い 平成7年6月には盛大に | |
| 追悼法要を厳修しました (1995年) | |
| 平成10年6月には 福井大震災50周年にあたり 震災被災者の遺族も | |
| 招待し戦没者と合同の追悼法要を厳修しました (1998年) | |
| この時 村誌 掛け軸 石碑 位牌 英勲録 護国神社等の 資料を | |
| 調査し 正確な名簿を作成 位牌の修正追加を行うとともに観音堂の由 | |
| 来と 戦没者(165柱)及び震災被災者(39名)の名簿を堂内に掲示しました |
| 観音堂と忠魂碑について |
| 岡保観音の御朱印 | |
| 越の国札所の朱印が森田の札所で額にして保管してありました.。この中には岡保観音の御朱印もあったのでカメラで撮影してきました。 札所が出来た時には朱印のほかに 黒漆塗りのご詠歌を書いた板(50×60)があったと思われます。ご存知の方は公民館までお知らせ下さい。 |
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岡保観音は越の国第十二番千手観音です。梵字は キリークと読みます |
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御詠歌
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| 奉賛会ニュース 2012/7/7更新 | |
| 戦災・震災犠牲者慰霊塔で追悼式 | |
| 6月28日 足羽山にある戦災・震災犠牲者慰霊塔で福井市主催の追悼式が営まれました。 | |
| これに市長をはじめ遺族など約70名か参列し 午前11時の防災サイレンにあわせ黙祷を捧げました その後一人ひとりが献花し犠牲者の冥福を祈りました。 | |
| 追悼式後 仏式による法要が営なまれました。 | |
| 会場 | |
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| 市長式辞 | |
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| 泉 議員の献花 | |
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| 観音堂と忠魂碑の大改修完了 2011/12/8 | |
| 昭和27年に建てられ老朽化している 観音堂の軒垂木が数本 今年の雪により折れているため 屋根の緊急補修を行ないました。 | |
| また お堂東側外壁の損傷が烈しく 雨洩りがあるため下見板の張り替をしました。 | |
| 大きくひび割れのあった ボーチや 参道の補修も行いました。 | |
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| 忠魂碑 玉垣のクサリ塗装と 参道の改修もしました。 | |
| これら補修の経費は 今年の春解散した軍恩連盟岡保分会からの寄付金に加え岡保遺族会.岡保奉賛会.福井市英霊顕彰奉賛会のご協力によるものです。まだ観音堂の基礎台輪や外壁下見などの補修が必要ですが 資金の手当てが出来ないため 施工を保留しています。 | |
| 資金のめどがつき次第早急に着工したいと考えています。 | |
| 地区の皆様の ご理解 ご協力を おねがいします。 | |
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写真は 12月6日竣工検査の 記録写真です。 |
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