福井学事業「岡保を知ろう会」
岡保をもっと知ろう!
曽万布探訪 報告
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『令和4年6月5日(日)の午後、岡保を知ろう会主催で、「曽万布探訪」を開催しました。コロナ禍でなかなか実施できず、3年越しの計画が漸く実現したものです。皆さん大変お待たせしましたー!
当日は良い天気に恵まれ、「岡保きらめき」さんの駐車場から出発して、順次、見どころを歩いて訪ねました。
町内スタッフの方に入念な準備をして頂き、また、要所要所での住民の方による説明は、とても分かりやすくて、参加された方にも大好評でした。地元の方も知らなかったというポイントもあったようです。曽万布町の皆様、参加して下さった皆様、本当にありがとうございました。』(「岡保を知ろう会」代表 松井富美恵)
県民せいきょう岡保きらめき
県民せいきょう岡保きらめきさんのご厚意で岡保きらめき駐車場からのスタート。これまでで一番多い61名の参加者にスタッフもびっくり!
町内スタッフによる、牛頭天王(ごずてんのう)、生江臣(いくえのおみ)、和田防町遺跡(わだぼうまちいせき)、曽万布遺跡の説明。
実際の景色を見ながら説明を受けるとイメージも膨らみました。
春日神社
『岡保を知ろう会』の旗を先頭に探訪開始。
春日神社は、平安時代の藤原氏の氏神、奈良の春日神社を分神されたもので(1067年)、藤原家が曽万布の荘園を我が領地として春日神社を祀ったことが始まりと考えられるそうです。
足羽郡 条里の基点
実際の条里の基点は今は田んぼの中。そのため、近くの春日神社境内に説明看板をたてさせていただきました。
この看板を見ながらスタッフでもある公民館長が条里の基点について説明。地元の方から、耕地整理以前は春日神社の参道から北へ道が延びており、村の中からの道も東に延びていたというお話を伺いました。基点の場所付近で交差していたようです。
曽万布尋常小学校跡の碑
明治28年10月から明治42年に岡保尋常小学校と合併するまで14年間開設されていたそうです。この場所に小学校があったという証拠があるわけではなく、荒木別所と合島、曽万布のちょうど真ん中あたり、この辺ではないかということで、ここに碑を立てたそうです。
宝樹寺「真盛上人三回忌の記念碑」
岡保地区は浄土真宗が殆どですが、曽万布は天台宗が多く、天台宗真盛派ということです。
歴史のある宝樹寺ですが残念ながら現在は無住となっています。庭には真盛上人三回忌の記念碑や地蔵堂、また、真盛上人三回忌のときに建てられた石柱や板碑などがあります。
重房屋敷神
太閤秀吉が検地の際に士族であった当家に立ち寄り休まれたという言い伝えがあるとのことで、その時に賜ったという大欅(道路拡張の際の移動で倒れてしまい根っこしか残っていない)などをご紹介いただきました。
本清寺
1470年頃、朝倉家の家臣の千田さんという人が蓮如上人に帰依し、得度して建てられたそうです。住職が石山合戦に参戦するなど歴史があるお寺ですが、たびたびの災禍や無住の期間があったそうです。現在も無住となっていますが、20名ほどの門信徒が道場としておまもりしているそうです。
柳原九兵衛(やなぎはらくへえ)翁功労碑
一乗谷に鹿俣(かなまた)という村があり、そこから柳原家へ養子に入られました。曽万布小学校教員から、曽万布区長、岡保村助役、岡保村長2期、県会議員3期、最終的には衆議院議員を2期務められ、その間数多くの功績を挙げられました。
この碑を建てるにあたっては曽万布だけでなく岡保中の人が発起人になっており、その名前が石に刻まれています。
おんどさま
昔は伝説の通り曽万布を見守るように東を向いていましたが、昭和45年の土地改良の時に道を通す関係で現在の場所に移動しなければならなくなり、今は北向きに置かれているそうです。曽万布の方は今でもお盆やお正月にお参りする人が多く、曽万布町と町民の守護地蔵尊として大切にされています。
灰小屋
昔はどこの家にもあり、囲炉裏や竈の灰をまとめて冷ましておく場所。当時は灰も貴重で、肥料として畑に撒いたそうです。
初めての救護車
当初4月の開催予定が6月に延期になったことで、暑さが心配されたため、初めて『救護車』を並走させました。救急箱、保冷剤やタオル、飲み物等を積み、歩けなくなった方には助手席に乗ってもらう予定でしたが、幸い体調を崩された方はなく、一同ほっとしました。