JUNK1

 すうと横から伸びてきた指が、城島のくわえ煙草を掻っ攫った。

「また煙草。俺、止めろって言ったでしょ」
「……いつ来たんや、太一」
「今」

 素っ気無い返答に、城島は肩をすくめる。
 煙草は早々に灰皿に押し付けられてしまった。

「ま、医者先生がそうおっしゃるなら」

 仕方ないので、嫌味たっぷりに言い返してやった。
 太一は、街一番にして唯一の病院の院長、つまり医者先生だ。
 これで医者、されど医者、という説明で全て片付くひととなりである。

「脅迫してるわけじゃないけど、茂くん。本当に肺ボロボロだから。負け惜しみとかじゃなくてね」
「ええやん別に……長生きしたいわけやないもん」
「別に勝手に死ぬのは構わないけどさぁ、あんた死んだら喪主するの俺じゃん。今忙しいんだから、あと10年は待ってよ」

 歯に衣着せぬ物言いをされては、城島もすっかり黙り込んでしまった。
 この幼なじみは、あらゆる遠慮という配慮が欠けている。
 街では、他に見ないほど腕の良い、優しい院長先生で通っているというのに。
 猫かぶりめ、と城島は軽く睨みつけた。
 あるいは、あの院長先生がワンクッションも無く本音をぶつけている相手、という点では喜ぶべきことなのかもしれないが。

 城島は、棚のガラス薬ビンのひとつを手に取った。
 中身は錠剤、ではなくカラフルなマーブルチョコレートである。
 吸わせてはもらえないようなので、煙草を諦めてマーブルチョコなんてもので妥協してみたのだ。

「……それ何かの癖なの? チョコで我慢できるなら禁煙出来るでしょ」
「最終手段やん」

 太一がここに来て初めて苦笑を見せた。
 機嫌が悪いわけではないようだ。
 あとになって、松岡が口を開いた話だ。

「迷い込んでくんのよね、どこからか……何でか知らないけど」

 と、そう言ってからすぐに付け加えた。
 知らなかったけど、と。最近になって、理由を知ったのだと。
 向日葵畑を取り囲むように張り巡らされた結界が、夏の季節だけ開かれる意味。

「野原なんだってさ、黄金の。その人が一番欲しかったものに見せる、幻の……偽物の黄金畑」

 向日葵が満開になる時分に、亡者は夢か現の境界に立てる。

「そういう花なんだってさ」

 道の終わりに、秋の蛍がひとつ、儚げに彷徨っている。
 いや、蛍だと思い込んでいるだけで、本当は違うのかもしれない。
 例えば、現世に悔いを残す亡者の、その微かな訴えを光に変えたものかもしれない。
 そうして、己の墓碑を探すように、飛び回っているのだろうか。

 城島には蛍に見えた。
 人知れず黙祷を捧げた青野には、枯れ落ちた向日葵が1本、静かに項垂れているだけだった。
 6月の御堂は危険だ。
 身の危険。
 まあ確かに、城島茂という霊感ゼロ坊主は、
 何の祟りか因果あってか、よく危険に巻き込まれたりはしている。
 友人たちに言わせると、
「嫌よ嫌よも好きのうち」、
「逃げてる方向が地獄まっしぐら」、
「檻の中に手を入れないで下さいと書かれてある猛獣の前に首を差し出す性質」、
 らしい。
 脱線。

 さしあたって6月は御堂自体が危険に晒される。
 日本列島に停滞し続ける梅雨前線の影響で、木造建築の寺社が悲鳴を上げるのだ。
 限界ですと言わんばかりに軋む渡り廊下。発生するカビと謎のキノコたち。
 何故、日本建築は外側が廊下なのだろう。湿気という水気、全部屋内に招き入れるつもりか。

 本日3杯目の雨漏り受け茶碗を廊下脇にセットする。
 もう溜め息吐くのにも疲れた城島は、さっさと室内に戻ろうとしていた。

「おねがいがあります」

 城島、びくりと振り向く。
 中庭からの声のはずだ。
 だが、見えない。
 声があるのに、誰の気配もない。

「窓を、開けておいて下さい」

 木枠の格子窓の向こう、中庭を見渡せる位置にあっても、人の姿は見えない。
 城島にとって、それは恐怖の矛盾であった。
 声の主は、目に見えない存在であった。
「松岡ァー! 後生やから行かんといてーー!!」
「知るかこのエセ坊主! アンタが毎回毎回罰当たりなことばっかやってるから、こーゆうことが起きるんでしょ!!」

 城島が今生の叫びを上げながら、ずるずると松岡に引きずられている。
 正確には立場は微妙に逆であった。
 松岡が、おいおい泣きながら縋りつく城島を、引きずっている状態なのである。
 松岡の容赦ない悪態と蹴りに負けじと、引きずられている城島である。

「僕は嫌やーー!! もう御堂では寝れんー!!」
「アンタはガキか!!」
「ガキでもクソでもええから、頼む! 今日だけ、今日だけお屋敷に泊めてェーー!!」

 と、いう城島のおよそ立派な成人男子とは思えないほど情けない叫び声は、
 日本家屋の開けっ放しの外廊下を、悠然と通り抜けて広がっていく。

 と、松岡。
 いきなり立ち止まった。
 ついに観念、ならぬ魂の叫びを受け取ってくれたのか、と城島がそっと見上げてみると、
 松岡は自分には目もくれず、無言で庭の方を見つめているだけだった。
 何故。
 何故、いつもほとんど変わり映えしない野晒し庭園を、今日になってまじまじ見ているのだ。

「リーダー、あれさぁ……」
「イヤー!! スイマセンスイマセン堪忍してー!!」

 その先に続くのが、松岡のここぞとばかりの嫌がらせだと察知した城島は、
 女子高生の叫び声を上げて、御堂に逃げ込んでいた。
 面接は、何とも呆気なかった。

 たかだかバイトだというのに、いきなり通されたのは所長室。
 求人広告を見たというだけの殆ど日雇い労働者に、
 秘書のキレイなおねーさんはお茶菓子に冷緑茶まで出してくれた。
 不思議といえば、不思議だろう、が。

 だが、話しているうちに、気にならなくなってしまった。
 所長は一見すると堅そうで、神経質そうで、しかし、思ったよりもずっと明るくて、しかも口達者なのだ。
 自分よりも上だろう年齢は不詳だが、気さくな人柄の精神年齢は近いものがあった。

「真ッ正直に答えてね。何でここでバイトしようと思ったの?」

 真意を図りかねる笑みで問い掛けられては、長瀬は、ぽぽんと言葉を繋いでしまう。

「何で、って……ただ、目についたんです。広告が」
「あー、あの求人広告? あはは、ちっちゃかったでしょ」
「ちっちゃかったですね。でも、目についちゃったんスよ」

 こんなときに選ぶ言葉では無いはずだ。
 と、自分でも判っている長瀬は、不思議でならない。
 ただ漠然と、この人と話しているだけ。会話を繋ぐだけなのに、

「目に、ね? ふふ。じゃ、きっと運命ってヤツだ」
「運命、ですか」
「いや、そーいう風に考えると、何か気分がノってこない?」
「……そんなもんッスか?」

 惹きつけられる。
 人生で最初の、“カリスマ”に出会っているのかもしれない、し、ただ単に勘違いなのかもしれない。
 混乱する長瀬を余所に、所長は変わらず、深い深い眼で微笑んでいる。

「……うん。じゃいいよ。採用させてもらいます。明日から来れる?」
「え? あ、ああ……はい」
「はい決まり。ごめん、ロッカー案内してあげてー」

 テンポ良く流されてしまった。
 ……こんな所長、これで所長?
 別にけなす意味合いではなく、長瀬が不思議そうに首を傾げた時、秘書の男性(さきほど案内してくれた、スーツの男だ。よく見たら、長瀬と同い年くらいかもしれない)がドアを開ける音が、左耳に入る。

「こちらへ、どうぞ」
「あ、はい」

 冷緑茶がほとんど減っていない。長瀬は遠慮がちに席を立つ。
 ドアの手前で少しだけ振り向くと、書類に目を落としていた所長が上げた視線とぶつかる。

「よろしく」
「……よろしく、おねがいします」

 その一瞬だけ垣間見た、彼の真剣な眼差しが、思いの外、似つかわしかったことに驚いて。
 ああ、これがここの所長なのだと、ついに長瀬に理解させたのだ。
 梅雨明け真夏の太陽が、白い舗装のコンクリートに反射して眩しい。
 暑いものは暑い、これは仕方がない。
 平日の遊園地。
 混雑とまではいかないものの、アトラクションを待つ人の列が途絶えないところは、
 さすがにそこそこの人気を得ているだけはある。

 長瀬が持ったのは、アトラクションまわりの誘導係員だ。
 ガラでも無いが、とりあえずはバイト。

「長瀬、次で30分待ちな」
「はい」

 人並みに体力のある方だと自負していた長瀬だったが、期待通り(これだけは外れてほしかったのに)、立ちっぱなしなのだ。
 疲れるものは疲れる、これも仕方ない。
 30分待ちと書かれたステッカーを、立て看板に貼りなおし、思わずして太陽を直に目に入れる。

「あちぃ」
「あちぃだろ」

 自然と吐いて出た独り言に便乗されて、苦笑して振り向く長瀬に、職場の先輩は豪快に笑う。

 長瀬の先輩は、いかにも体育会系な背格好と、不釣合いにも端正な顔立ちが、何故だか上手く連携した男だ。
 彼は、むしろ長瀬以上に汗だくで、この暑さを楽しんでいるのが目に見えて分かる。
 夏をプラスに変える、うらやましい人柄。

「あとちょっとで昼休みだから。ま、がんばれよ」

 頭に被り直す巻きざらしの白いタオルが、誘導員、というより大工さんに見える。

「はい!」

 心の底からおかしくなった長瀬は、笑いの混じった声で返した。
 本当に、太陽のような人だ。
 と、長瀬は思った。
「あっちぃ」

 もうほとんど、口癖である。

 日差しから逃げて、長瀬は休憩テーブルの林立した近く、石畳に腰を落ち着けた。
 真上に被さる大きな広葉樹が、暑さをかろうじて和らげる。
 せっかくの昼休み、終わる前に食堂まで行きたいところだが、この分では涼んでいるうちに時間が経ってしまいそうだ。

「ねー。あんたも新しいバイトさん?」

 すぐななめ後ろからの、声。
 辺りに誰も居ないことから、それが自分にかけられたものだと気づくが、長瀬は距離感を掴めずに、左右を見回す。

「みーぎうしろー」

 言われて、長瀬、誘導されるままに右後ろを振り向く。
 憎らしいほどにベストな位置(ちょうど日陰に当たる道端)に、ぽつねんと停まる、派手な軽ワゴンが1台。
 飲み物なんかの販売ワゴンらしい。

 それ自体にも周りにも、人の気配は無い。
 違う方向からの声だったのだろうかと、長瀬が頭を振ろうとしたとき、ようやく、彼を呼んだらしい男がカウンターの向こう側から、ひょこりと顔を覗かせた。

 同い年くらいだろうか、派手目の明るい髪色で、細い顔立ちの男。

「よ」
「ああ……ごめん、気づかなかった」

 素で安堵した長瀬に、彼は大きく笑ってみせる。

「だって暑くってさぁ。ちょっと避難してんの。ま、今はお客さんも少ない時間だしね」

 そう言うと、またしばらく、姿が車内の奥に隠れる。
 ややあって、彼は紙コップをふたつ両手に、車を降りてやって来た。
 差し出されたのは大きめの角氷が浮かぶ、炭酸のサーバーから注いだばかりのコーラ。

「どーぞ」
「どーも。って。もらっていいんスか?」
「いーよ。今日の目標売り上げ、もう達成してるから」

 どんな理屈だ。
 長瀬は苦笑ながらも、紙コップを受け取る。

「あ、オレ1週間前から働いてんの、あんたは?」
「一昨日」
「やった。オレのがセンパイ」
「4日でしょ」

 笑い声と角氷の割れる音が、エレクトリカルパレードのBGMを遠くに送る。
 話しやすい。
 お互い、安心しているにちがいない。

「あー、そうだ。オレ、松岡っての。これでポップコーンとか売ってる」
「長瀬。今んとこ誘導員だけど、まわるかも」

 では、と挨拶代わりのカンパイ。

「はじめまして」
「よろしく」

 7月6日、長瀬にバイト仲間ができた。
「話は聞いてるよ。お前、“依主”だな」
「何でそれを」

 この周辺一帯のトップシークレットを開口一番に放たれ、松岡は言葉を無くす。

「山口くんに聞いた。俺、大学んときの後輩なの」
「あー、“依主”さまッスか! わーはじめましておあいできてこうえいです」
「って棒読みかよ」

 思わずつっこんでしまったが、とりあえず警戒だけは解かぬまま、松岡は改めて二人を観察した。
 見れば見るほど、奇妙な二人組であった。
 形容してぴったり当たる言葉があるならば、そう、凸凹。まさにそんな感じ。
 長身の男は膝丈まである濃紺のコートに、ひと際映える十字架の護符。
 小柄な方はダウンジャケットだが、袖口から見える数珠重ねだけが不釣合いだ。

「……山口くんの、“同業者”?」

恐る恐る、と松岡が尋ねる。

「鋭いね」
「っていうか、今回はその山口くんから、頼まれたんスけど」
 港の欄干から足を投げ出して座る、太一の元へと歩み寄る。
 とてもではないが、自分には真似できない芸当だ、と松岡は思う。
 近づいてきた気配に、太一も気付く。意地悪そうに笑って見せた。

「お前も横来て、座れば?」
「わあ、すっごい嫌味」
「長瀬は?」
「釣りに行ったよ、“上”に」

 松岡がひよ、と指差した天上に溢れる、広い水の空間。
 あれを海と言わずして、何と言うか。
 つまり、天地がひっくり返っても、図太い人間は何の問題もなく暮らしている。
 いつからか城島は、常に自分が死ぬときのことを考える習慣がついていた。
 それは何気ない瞬間、どうでも良い場所で、何の目的もなしに、考える。
 生まれたからには、いつかは死ぬ生物だ。
 いつ死んでも可笑しくないように、身辺だけはきちんとしておけ、とは彼の母の口癖であった。

「捕らぬ狸の……」

 言いかけて、城島は煙草をもみ消した。
 先のことを考えるのは自分の性分ではないと、思い込んでいたのかもしれない。
「ちょっと。どっちかは飲めないんだよ! 民宿の駐車場まで動かさなきゃいけないんだから」
「ええ? 500mかそこらだぞ?」
「やーだーよ、期間中は割り増しで張ってんだから! オレ、もう点数無いの! 帰りは兄ぃ運転してってよ。車、置いてくなら別だけど」
「延滞とか取られないんなら置いてっても良いけどさぁ……」
「取るよ」
「だろうなぁ」
「ここまで運転して来たのは、どっちだっけ?」
「俺は飲むぞ! 何のための1ケースだよ!」
「オレだって飲みたいっての! じゃー手で押してけば良いでしょ!」
「生身で、素手でか!?」

 この口論の間、BMWのキーが車体を挟んで飛び交うこと3度。
「あの」

 と、声に出してから、部屋に子供しかいないと気づいた。
 廊下へと助けの目をやってみるが、あいにく誰も通りかかってくれない。

 ふと、“子供”のうちの一人が、振り向いて立ち上がる。
 すると、予想外に高い目線がぶつかってきた。
 振り向いたのは、松岡と同年代くらいの青年だったのだ。慌てふためく。
 子供たちの輪に入って丸こまっていたので、見分けがつかなかったようだ。

「……はい? 何でしょう」
「あ、ああ、あの。迷子さんなんスけど」

 あわあわと、突然おぼつかなくなる説明を、彼は急かさずに聞いてくれた。
 松岡は、セリフも中途に、自分の姿に隠れるようにいた男の子の手を引き、その肩を押す。

「えっと、この子」
「ああ! 連れてきてくれたんですね。どうもすみません」
「いえ……」

 特に出来る返事もなくて、保育士が男の子と二言、三言、言葉を交わすのを見守る。
 ほとんど赤ん坊くらいの子供から、小学校低学年くらいの小さな子供まで、よりどりみどり。
 束になって思い思いに遊ぶ様は、ちょっとしたミニ保育園のようで、なかなか面白いが。

「あ、あの……じゃあ僕はこれで」

 松岡のフィールドとしては、場違いの中の、さらに場違いだ。
 足の裏のこそばゆさが、早くこの部屋を出たがっている。
 保育士もその気配を察知したのだろうが、ふと松岡のネームカードを目に留めて口を開く。

「松岡……くん? あ、もしかして新しい方?」
「え? そうですけど」

 その返事に満足したのか、いや、期待を込めたのか。
 保育士は妙ににいっこりと、オーラまで立ち上がっていそうな微笑で、

「イチゴ、好き?」

 と、聞いてきた。
 何か、裏がある、と直感してしまった松岡。この場合、どう返答すべきだろう。
 値千金の知恵を振り絞るも、最適な相槌は思い浮かばなかった。

「ええ……そ、そこそこ」
「うん、ちょっと待っててくれる?」
「はぁ」

 ややあって、保育士は、奥の棚からバスケットを持ってきた。
 被さったタータンチェック柄のハンカチを取りさって見せる。

「ほら、イチゴ」
「……イチゴ、ッスね」

 現れたのは、確かにイチゴ。
 プラスチックのパック包装ではなく、ごろごろと大量が、バスケットにナプキン包みで入っているためか、いっそう赤い色が際立って見える。  こういうシーン、映画であったような気が、と思わずにいられないほどの完璧なシチュエーションを纏うイチゴであった。

「良かったら、おひとつどうぞ」
「はあ……どうも」

 以前、不必要なほどに満面笑顔の保育士に、何やら不吉な気配を感じつつも。
 勧められるがままに、松岡はイチゴのひとつを摘み、口に運んでみる、が。

「……ん?」

 松岡の顔が二転三転、暗転、転結。
 予想外の、ごりと、歯ごたえのある音に、表情が歪む。

「む……なにこれ? イチゴじゃねぇじゃん!」
「ん?」
「違う、これイチゴ飴! 甘いけど砂糖菓子か何かでしょ!」

 食べられなくは無いので吐き出すことはしなかったものの、期待はずれである。
 砂糖菓子と知らずに食べたイチゴは、ある意味、レストランの店頭に紛れた本物の食品サンプルを見つけて食えと言われているようなものだ。
 ワサビ入りシュークリームのロシアンルーレット、はたまた麦茶と間違えて一気飲みした麺つゆ。
 不味い。知っていれば不味くはないものが、不味いのである。

「あーれー? やっぱし失敗したか……」
「失敗って」

 おいと、つっこんだ松岡だが次に返す言葉も出てこない。
 状況が意味不明だったこともあるが、それ以前に、イチゴの形をした馬鹿巨大な飴で占拠された口の、ろれつが回らないのだ。
 保育士は何やら唸っていたが、そのうちはたと顔を上げる。

「あー、でもほら。飴だと思えばオイシイでしょ? ね? 甘いでしょ?」
「なんか騙されたかんじ……そりゃ飴なら食べられるけどさぁ」

 しばらく飴を頬張っていた松岡が、再び微妙な顔で首が傾くのに、そう時間はかからなかった。

「んんー? なにこれ」

 星型のちくちくした、草っぽい食感。
 イチゴの、“ヘタ”だ。
 何故かヘタだけはきちんと草の味で、砂糖菓子では無い。そこだけが無駄にリアルなのである。

「……なんでヘタだけ本物なの」
「え、ヘタは本物!?」

 普通、ヘタも緑で色づけした菓子じゃないのか。
 と、文句を言ってやろうとしたら、突然、保育士は顔を輝かせて、松岡の両手をがしりと掴んだ。

「やった! さんきゅ! ちょっと腕上がったーオレ」
「…………」

 目の前で大喜びする保育士だが、松岡にはさっぱり意味が解らない。
 仕方なしに食物繊維を飲み込んだ。
 イチゴ飴は、まだ口の中でゴロゴロしている。

「松岡くん、今度までには、本物のイチゴ、用意しとくから」
「ああ、うん、もう……がんばって」

 イチゴに本物とか、失敗とか、何のことだ。
 否、追求したいところだが気力も失せたので、投げやりに応援しておく。
 どうやら実験台になったらしい松岡は気持ちもブルーに、部屋を出ることにした。
 が、すぐに立ち止まる。

「ああ……ねぇ、名前は?」

 クレヨンを右手に、スケッチブックを左手に、保育士見習いが目を見張る。
 次には、聞いてくれてありがとう、なんて笑みで、松岡は首の後ろがこそばゆい。

「オレ、長瀬」

 率直、なんか、変なヤツ。
 だけど、笑った顔は悪くないと思った。
 イチゴ味の、イチゴ飴を転がしながら、松岡はセンターを後にした。
 国境沿いの宿場で、もう何日も足止めを食っている男がいた。
 理由は聞かずとも解る。
 川向こうの国と、さらに向こうの隣国とで戦争が始まったからだ。
 タイミングの悪さと言ったら、そこいらの不幸の比では無い。

「どうするんだ、お前?」

 見かねた山口が声をかけた。旅籠の経営者である。
 山口たちが今居るこの国は、永世中立という立場を取っていたから、この戦を戸外から静観することになるだろう。
 どんなに少なく見積もっても数ヶ月、ひょっとすれば向こう数年は、この国境を越えられない。
 男の他に、客はいなかった。

「オレ、帰れないんですか」
「今すぐには、無理だろうな」
「……帰れないんスか」

 山口の言う“今すぐ”が、その言葉の意味するところよりずっと長い期間であることを、男は悟っているはずだ。
 ついに、男は黙り込んでしまった。
 かける言葉が見つからないうちは、話を切り出さないつもりでいた。
 そうして長い数分が、窓枠を揺らす風と共に流れていく。

「2ヶ月くらい前に」

 ぽつ、と口を開いた。
 男の前に、暖かい紅茶のカップを差し出したときだった。

「……2ヶ月くらい前に、手紙を送ったんです。普通の手紙。本当に、普通の手紙で」
「うん」
「もうすぐ帰ります、って書いたんです。追伸」
「うん」

 山口の他に、従業員はいなかった。
 住み込みで働いていた厨房手伝いや清掃員、あわせて5、6人雇っていたが、
 川向こうの雲行きが怪しくなり始めた1週間ほど前に、月額の給金と一緒に里へ帰らせたのだ。

 こじんまりとした宿とはいえ、全ての部屋の管理を山口1人で行えるかと言うと、到底無理な話。
 もっとも、泊り客も事の次第が進むにつれて少なくなり、
 現在となっては、幸か不幸か主人だけでも十分に接客できる範疇となっていた。

 小さな相槌さえもしっかりと響くほどに、外も内も、静まり返っていた。
 きっと、雪が降り出したのだろう。

「帰ります、って書いたのにな」

 男は泣き言を言わない。
 うつむいてはいるが、その表情は暗くは無い。
 ただ掴みようの無い不安定な声が、余りある時間を必死にやり過ごしているのだけは、痛いほど解った。

「……お前、どこの地方出身なの」
「西地区です」
「ふぅん、近いね。俺のダチが北西区に暮らしてんだ。今も」

 男がふっと目を見張る。
 山口の話の、真偽を見極めようとしたのかもしれない。

「医者やってるんだけど」
「お医者さんですか?」
「軍医になってるだろうな、きっと」
「軍……あ」

 男は、それ以上の言葉を付け足さなかった。
 戦争とかいう国同士の面倒事に巻き込まれていなければ、きっと今日もこの宿場のカウンターに来ていただろう、たくさんの知人たち。
 今はもう誰もいない。
 もしかしたら、2度と会えなくなるのかもしれないという漠然とした不安だけが、可笑しなことに山口を宿に縛り付けた。

「また今度、近いうちに一緒に飲もうって約束したんだよ」

 近いうちに、という時期には、限りなく不可能な約束だと知っている。
 今日は何かの記念日だったろうか。
 地元ローカルラジオ局のプロデューサー(臨時)・城島は、本日付で届いたクール宅急便の小包を手に、途方に暮れていた。
 小包と称するには、多少の弊害がありそうなサイズではあった。
 送り主の名は山田太郎。
 全国の山田太郎さんを踏まえれば確率的には有り得るのかもしれないが、そもそも、城島に山田と言う名の知り合いはいない。
 単純に考えても偽名である上、送り状には、食品としか書かれていない。

 開封しても良いものか。
 迷った挙句、また途方に暮れる。

「はぁ。こな小ぃーさなローカルFM局に、ついに果たし状が……」
「それと肉と何の関係があるの?」

 嬉しいのか悲しいのか嘘泣きする城島を一蹴する、構成作家(臨時)・太一の言葉である。
 城島が動きを止めて、ついでに嘘泣きもあっさりと止めて、振り向く。

「肉?」
「箱。箱の横」
「ん? ……ああ、何や。肉かぁ」

 生鮮食品、と有り体に書かれた荷札と、どこぞの生肉加工会社名が刻印されたダンボール箱が決め手であった。
 某お中元のハムの人からの贈り物か何かだろうか。

「どこからのお中元?」
「いや……心当たりないなぁ。名前ぐらい書くやろフツー」
「山田さんでしょ」
「いや、ありえんから」
 その日、城島が御経を上げに寄った檀家は、名のある旧家だった。
 広い敷地に西洋庭園、広葉樹の道、すすき野と、向日葵の自生する畑を持っていた。
 宅玄関に向かうには、向日葵の野を横切らねばならない。
 それが、吉か凶か、幸か不幸かの問題は別として。

「アナタ、本ッ当に形だけだよね」
「失礼やなぁ。これで10年目やでー」

 くつくつと笑いをこらえる松岡に、城島は襟口を正して見せた。
 その行動すら滑稽に見えるのだろう、松岡はついには本気で笑い出してしまう。
 親の跡目を、ただ引き受けただけの僧職。
 それでも追々と流れた月日は、城島に、旧い檀家の慣例事と、小さな誇りとを譲ってくれた。

「10年!? 10年もやってんのに似合わないって? ま、ある意味、貴重だわね」

 この家の主である松岡とは、なじみの間柄であった。

「そーいう松岡かて、9月から社長さんやないか」
「ん? 何、なんか文句あるわけ?」
「軽ッい社長やん……」

 言葉途中から笑顔のままに睨まれて、城島はいくつかあった反論を、即座1つに絞らざるを得なかった。

「こればっかりは仕方ねーでしょ。爺の遺言だし。オレだって取締役なんかやりたくないっての」

 松岡は、その明るい表情を一瞬だけ曇らせて、けれどすぐにつまらなさそうに肩をすくめる。

 松岡家邸宅は、懐古の代に造られた比較的新しいものだ。
 大正モダンな黒い柱と赤い壁板、色彩情緒ある、1フロア約20部屋×3階建ての大豪邸である。
 「部屋数多すぎて、入ったことが無い場所がある」なんてリッチなセリフを、松岡が笑い事でなく口にする理由が切に分かるというもの。

 彼、昌宏の曽祖父の代で大規模な外資貿易の会社に発展して以来、松岡家は、近隣では言わずと周知された名家の道を歩むことになった。
 海外の芸術品を日本で売る仲立ちをしている、らしい。
 城島は、詳しくは知らない。
 聞いていないのではない。城島自身が、商業に疎いのだ。
 詳しく知らずとも社名さえ出せば誰もが感嘆する、それほどの知名度なのだ、この際、知らなくても問題ではない。

「儲かるんやったら雇ってほしいわ」
「冗談。悪霊憑きなんて雇ったら会社潰れる」

 松岡が言う冗談は、たぶん本当に冗談なのだろうから、と城島は自分に言い聞かせることにした。

「あ、茂くん」

 帰り支度を済ませて形式的に礼を払うと、思い出したように、松岡が背中に声をかけてくる。

「向日葵の道は、一気に抜けなよ」

 いつも挨拶のように付け足される忠告に、その日も少しだけ疑問を感じながら。
 城島は、一応のところはお坊さんとは言え、霊感など無いに等しい。
 幽霊の有無(あるいは、自分が信じているか否か)、においても、ただ僧職だという一点だけを除けば、どちらかと言えば否定に回りたいと思っているくらいだ。

「せやって……見えんもんは、見えんしなぁ」

 溜め息と一緒に、一人つぶやく。
 悪霊祓いの仕事を引き受けたこともある。
 “霊感ゼロ”の坊さんである自分が、引き受けた祓いである。

「それで、上手くいってるんやし」

 つまり幽霊の存在なんて、そんな程度のもの。
 城島にとって、それは得体の知れない、しかし体の良い取引先でしかありえない。

 思い散らすうちに、やがて向日葵の野にさしかかった。
 城島の背丈に追いつくばかりの茎を伸ばす、一面の緑。
 これから鮮やかに咲くだろうシーズン前のざわめきを、静かに内に秘めている。

 さして変化の無い景観を、城島は横目で流し見た。
 違いと言えば、いつもは無人の向日葵畑に、今日は人影があったことくらいか。

「……人?」

 城島は、その、いつもとは異なる大いなる変化に我に返った。
 思わず立ち止まる。

 決して高くは無い向日葵の丈に、すぽりと隠れてしまうほどの、小柄な人影があった。
 舗装道路から少し畑に分け入ったところで、腰を折り曲げて、首やら肩やらを忙しなく動かしている。
 何か小さなものを探しているような仕草だった。
 僕が今の仕事に就いて、ようやく軌道に乗り始めた時期に、ふらりと彼は現れたのだった。

 アスファルトの地面に逆光の跳ね返る、小銭でも探しているのかと見紛う猫背である。
 何だか行き場に困っていたようなので、炊事洗濯掃除の3条件提示して「ウチくる?」と話しかけたら、案外あっさりと頷いたものだった。
 ずっと、何かを探していた。
 生き別れの親兄弟、はたまた宿命の仇敵、もしかしたら数日前の居酒屋で10円貸しただけの隣客だったかもしれない。
 ただ、見つけに行くにも面倒なので、たまには一箇所に留まって待とうと、
 たぶんA型の彼は、そう考えてみたのかもしれない。

 ある日、城島が仕事から帰ると、部屋には人の気配がなかった。

「……松岡?」

 暗いリビング兼キッチンに、静かに声を投げてみる。
 アパートの一室は真っ暗のまま、応答が無い。

 ああ、そうか。

 城島は、ただ、あっさりと受け入れた。
 誰もいない部屋、いわば事実。
 松岡は、ふらりといなくなった。
 来たときと同じように、去って行ったのだ。

 それだけだ。

 なのに、今、城島の部屋には、1匹の猫がいる。
 気まぐれにやって来ては、ご機嫌を取ろうとして、はたまたつんとそっぽ向いて、残飯整理して去っていく。
 名前は、まだない。
 と言うか、付けられない。
 オレが物食わぬ顔で突っ立っている前で、彼は器用に足をよじらせては、木の上に、上に、さらに上に、と登っていってしまう。
 下で待っているのは、オレだ。
 いつも、咎めながらも強くは言えず、はらはらと見守るだけの、それでも弟分でありたいと願うオレだ。

「ちょっと……止めなよ、太一くん。怒られても知んないよ?」
「平気だって」

 庭の軒先、垣からはみ出したミカンの木。
 まだ熟していない、青いミカンを、どうして彼は目ざとく見つけてしまうのか。
 もう一人も乗れば折れてしまうような細い枝に、彼は軽々と腰掛けている。
 2個3個、小さな手で持てる分だけをもぎ取って、3mほどの高さから軽々と飛び降りた。
 着地。
 思わず、眼を瞑ってしまう。
 飛んでいるのはオレではないのに。

「はい。松岡のぶん」
「……」

 ずいと差し出されたミカンを、相当迷いながら、けれど結局受け取ってしまった。
 これで、共犯者。
 そう言わんばかりの瞳に負けた気がして、せめて口を尖らせる。

「どうすんの? 怒られるよ?」
「平気だっつーのに」
「もー太一くん怖ぇ。ぴょんぴょん跳ぶし。落ちるし。逃げるし」

 何だかんだで、戦利品のミカンを歩きながらぱくついてみる。
 二人して、渋い顔になる。
 本当に、渋いミカンだったから当然だが。

「不味ぃ」
「なら、こんなミカン盗るなよ。せめてスイカとかさー」
「オレをスイカどろぼうにすんなよっ」

 もっとも、スイカを盗むには多少腕力が足りなさそうだ、との皮肉は付け足さないで置いた。

「じゃあ太一くんは、なに盗るの?」
「星だよ」

 星。
 ミカンが酸っぱい。

「星?」
「そう、星!」

 そう放ったあとの、オレのきょとんとした様子が面白かったのか、彼は満面の笑みで繰り返す。
 齧りかけのミカンを手の上で転がす。

「これはミカンじゃなくて、星なの」
「……星を盗るんだ?」
「夢は壮大でしょ?」

 あはは、と彼が大声で笑った。
 オレも、つられて笑っていた。
 それは壮大な夢、夢で終わるはずだった、幼い日の陽炎。
 あの人の吐いた真昼の夢は、単なる言い訳に留めて置くには、少々、勿体無いような気がしたのだ。