唱門師としての山口の道はと言うと、“猿楽”に分類される、と思われる。
思われる、と推測的な表現であるのには、理由がある。
猿楽師・山口の鬼祓いでのポジションのことだ。
猿楽師、通称“舞手”とも呼ばれるその道は、一般的には支援特化の職種である。
舞に見せかけた(というよりも舞に見えてしまう)歩行法で鬼の行動を制限する結界を周辺一体に張るのが、その主な仕事だ。
鬼を完全に祓うまで、結界を保持し続けることも、忘れてはならない。
さて、山口はと言うと、結界そのもので鬼に直接攻撃を仕掛けてしまう、支援特化とは思えない猿楽師であった。
しかも、攻撃手段というのが、結界で固めた“素手”である。
情緒も何もあったものでない。
おかげで、本来の仕事である結界保持の側面の方は、太一がバックアップに回るという形で補っている次第なのである。
「毎回やっててアレなんだけどさぁ……俺、本職じゃないんだよね」
「いいじゃん。仕事早く終わるし、秦野に援軍求めなくても済むんだしさ」
鬼祓い(厄除けや、祈祷でなく、純粋な意味で“鬼退治”)の仕事を、山口か太一かが引き受けた場合、この二人は、もう片方と組んで行動することが多い。
蘆屋の唱門師がぽつねんと都にいて、他に組める同業者が見つからない、また、秦野の知り合いが少ない、などという理由ももっともで有るが、それ以上に、何より、単純に仕事を遂行し易いというのが、一番の理由である。
互いの実力も、行動パターンも熟知している最良の相棒なのだ。外に選択肢は要らない。
が、二人、という人数は、鬼祓いに当たっては意外ときつい。
本当なら、猿楽師に加えて、祭文、説教、と調伏に強い道師、最低でも三人は必要な仕事だ。
山口と太一が、それぞれの本職で組んだ場合、決定打となる攻撃力が足りない。
いわゆる調伏専門の人材を、秦野からでも助っ人として組み込まなければならないところなのだが、秦野に借りを作りたくない、という点で、二人の考えは一致している。
「……蘆屋の人材、増やしたいよね」
最後の結界端を埋めた太一は、溜め息を吐いて、空き家の軒下に腰を落ち着ける。
猿楽が専門でない太一にとって、結界延敷は骨が折れる作業だ。
ここから先の仕事は、山口に任せるに限る。
「さすがに東都でそれは……なぁ。夢のまた夢だろう」
結界陣地からさっさと離れていった相棒を咎めもせず、山口も、蘆屋の少なすぎる人材を思い、溜め息を吐いた。
鬼蜘蛛の左眼を素手で容赦なく抉っている最中の感傷とは思えないが。
「コマちゃん。ちょっと頼みたいことがあんだけど」
「…………」
白拍子は無視して舞を披露し続けている。
聞こえない距離ではなかろう。山口はさらに一歩近づいた。
扇を翻す手が、頬を掠めるほどの間合いだ。
「コマちゃーん」
扇が額を直撃しそうだったので、山口は顔を後ろに反らした。
「結界張るぞー」
と、ここでようやく白拍子は動きを止めた。
同時に、畳んだ扇を山口目掛けて投げつけた。
「……だーかーら、山口くん!! 仕事中は話かけんの止めてって言ったでしょ!!」
「どうせ誰か降ろしてんでしょ。バレないバレない」
「何か用? デタラメ博士関係? 山口くんの仕事なら手伝わないよ?」
「手厳しいなぁ、太一」
辛辣な言葉を投げながらも、太一には微笑むだけの余裕があった。
「普通に稼ぐ気ないか? 依頼貰ったんだけど」
「茂くん……秦野から?」
「まーね。つっても、俺が全部引き受けたわけじゃねーから、報酬は半々な」
太一も一応のところは蘆屋の唱門師である。本人は断固として認めないだろうが。
秦野を、特に城島を、ある意味でぎゃふんと言わせられるなら、且つ、それで報酬まで戴けるなら、依頼を受けない義理は無い。
「あー……セリが切れたわ」
城島が、たいした問題でもなさそうな調子でつぶやいた。
薬草の在庫を確認しているようだ。
頼まれ事になるのは面倒だ、と分かっていながら口を挟まないのが、山口の唯一の優しさだ。
「山口、採ってきてくれん?」
「なぁシゲさん……俺の仕事は、あなたのお手伝いさんじゃないの、知ってるよねもちろん」
「嫌やわー分かっとるって。困っとる善民を助ける国家権力持ちまくったおまわりさんやん」
嫌味たっぷりに微笑まれた山口巡査は、嫌な汗をかきつつも素知らぬ顔でお茶を啜る。
ハーブティーである。何故か毎回、少しずつ味が違うのだが、
その辺りの事情を聞くとややこしいことになりそうなので、無視して飲み続けている。
「お茶代やと思て、ちょーっとだけ。今、手ぇ離せへんのや」
「お茶欲しいなんて言った覚えは一度も無ぇし。これ完璧に実験台だろ」
「いやっは」
と、妙な笑い声で城島は受け流した。
図星だったらしい。
叩けば埃が出てくるかもしれないと思い、山口は次の言葉の矢を飛ばしてみる。
「俺が毎週こんな辺鄙な所にわざわざやって来る理由、勘のするどーい薬剤師さんならお気づきかと思いますけど」
「あぁー、あ、何やったっけ?」
「……こんな辺鄙な所に住んでる偏屈な薬剤師のせいなんですけどね」
「いやっはー」
デジャヴだ。
軽い眩暈に襲われる山口であった。
薬剤師である城島は、薬の材料を調達しやすいとかいう、実にもっともらしい理由で、街の中心部から大分離れた国境成す山裾の手前、もうあと二十歩で登山口かの、少し小高い丘のような場所、大自然豊かな山のてっぺんに住まっていた。
当然、周囲に人家はひとつも無い。
電線とガス管と、水道管(は、まぁほとんど使われない、湧き水を汲んでいるらしいから)は引っ張ってあるので、月二回、食材を買いに街へ降りさえすれば一応生活はできる。
街との交流といえば、そのぐらいだ。
気を抜くといっそ音信不通。
つまり山口巡査は、一市民の安全を守る巡査として、城島の生存の安否を確認しに来ているわけだ。
「もうちょっと街に近い所に住んでてくれれば、手間も省けんのにねえ」
山口は、心からの溜め息と共につぶやいていた。
頬杖付いて狭まる右目の視界の向こう、山だ。森だ。大自然だ。
緑で埋まる窓を凝視していたら、隙ありとばかりに、城島が二杯目の特製ハーブティーを注ぎ足していた。
「街から山まで薬草摘みに毎度行く方が、よっぽど手間やん? 薬草日帰りで摘みに行けて、生活用パイプライン整った物件なんて、ここしか無かったんよ」
山口は、草履を引きずりながら四条通りを外れに向かって歩いている。
先刻、城島から預かった人形式を懐に携えている。
城島から預かり引き継いだ依頼とは、イコール、秦野が手を引いた依頼ということになる。
秦野が撤退し、蘆屋に回された依頼。
城島本人がそうは思わなくとも、周囲の目は前述のように捉える。
理由はともあれ完遂しなければ、蘆屋の面子と自身のプライドに関わる。
逆にパーフェクトに達成しておけば、秦野の勢力が強い東方で、蘆屋の株も上がるというもの。
山口は、秦野の人間ではない。
この場にいてさえも、蘆屋の人間なのだ。
口元に、薄く笑みを引く。
「保険を掛けておくか……」
湯呑みを片付けに奥座敷へ入った城島が、三つ折の親書を携えて戻ってきた。
依頼書きの三つ折の中に、傀儡を閉じておいたもので、
天辺から開くと、四足の動物の形をした傀儡の依紙が、きれいに紙の上に立って出てきた。
傀儡の四足が、例のスマイルマーク入り人形式を、見事に踏ん付けている。
「この式を打った陰陽師を探して欲しいんや。賀茂家の修習生らしいんやけど、家出してもたそーで」
「家出ぇ? 何だそりゃ……そんなん賀茂の人間で探せるだろうよ」
「……ま。そこは色々ある、ちゅーこと。複雑な家族構成みたいやわ」
「ふぅん」
山口は、どこか納得し難い、といった表情ながらもスマイルマーク入り人形式を抜き取る。
「“狛ちゃん”に降ろしてもろたほうがええかな?」
「……いや。こんぐらいなら俺が受けるよ。てゆーか……」
頭を一掻きした山口が、少し間を置く。
「……松岡にやらせてみようかと思ってる」
「ほほぉ」
「なんだよ」
「いやなに。放任主義のお前が手ぇかけとるなぁ、て」
「放任ってなぁ……元々あなたの弟子でしょうよ、アレ」
痒いところを突かれた城島は、何も考えていない空笑いをする。
山口は、嘆息した。懐に人形式を仕舞いこんで席を立つ。
その後姿に、城島が声を掛ける。
「まぁ、僕一人の弟子ちゅーわけでもないしなぁ。秦野期待の若手ルーキーやん。色々面倒見たってな」
「俺は秦野じゃねーつうの」
松岡、とは、秦野一派に属する中で最も若い唱門師の男の名だ。
彼が師事しているのは誰あろう、秦野一派筆頭である城島、今まさしく眼前で茶を啜るその人なのだが、生来からのサボリ癖か時間配分の下手さが災いしてか、師匠らしいことをさっぱりしてやらず、業を煮やした弟子の松岡は、師から教えてもらうのを待っていることを諦めた。
現場主義、習うより慣れろ、とは言ったものだ。
外庭向きの廊下に、妙に背筋を正した山口が胡坐をかいて座していた。
「……つい先刻、道満先生が来たぜ」
「蘆屋の爺さんか? 何や。呼んでくれたら良かったのに」
蘆屋道満と言えば、鬼の世界にこの人在りと畏怖される、当代きって鬼才の唱門師である。
かの天才陰陽師・安倍清明に拮抗できる存在が、あるいは唱門の世界に居るとしたら、唯一、この老翁なのかも知れない、と城島は思っている。
「傀儡で寄越してたよ。アンタには失礼だから用が済んだらすぐ帰る、ってさ」
そう言って山口が指差した地面を見ると、人形の切り紙が落ちていた。
それだけは回収してくれ、という意味らしい。
「都に用があるて……蘆屋の爺さんには珍しいやないか」
「都、って言うか。まぁ、俺に用があったみたいだけどな」
聞いて欲しくないことなら、その話題には触れない。
城島は、山口の意図を感じ取る。
「面倒ごとでも、押し付けられたんか?」
耳に入れておくだけだ、と念頭に入れつつ、城島が尋ねると、山口の苦笑が返ってきた。
蘆屋道満は、山口にとって唱門の師匠に当たる。
師匠の頼み、となれば無下に断ることも出来ないのだろう。
「道満先生んとこのお孫さんが、行方知れずなんだそうだ。都に来てるらしい」
「……あの爺さん、家族おったんかい」
「まず引っかかるところ、そこなのかよ」
他の魔術師に属する人形を、その呪縛から解き放つには、組み込まれた『文字』を書き換えなくてはならない。
全ての呪文と紋様、数と言い表すには天文学的なほど、膨大な量である。
さて、真理の文字だけは、6割がた、魔術師のセンスに委ねられる。
長瀬の(長瀬、と名づけた元々の人形の)真理の文字は、英字で『FIERY』、すなわち火。
なるほど、戦場においては強力に意味を成す真理である。
おかげで彼は、火によって痛むことなく、火を制する力を如何なく発揮していた。
太一は、長瀬を呪縛から解放するために真理の文字を書き換えたのだ。
それは、長瀬の(元)主人である大魔術師への、土足で踏み込んだ宣戦布告。
たかだか一介の流れの魔術師が、世界を束ねる大魔術師へと放った、強烈な先制攻撃だ。
それだけの行為(たかが、それだけ、と言える彼の度量の広さ)は、長瀬に脱走を決意させるのに十分だった。
「お前、『真理の文字』は?」
山口が問うた。
人形にとって『真理の文字』は、存在をもたらす文字。ひいては存在理由を意味する。
時と場合によっては、文字の意味するところと現実との差問題が契約不履行と見なされ、即刻破壊処分が下りるいくつかの要因もある。
長瀬は笑っていた。
真理を聞かれることが苦痛だった山口には、実に不思議な光景だった。
「『自由』です」
自由に真理を変え、自在に生きるという『人形』の有り方。
長瀬の存在そのものが自由なのだ。
山口は、文字の意味をうっすらと悟り、微笑み返すしか出来なかった。
そういえば俺の文字は、どうなったのだろう。
書き換えると散々ぼやいていた、あの男。
至って古風な人形師に面と向かって聞くのは、何故だか気後れする感じだ。
今の山口になら、自らの真理を知る覚悟を持てると思った。 さて、城島が目的の部屋の障子戸を開けると、そこはもぬけの空であった。
「……ありゃ?」
思わず、呆けた声が出る。
本来、この部屋に居なければならない人間が、居なかっただけのことであるが。
立ち尽くす城島を不思議に思った女官が、後ろから部屋を覗き込む。
「博士様、如何なさいました? 伴成様はそちらにいらっしゃいますが」
城島は、女官を一瞥する。
部屋に2歩、3歩足を踏み入れて、中央に置かれた卓の前で立ち止まった。
おもむろに、空を掴み取る。
背後の女官が、息を飲む気配があった。
城島の指は、中空で漂う白い紙切れを掴んでいた。
「……あっ!? まさか、式……」
「そのようで」
摘み取った紙切れは手の中でくしゃくしゃになってしまっている。
城島は、紙の端と端を引っ張って、キレイにシワをのばしてみた。
子供の作った切り絵のような、人形の姿になった。
ご丁寧に、丸い二つの眼とにっこり笑った口まで切り抜かれている。
「なんちゅーか……芸が細かいなぁ……」
普通の式を作るのに、スマイルマーク入り人型なんぞ使わないだろうに。 唱門師の力は、存外に弱い。
陰陽師と比べれば、それはもう一目瞭然。月とスッポン、太陽とノミ。弱い。
単体では事件を解決できないくらいに、弱いのである。
なので、彼らが仕事を請け負うときは、たいていは息の合う複数人でグループを組んで行動する。
松岡は、二月前にこの世界に足を踏み入れたばかり。認めたくは無いが、ヒヨっこである。
一緒に組んだ唱門師も、まだ片手の指で数えられるほどしかいない。
相棒に困り、松岡は一陵殿にやって来た。長瀬を誘おうと思ったのだ。
西志津の4分の1ほどを占める敷地面積をとことん無駄使いした、一陵殿。賀茂家の屋敷である。
って言っても、何処か放っつき歩いてる確率の方が、高いんだよなぁ。
松岡は嘆息する。
長瀬は自由人なのである。
賀茂家の嫡子ではないし、それも末子、ある程度の自由は許されているとは言え、将来的には家督さえ狙える位置にいる男なのに、何とも風来坊だ。
屋敷にじっとしていることはほとんどなく、暇さえあれば街へと出ている。
本来なら、位の高い貴族には考えられない行動力ではあるが、その辺の経緯は、彼の生来の性格なのか、もしくはより複雑な家庭環境の背景なのか、松岡には判別は難しい。
どちらにせよ、事実は唯一。長瀬は屋敷が、一陵殿が嫌いなのだろう。分からなくはない。
松岡は裏の勝手口から、勝手に一陵殿に入る。 城島が、不意に歩みを止める。
西志津の屋敷は昼前だと言うのに、夜雲が立ち込めている。
「如何なさいましたか、博士様」
城島の後ろに続く女官が、そう尋ねて来る。
「いえ、御気になさらず。少し空模様が気になっただけです」
「そう言えば……今宵は件の星が出ると、先ほど屋敷を訪れた聖が残して行きましたが」
「……聖? 来たのですか?」
「はい。ああ……いえ、おそらく騙りでございましょうが……何分、物騒な時期でございましたし」
女官の歯切れの悪い返答に、城島は何度か頷いて見せた。
前者にしろ後者にしろ、そうだろう、と城島も思う。
“聖”とは、“日知り”、すなわち明日を知る者の意である。
力は、簡単なところで天気予報士なのだが、その程度のことであれば、そこら辺にいる猫やら蛙にでも出来るというもの。
本来の聖は、厄を退け良を諭す、強固な未来視の力を持つ。つまりは、預言者。
七道の中でも、支陰陽に匹敵するか、ともすれば超えるとまで言われる上位の唱門師。
その聖が、『今宵、件の星が出る』と言い残した。
本当ならば、不確かな情報とは言え、仲間にも伝えなければならないだろうが……。
城島は、うつらうつらと考えながら、屋敷の廊下を歩き出す。
もっとも城島の知る限り、彼が本物だと認めた聖は、後にも先にも、たったの1人きりしかいない。 かの平安の都は、陰陽道に通ずる100年に1人の天才が出たとかの話題で持ちきりだ。
「確か、ええと……安部清明、だったかな? 賀茂から出たんだよね」
「支陰陽の鬼才、妖の寵児……ね。天才ちゅーのは、出るとこには出るもんやねぇ」
「しかも人の良いことに、頼まれさえすれば、下賤階級の民たちも救って下さるそーだ」
城島の背後に約1万アンペアの電撃が走った。
「山口ィ!! それを早く言わんかいッ」
「今、言ってたんでしょ。だからそれを」
「あかん……あかんで、安部清明! このままやったら、ワシらの仕事が無くなるッ……!」
都で無職イコール餓死、直向で当たらずとも割と遠からずの天則である。
「てか元々、あなた薬学博士なんだしさぁ……真面目に働けば食銭くらい稼げるでしょうよ」
「貴族のボンボン共に学なんて教えても役に立った試しないわ」
「いや、あんたの役には立たないでしょうけどね。案外、アナタの生徒さんの中から、良い士官が出てくるかもしれないよ?」
「アホ。その頃には引退しとる」
苛々しながら啜った茶と一緒に、菓子を早々に片付けてしまった。
「師匠と約束したしな。僕は、平屋暮らしの下位陰陽師の方が性に合っとる」
「……賀茂からお誘い来たって聞いたけど?」
城島は平静を装いながら、山口の横顔を見やった。
何食わぬ顔で、笹の葉を食んでいる山口がいる。
昨日の今日だ。
確かに城島は、昨日、賀茂家の末子の家庭教師という名目で、屋敷に呼ばれた。
賀茂と唱門系との仲は、取り立てて良くはない、むしろ若干悪い。
支陰陽の大本山である賀茂家と、その理を裂いた離陰陽の一派なのだから、当然と言えば当然だ。
しかし、ぴりぴりと完全敵対しているわけでもない。生温く仄冷たい、微妙な間柄である。
「……お早い耳なことで」
「太一に聞いた」
「あいつどっからネタ仕入れんのやろ……やっぱ床……」
「そっから先は、自分の寿命と一時の気の迷い、秤にかけてよぉく考えてから口にした方が良いと思うよ、茂くん」
城島は、即刻黙った。
老い先残り半分くらいとは言え、やっぱり天寿は全うしたいらしい。
「賀茂と吸収合併とか?」
「まさか……ちゃうわ。ちゅーか、最初は本当に家庭教師やったん。依頼があったんや」
「依頼? 賀茂からか?」
「鬼とは違う方面でな。僕より、お前か太一にやってもらった方がええと思う」 「もーだめ。バレた。絶対しょっぴかれるー……店長、骨は拾ってね」
「いつの時代の話だよ」
カウンター向かいで、さして興味無さそうにテーブルを拭くのは、店長こと太一。
一仕事終えるたびに、この喫茶店兼居酒屋にやってくる彼、
松岡だったが、今回も毎度のごとく溜め息ばかりだった。
「だいたい、お前いっつも何か一つは失敗してるだろ。危機感が沸かないの」
「ひでーな、もぉ」
「お前……向いてないんだよ、“泥棒”には」
松岡が顔を上げると、珍しく曖昧な雰囲気の太一と目が合った。
心配半分、諦め半分、その裏を返せば強い反発。
「なぁ、本当に続ける気か? リーダーの残してった宝飾類とか残ってるだろ? 換金すれば、施設の10年分の生活費くらいには……」
「ごめん……でも、これはオレの問題。オレが、決着つけたいだけだから」
「松岡」
「あいつの世話には……なりたくないんだ」
呟いた言葉とは裏腹に、松岡は少し笑っていた。 刹那、銃砲が炸裂した。
木板の壁を伝わり、細動させる衝撃に長瀬は後ずさりする。
銃弾の前には、紙1枚に等しい薄さの板だ。至近距離ならば、簡単に貫通されてしまう。
ぱらぱらと散って落ちる木屑、細かな金属屑。
破壊されたのは天井近くの小窓だった。
――怯むな!
強い隙間風に、ガラスの破片が舞う。
長瀬は、一瞬でも身構えてしまった自身の本能を悔やむ。
彼が、自分を撃つはずが無いのに。
「待って……!」
風通しの良くなった小窓に向けて、あらん限りの声を張り上げる。
「待って!!」
追いすがっても無駄だと、薄々感じてはいた。 「やっぱ俺はいいや」
「……太一!?」
山口が椅子を跳ね除けた。
直後に、「しまった」という表情を一瞬だけでも覗かせたのを、太一が見逃すはずがない。
多少でも切迫した雰囲気を隠そうと演技し続ける、山口の先手を遮って続ける。
「大切な何かを失うようなら、俺はこのままでいい」
「……知ってたのか」
重く静かに震える声、もはや、それが全てを物語っていた。
太一は首を横に振る。
「知らないけど、なんとなく」
「…………」
その沈黙は、どちらの意味合いが強いのだろうか。
山口は机に手を落ち着かせたまま、椅子にどかりと落ちた。
立っているのさえ辛い病人のように、長く息を吐く。
机の下、足の先に目線を泳がせながら、次の言葉を選んでいる。
「等価交換、だからね」
誰に言ったのでもない太一の呟きが、しっかりと耳に入る。
「けど俺は……何かを失っても、お前の眼が戻る方がいい」
「山口くん、それは罪滅ぼしなの?……それとも、免罪符のつもり?」
抑揚の無い太一の問いに、薄く笑う。
「さぁな」
山口は外套を翻し、何も言わずにリビングを出た。
わずかに動いた部屋の空気に、戸棚の上の猫が小首を傾げる。 虫の死骸ですら、手足と羽根を備えているのに、これは……
彼は、屋根の上で生き絶えていた。
最後の力を振り絞って羽ばたいた欠片は、兵士どもには手が届かないところにあった。
命より重いものなんて無い、なんて嘘だ。
現実にこうして、命を亡くす人がいる。
重いのは、“その命を繋ぐために必要なもの”のほうなのだ、決まっている。
「許さねぇ」
そうして憎むだけ憎んだら、走り出す。
足を止めることが敗北であると、松岡は誰よりも気付いている。
――取り返す、失った全てを。
「必ず」 「マボ警部ー」
場の緊張感を10tハンマーで粉々に打ち砕いて、階下から脇目もふらず駆け上がってくる足音ひとつ。
「マボ警部っ、捜査員の配置、終わりました」
した、とさながら模範生のように敬礼だけは美しいので、実はこれでいて上の輩からは評価が高い。
松岡はバラバラになった緊張感の破片を繋ぎ合わせるのに、毎回苦労しているのである。
「……なぁ、長瀬巡査。その“マボ警部”っての、止めてほしいんだけど」
「えー? ジーパン刑事みたいでカッコ良くないッスか?」
「お前、何才だよ。ってか、どの辺からカッコイイんだよ」
「……戻ってない?」
「檀家に寄ってから帰る、って。てっきりお前ん家かと思ったんだけど」
電話向こうの相手は、今の状況を知る由も無く流暢に言葉を紡ぐ。
城島がこの家を離れて3時間。歩いて片道15分の寺まで、用も無いのに戻っていない。
こんなときに、いやこんなときだからこそ、と言うべきだったのかもしれない。
「ありがと、わかった」
「あ? ちょ……松岡? どういう……」
松岡は素早く受話器を置いた。
リビングに投げっ放しの上着と、携帯電話とを引っ手繰る。
今しがたの電話相手が、実は隠れ心配性なことなど、すっかり頭を抜けていた。
さては向日葵の野で立ち止まりやがったな、と、脳味噌の大部分を占めるのは焦りと苛立ちで、
「……あの馬鹿坊主」
漠然とした不安だけが、松岡の脚をもつらせた。
「ごめん……なさい」
板向こうの声が、突如崩れた。
太一は、予想外の事態に焦る。
「ごめんなさい。ごめん、太一くん」
何故、“ここ”に俺が居ることを知っている?
見えない相手が、自分の名を呼んだ声に少なからず動揺する。
いや、考えてもみれば造作ない。告解室に入った姿を見られのだ。
入室の際は十分に周りを注意しろと、上司に言われていた。
規則は、仕事に必要な分だけはきちんと守る性分だ。注意を怠った覚えは無いのに。
太一は舌打ちする。
「オレは、守りたかったんだ。みんな守れると思ってた……思ってたのに」
一瞬、上擦った声が小窓の方へと近づいた気がした。
椅子から人が立ち上がる気配。
思わず、太一も立ち上がる。
狭い告解室を、1歩後ろへと退がる。
「ごめんね、太一くん。やっぱ、守れなかったんだ」
そして、今、ようやく太一は気付く。
我にもなく心が振れるのは、自分の名を呼ばれたことに対する動揺ではなかった。
わずかに鼻に掛かる伸びやかな声。
春が似合う声質のくせして、人一倍春が苦手な声。
「長瀬、か」
「…………」
沈黙は、肯定だ。
何度、この声の主と会話したか数え切れない。
覚えのある耳に馴染む感触、気のせいなんかでは無い。もう間違えるはずがなかった。
今、この瞬間に、板仕切りの向こうにいる男、長瀬智也。
仕事、社会、憂鬱を持ち込まない、三大スローガンを掲げたとあるバーの、常連同士として知り合った。
生活時間帯が一緒なのか、どちらかが暇なのか、よく鉢合わせては馬が合った。
いつの間にやら、用がなくても世間話出来る間柄となっていた。
「お前、自分でフリーターだ、って言ってなかったか?」
「……フリーターだもん。嘘言ってないよ。“コレ”は、もう1つの仕事、だもん」
「こんのエセフリーター……」
「太一くんこそ。売れない中古問屋なんて……ちょー嘘っぱちじゃん」
親しい友人だと、太一は思っていた。
勿論、今も友人だと思っているし、多分、長瀬もそう思っていてくれている。
なのに、だ。
そう言えば、お互いの『もう1つの仕事』を詳しくは知らなかった。
太一は、すぐに気付けなかった自身の疎さを恥じる。
「で、ここで何してるんだ」
「……しごと、だってば」
「ああ……そうか、そうだよな。俺らを裁くのがお仕事だもんなぁ?」
「違う。それはオレの仕事じゃない」
がたりと、床が悲鳴を上げる。
「何でオレが、こっち側なの!?」
牧師は、この街では永世中立にして連絡手段。そして、仲介屋。
「無理だよ長瀬。お前と、俺の道は違いすぎる」
「オレ、黙ってるなんて出来ないよ。マボの“もう1つの仕事”、知ってるでしょ? 今、聞いた話も、太一くんのことも、“太一くんがここに来たこと”も、全部話すよ?」
「そう言うと思った」
太一は哀しげに鼻で笑って聞かせた。
はったりだ。口で言うだけだ。それを分かってしまえるから、尚も長瀬との道は遠いのだ。
彼は、絶対に自分からは、このことを彼らに話さないだろう。
長瀬は、牧師となるには優しすぎた。
「……だから、何回も言っただろ? お前は、牧師にゃ向いてないって」
上着の袖口から、すとんと短銃を手に落とす。
護身用にと隠し持っていたものだが、まさか使う羽目になるとは思わなかった。
「これで最後だ」
思われる、と推測的な表現であるのには、理由がある。
猿楽師・山口の鬼祓いでのポジションのことだ。
猿楽師、通称“舞手”とも呼ばれるその道は、一般的には支援特化の職種である。
舞に見せかけた(というよりも舞に見えてしまう)歩行法で鬼の行動を制限する結界を周辺一体に張るのが、その主な仕事だ。
鬼を完全に祓うまで、結界を保持し続けることも、忘れてはならない。
さて、山口はと言うと、結界そのもので鬼に直接攻撃を仕掛けてしまう、支援特化とは思えない猿楽師であった。
しかも、攻撃手段というのが、結界で固めた“素手”である。
情緒も何もあったものでない。
おかげで、本来の仕事である結界保持の側面の方は、太一がバックアップに回るという形で補っている次第なのである。
「毎回やっててアレなんだけどさぁ……俺、本職じゃないんだよね」
「いいじゃん。仕事早く終わるし、秦野に援軍求めなくても済むんだしさ」
鬼祓い(厄除けや、祈祷でなく、純粋な意味で“鬼退治”)の仕事を、山口か太一かが引き受けた場合、この二人は、もう片方と組んで行動することが多い。
蘆屋の唱門師がぽつねんと都にいて、他に組める同業者が見つからない、また、秦野の知り合いが少ない、などという理由ももっともで有るが、それ以上に、何より、単純に仕事を遂行し易いというのが、一番の理由である。
互いの実力も、行動パターンも熟知している最良の相棒なのだ。外に選択肢は要らない。
が、二人、という人数は、鬼祓いに当たっては意外ときつい。
本当なら、猿楽師に加えて、祭文、説教、と調伏に強い道師、最低でも三人は必要な仕事だ。
山口と太一が、それぞれの本職で組んだ場合、決定打となる攻撃力が足りない。
いわゆる調伏専門の人材を、秦野からでも助っ人として組み込まなければならないところなのだが、秦野に借りを作りたくない、という点で、二人の考えは一致している。
「……蘆屋の人材、増やしたいよね」
最後の結界端を埋めた太一は、溜め息を吐いて、空き家の軒下に腰を落ち着ける。
猿楽が専門でない太一にとって、結界延敷は骨が折れる作業だ。
ここから先の仕事は、山口に任せるに限る。
「さすがに東都でそれは……なぁ。夢のまた夢だろう」
結界陣地からさっさと離れていった相棒を咎めもせず、山口も、蘆屋の少なすぎる人材を思い、溜め息を吐いた。
鬼蜘蛛の左眼を素手で容赦なく抉っている最中の感傷とは思えないが。
「コマちゃん。ちょっと頼みたいことがあんだけど」
「…………」
白拍子は無視して舞を披露し続けている。
聞こえない距離ではなかろう。山口はさらに一歩近づいた。
扇を翻す手が、頬を掠めるほどの間合いだ。
「コマちゃーん」
扇が額を直撃しそうだったので、山口は顔を後ろに反らした。
「結界張るぞー」
と、ここでようやく白拍子は動きを止めた。
同時に、畳んだ扇を山口目掛けて投げつけた。
「……だーかーら、山口くん!! 仕事中は話かけんの止めてって言ったでしょ!!」
「どうせ誰か降ろしてんでしょ。バレないバレない」
「何か用? デタラメ博士関係? 山口くんの仕事なら手伝わないよ?」
「手厳しいなぁ、太一」
辛辣な言葉を投げながらも、太一には微笑むだけの余裕があった。
「普通に稼ぐ気ないか? 依頼貰ったんだけど」
「茂くん……秦野から?」
「まーね。つっても、俺が全部引き受けたわけじゃねーから、報酬は半々な」
太一も一応のところは蘆屋の唱門師である。本人は断固として認めないだろうが。
秦野を、特に城島を、ある意味でぎゃふんと言わせられるなら、且つ、それで報酬まで戴けるなら、依頼を受けない義理は無い。
「あー……セリが切れたわ」
城島が、たいした問題でもなさそうな調子でつぶやいた。
薬草の在庫を確認しているようだ。
頼まれ事になるのは面倒だ、と分かっていながら口を挟まないのが、山口の唯一の優しさだ。
「山口、採ってきてくれん?」
「なぁシゲさん……俺の仕事は、あなたのお手伝いさんじゃないの、知ってるよねもちろん」
「嫌やわー分かっとるって。困っとる善民を助ける国家権力持ちまくったおまわりさんやん」
嫌味たっぷりに微笑まれた山口巡査は、嫌な汗をかきつつも素知らぬ顔でお茶を啜る。
ハーブティーである。何故か毎回、少しずつ味が違うのだが、
その辺りの事情を聞くとややこしいことになりそうなので、無視して飲み続けている。
「お茶代やと思て、ちょーっとだけ。今、手ぇ離せへんのや」
「お茶欲しいなんて言った覚えは一度も無ぇし。これ完璧に実験台だろ」
「いやっは」
と、妙な笑い声で城島は受け流した。
図星だったらしい。
叩けば埃が出てくるかもしれないと思い、山口は次の言葉の矢を飛ばしてみる。
「俺が毎週こんな辺鄙な所にわざわざやって来る理由、勘のするどーい薬剤師さんならお気づきかと思いますけど」
「あぁー、あ、何やったっけ?」
「……こんな辺鄙な所に住んでる偏屈な薬剤師のせいなんですけどね」
「いやっはー」
デジャヴだ。
軽い眩暈に襲われる山口であった。
薬剤師である城島は、薬の材料を調達しやすいとかいう、実にもっともらしい理由で、街の中心部から大分離れた国境成す山裾の手前、もうあと二十歩で登山口かの、少し小高い丘のような場所、大自然豊かな山のてっぺんに住まっていた。
当然、周囲に人家はひとつも無い。
電線とガス管と、水道管(は、まぁほとんど使われない、湧き水を汲んでいるらしいから)は引っ張ってあるので、月二回、食材を買いに街へ降りさえすれば一応生活はできる。
街との交流といえば、そのぐらいだ。
気を抜くといっそ音信不通。
つまり山口巡査は、一市民の安全を守る巡査として、城島の生存の安否を確認しに来ているわけだ。
「もうちょっと街に近い所に住んでてくれれば、手間も省けんのにねえ」
山口は、心からの溜め息と共につぶやいていた。
頬杖付いて狭まる右目の視界の向こう、山だ。森だ。大自然だ。
緑で埋まる窓を凝視していたら、隙ありとばかりに、城島が二杯目の特製ハーブティーを注ぎ足していた。
「街から山まで薬草摘みに毎度行く方が、よっぽど手間やん? 薬草日帰りで摘みに行けて、生活用パイプライン整った物件なんて、ここしか無かったんよ」
山口は、草履を引きずりながら四条通りを外れに向かって歩いている。
先刻、城島から預かった人形式を懐に携えている。
城島から預かり引き継いだ依頼とは、イコール、秦野が手を引いた依頼ということになる。
秦野が撤退し、蘆屋に回された依頼。
城島本人がそうは思わなくとも、周囲の目は前述のように捉える。
理由はともあれ完遂しなければ、蘆屋の面子と自身のプライドに関わる。
逆にパーフェクトに達成しておけば、秦野の勢力が強い東方で、蘆屋の株も上がるというもの。
山口は、秦野の人間ではない。
この場にいてさえも、蘆屋の人間なのだ。
口元に、薄く笑みを引く。
「保険を掛けておくか……」
湯呑みを片付けに奥座敷へ入った城島が、三つ折の親書を携えて戻ってきた。
依頼書きの三つ折の中に、傀儡を閉じておいたもので、
天辺から開くと、四足の動物の形をした傀儡の依紙が、きれいに紙の上に立って出てきた。
傀儡の四足が、例のスマイルマーク入り人形式を、見事に踏ん付けている。
「この式を打った陰陽師を探して欲しいんや。賀茂家の修習生らしいんやけど、家出してもたそーで」
「家出ぇ? 何だそりゃ……そんなん賀茂の人間で探せるだろうよ」
「……ま。そこは色々ある、ちゅーこと。複雑な家族構成みたいやわ」
「ふぅん」
山口は、どこか納得し難い、といった表情ながらもスマイルマーク入り人形式を抜き取る。
「“狛ちゃん”に降ろしてもろたほうがええかな?」
「……いや。こんぐらいなら俺が受けるよ。てゆーか……」
頭を一掻きした山口が、少し間を置く。
「……松岡にやらせてみようかと思ってる」
「ほほぉ」
「なんだよ」
「いやなに。放任主義のお前が手ぇかけとるなぁ、て」
「放任ってなぁ……元々あなたの弟子でしょうよ、アレ」
痒いところを突かれた城島は、何も考えていない空笑いをする。
山口は、嘆息した。懐に人形式を仕舞いこんで席を立つ。
その後姿に、城島が声を掛ける。
「まぁ、僕一人の弟子ちゅーわけでもないしなぁ。秦野期待の若手ルーキーやん。色々面倒見たってな」
「俺は秦野じゃねーつうの」
松岡、とは、秦野一派に属する中で最も若い唱門師の男の名だ。
彼が師事しているのは誰あろう、秦野一派筆頭である城島、今まさしく眼前で茶を啜るその人なのだが、生来からのサボリ癖か時間配分の下手さが災いしてか、師匠らしいことをさっぱりしてやらず、業を煮やした弟子の松岡は、師から教えてもらうのを待っていることを諦めた。
現場主義、習うより慣れろ、とは言ったものだ。
外庭向きの廊下に、妙に背筋を正した山口が胡坐をかいて座していた。
「……つい先刻、道満先生が来たぜ」
「蘆屋の爺さんか? 何や。呼んでくれたら良かったのに」
蘆屋道満と言えば、鬼の世界にこの人在りと畏怖される、当代きって鬼才の唱門師である。
かの天才陰陽師・安倍清明に拮抗できる存在が、あるいは唱門の世界に居るとしたら、唯一、この老翁なのかも知れない、と城島は思っている。
「傀儡で寄越してたよ。アンタには失礼だから用が済んだらすぐ帰る、ってさ」
そう言って山口が指差した地面を見ると、人形の切り紙が落ちていた。
それだけは回収してくれ、という意味らしい。
「都に用があるて……蘆屋の爺さんには珍しいやないか」
「都、って言うか。まぁ、俺に用があったみたいだけどな」
聞いて欲しくないことなら、その話題には触れない。
城島は、山口の意図を感じ取る。
「面倒ごとでも、押し付けられたんか?」
耳に入れておくだけだ、と念頭に入れつつ、城島が尋ねると、山口の苦笑が返ってきた。
蘆屋道満は、山口にとって唱門の師匠に当たる。
師匠の頼み、となれば無下に断ることも出来ないのだろう。
「道満先生んとこのお孫さんが、行方知れずなんだそうだ。都に来てるらしい」
「……あの爺さん、家族おったんかい」
「まず引っかかるところ、そこなのかよ」
他の魔術師に属する人形を、その呪縛から解き放つには、組み込まれた『文字』を書き換えなくてはならない。
全ての呪文と紋様、数と言い表すには天文学的なほど、膨大な量である。
さて、真理の文字だけは、6割がた、魔術師のセンスに委ねられる。
長瀬の(長瀬、と名づけた元々の人形の)真理の文字は、英字で『FIERY』、すなわち火。
なるほど、戦場においては強力に意味を成す真理である。
おかげで彼は、火によって痛むことなく、火を制する力を如何なく発揮していた。
太一は、長瀬を呪縛から解放するために真理の文字を書き換えたのだ。
それは、長瀬の(元)主人である大魔術師への、土足で踏み込んだ宣戦布告。
たかだか一介の流れの魔術師が、世界を束ねる大魔術師へと放った、強烈な先制攻撃だ。
それだけの行為(たかが、それだけ、と言える彼の度量の広さ)は、長瀬に脱走を決意させるのに十分だった。
「お前、『真理の文字』は?」
山口が問うた。
人形にとって『真理の文字』は、存在をもたらす文字。ひいては存在理由を意味する。
時と場合によっては、文字の意味するところと現実との差問題が契約不履行と見なされ、即刻破壊処分が下りるいくつかの要因もある。
長瀬は笑っていた。
真理を聞かれることが苦痛だった山口には、実に不思議な光景だった。
「『自由』です」
自由に真理を変え、自在に生きるという『人形』の有り方。
長瀬の存在そのものが自由なのだ。
山口は、文字の意味をうっすらと悟り、微笑み返すしか出来なかった。
そういえば俺の文字は、どうなったのだろう。
書き換えると散々ぼやいていた、あの男。
至って古風な人形師に面と向かって聞くのは、何故だか気後れする感じだ。
今の山口になら、自らの真理を知る覚悟を持てると思った。 さて、城島が目的の部屋の障子戸を開けると、そこはもぬけの空であった。
「……ありゃ?」
思わず、呆けた声が出る。
本来、この部屋に居なければならない人間が、居なかっただけのことであるが。
立ち尽くす城島を不思議に思った女官が、後ろから部屋を覗き込む。
「博士様、如何なさいました? 伴成様はそちらにいらっしゃいますが」
城島は、女官を一瞥する。
部屋に2歩、3歩足を踏み入れて、中央に置かれた卓の前で立ち止まった。
おもむろに、空を掴み取る。
背後の女官が、息を飲む気配があった。
城島の指は、中空で漂う白い紙切れを掴んでいた。
「……あっ!? まさか、式……」
「そのようで」
摘み取った紙切れは手の中でくしゃくしゃになってしまっている。
城島は、紙の端と端を引っ張って、キレイにシワをのばしてみた。
子供の作った切り絵のような、人形の姿になった。
ご丁寧に、丸い二つの眼とにっこり笑った口まで切り抜かれている。
「なんちゅーか……芸が細かいなぁ……」
普通の式を作るのに、スマイルマーク入り人型なんぞ使わないだろうに。 唱門師の力は、存外に弱い。
陰陽師と比べれば、それはもう一目瞭然。月とスッポン、太陽とノミ。弱い。
単体では事件を解決できないくらいに、弱いのである。
なので、彼らが仕事を請け負うときは、たいていは息の合う複数人でグループを組んで行動する。
松岡は、二月前にこの世界に足を踏み入れたばかり。認めたくは無いが、ヒヨっこである。
一緒に組んだ唱門師も、まだ片手の指で数えられるほどしかいない。
相棒に困り、松岡は一陵殿にやって来た。長瀬を誘おうと思ったのだ。
西志津の4分の1ほどを占める敷地面積をとことん無駄使いした、一陵殿。賀茂家の屋敷である。
って言っても、何処か放っつき歩いてる確率の方が、高いんだよなぁ。
松岡は嘆息する。
長瀬は自由人なのである。
賀茂家の嫡子ではないし、それも末子、ある程度の自由は許されているとは言え、将来的には家督さえ狙える位置にいる男なのに、何とも風来坊だ。
屋敷にじっとしていることはほとんどなく、暇さえあれば街へと出ている。
本来なら、位の高い貴族には考えられない行動力ではあるが、その辺の経緯は、彼の生来の性格なのか、もしくはより複雑な家庭環境の背景なのか、松岡には判別は難しい。
どちらにせよ、事実は唯一。長瀬は屋敷が、一陵殿が嫌いなのだろう。分からなくはない。
松岡は裏の勝手口から、勝手に一陵殿に入る。 城島が、不意に歩みを止める。
西志津の屋敷は昼前だと言うのに、夜雲が立ち込めている。
「如何なさいましたか、博士様」
城島の後ろに続く女官が、そう尋ねて来る。
「いえ、御気になさらず。少し空模様が気になっただけです」
「そう言えば……今宵は件の星が出ると、先ほど屋敷を訪れた聖が残して行きましたが」
「……聖? 来たのですか?」
「はい。ああ……いえ、おそらく騙りでございましょうが……何分、物騒な時期でございましたし」
女官の歯切れの悪い返答に、城島は何度か頷いて見せた。
前者にしろ後者にしろ、そうだろう、と城島も思う。
“聖”とは、“日知り”、すなわち明日を知る者の意である。
力は、簡単なところで天気予報士なのだが、その程度のことであれば、そこら辺にいる猫やら蛙にでも出来るというもの。
本来の聖は、厄を退け良を諭す、強固な未来視の力を持つ。つまりは、預言者。
七道の中でも、支陰陽に匹敵するか、ともすれば超えるとまで言われる上位の唱門師。
その聖が、『今宵、件の星が出る』と言い残した。
本当ならば、不確かな情報とは言え、仲間にも伝えなければならないだろうが……。
城島は、うつらうつらと考えながら、屋敷の廊下を歩き出す。
もっとも城島の知る限り、彼が本物だと認めた聖は、後にも先にも、たったの1人きりしかいない。 かの平安の都は、陰陽道に通ずる100年に1人の天才が出たとかの話題で持ちきりだ。
「確か、ええと……安部清明、だったかな? 賀茂から出たんだよね」
「支陰陽の鬼才、妖の寵児……ね。天才ちゅーのは、出るとこには出るもんやねぇ」
「しかも人の良いことに、頼まれさえすれば、下賤階級の民たちも救って下さるそーだ」
城島の背後に約1万アンペアの電撃が走った。
「山口ィ!! それを早く言わんかいッ」
「今、言ってたんでしょ。だからそれを」
「あかん……あかんで、安部清明! このままやったら、ワシらの仕事が無くなるッ……!」
都で無職イコール餓死、直向で当たらずとも割と遠からずの天則である。
「てか元々、あなた薬学博士なんだしさぁ……真面目に働けば食銭くらい稼げるでしょうよ」
「貴族のボンボン共に学なんて教えても役に立った試しないわ」
「いや、あんたの役には立たないでしょうけどね。案外、アナタの生徒さんの中から、良い士官が出てくるかもしれないよ?」
「アホ。その頃には引退しとる」
苛々しながら啜った茶と一緒に、菓子を早々に片付けてしまった。
「師匠と約束したしな。僕は、平屋暮らしの下位陰陽師の方が性に合っとる」
「……賀茂からお誘い来たって聞いたけど?」
城島は平静を装いながら、山口の横顔を見やった。
何食わぬ顔で、笹の葉を食んでいる山口がいる。
昨日の今日だ。
確かに城島は、昨日、賀茂家の末子の家庭教師という名目で、屋敷に呼ばれた。
賀茂と唱門系との仲は、取り立てて良くはない、むしろ若干悪い。
支陰陽の大本山である賀茂家と、その理を裂いた離陰陽の一派なのだから、当然と言えば当然だ。
しかし、ぴりぴりと完全敵対しているわけでもない。生温く仄冷たい、微妙な間柄である。
「……お早い耳なことで」
「太一に聞いた」
「あいつどっからネタ仕入れんのやろ……やっぱ床……」
「そっから先は、自分の寿命と一時の気の迷い、秤にかけてよぉく考えてから口にした方が良いと思うよ、茂くん」
城島は、即刻黙った。
老い先残り半分くらいとは言え、やっぱり天寿は全うしたいらしい。
「賀茂と吸収合併とか?」
「まさか……ちゃうわ。ちゅーか、最初は本当に家庭教師やったん。依頼があったんや」
「依頼? 賀茂からか?」
「鬼とは違う方面でな。僕より、お前か太一にやってもらった方がええと思う」 「もーだめ。バレた。絶対しょっぴかれるー……店長、骨は拾ってね」
「いつの時代の話だよ」
カウンター向かいで、さして興味無さそうにテーブルを拭くのは、店長こと太一。
一仕事終えるたびに、この喫茶店兼居酒屋にやってくる彼、
松岡だったが、今回も毎度のごとく溜め息ばかりだった。
「だいたい、お前いっつも何か一つは失敗してるだろ。危機感が沸かないの」
「ひでーな、もぉ」
「お前……向いてないんだよ、“泥棒”には」
松岡が顔を上げると、珍しく曖昧な雰囲気の太一と目が合った。
心配半分、諦め半分、その裏を返せば強い反発。
「なぁ、本当に続ける気か? リーダーの残してった宝飾類とか残ってるだろ? 換金すれば、施設の10年分の生活費くらいには……」
「ごめん……でも、これはオレの問題。オレが、決着つけたいだけだから」
「松岡」
「あいつの世話には……なりたくないんだ」
呟いた言葉とは裏腹に、松岡は少し笑っていた。 刹那、銃砲が炸裂した。
木板の壁を伝わり、細動させる衝撃に長瀬は後ずさりする。
銃弾の前には、紙1枚に等しい薄さの板だ。至近距離ならば、簡単に貫通されてしまう。
ぱらぱらと散って落ちる木屑、細かな金属屑。
破壊されたのは天井近くの小窓だった。
――怯むな!
強い隙間風に、ガラスの破片が舞う。
長瀬は、一瞬でも身構えてしまった自身の本能を悔やむ。
彼が、自分を撃つはずが無いのに。
「待って……!」
風通しの良くなった小窓に向けて、あらん限りの声を張り上げる。
「待って!!」
追いすがっても無駄だと、薄々感じてはいた。 「やっぱ俺はいいや」
「……太一!?」
山口が椅子を跳ね除けた。
直後に、「しまった」という表情を一瞬だけでも覗かせたのを、太一が見逃すはずがない。
多少でも切迫した雰囲気を隠そうと演技し続ける、山口の先手を遮って続ける。
「大切な何かを失うようなら、俺はこのままでいい」
「……知ってたのか」
重く静かに震える声、もはや、それが全てを物語っていた。
太一は首を横に振る。
「知らないけど、なんとなく」
「…………」
その沈黙は、どちらの意味合いが強いのだろうか。
山口は机に手を落ち着かせたまま、椅子にどかりと落ちた。
立っているのさえ辛い病人のように、長く息を吐く。
机の下、足の先に目線を泳がせながら、次の言葉を選んでいる。
「等価交換、だからね」
誰に言ったのでもない太一の呟きが、しっかりと耳に入る。
「けど俺は……何かを失っても、お前の眼が戻る方がいい」
「山口くん、それは罪滅ぼしなの?……それとも、免罪符のつもり?」
抑揚の無い太一の問いに、薄く笑う。
「さぁな」
山口は外套を翻し、何も言わずにリビングを出た。
わずかに動いた部屋の空気に、戸棚の上の猫が小首を傾げる。 虫の死骸ですら、手足と羽根を備えているのに、これは……
彼は、屋根の上で生き絶えていた。
最後の力を振り絞って羽ばたいた欠片は、兵士どもには手が届かないところにあった。
命より重いものなんて無い、なんて嘘だ。
現実にこうして、命を亡くす人がいる。
重いのは、“その命を繋ぐために必要なもの”のほうなのだ、決まっている。
「許さねぇ」
そうして憎むだけ憎んだら、走り出す。
足を止めることが敗北であると、松岡は誰よりも気付いている。
――取り返す、失った全てを。
「必ず」 「マボ警部ー」
場の緊張感を10tハンマーで粉々に打ち砕いて、階下から脇目もふらず駆け上がってくる足音ひとつ。
「マボ警部っ、捜査員の配置、終わりました」
した、とさながら模範生のように敬礼だけは美しいので、実はこれでいて上の輩からは評価が高い。
松岡はバラバラになった緊張感の破片を繋ぎ合わせるのに、毎回苦労しているのである。
「……なぁ、長瀬巡査。その“マボ警部”っての、止めてほしいんだけど」
「えー? ジーパン刑事みたいでカッコ良くないッスか?」
「お前、何才だよ。ってか、どの辺からカッコイイんだよ」
「……戻ってない?」
「檀家に寄ってから帰る、って。てっきりお前ん家かと思ったんだけど」
電話向こうの相手は、今の状況を知る由も無く流暢に言葉を紡ぐ。
城島がこの家を離れて3時間。歩いて片道15分の寺まで、用も無いのに戻っていない。
こんなときに、いやこんなときだからこそ、と言うべきだったのかもしれない。
「ありがと、わかった」
「あ? ちょ……松岡? どういう……」
松岡は素早く受話器を置いた。
リビングに投げっ放しの上着と、携帯電話とを引っ手繰る。
今しがたの電話相手が、実は隠れ心配性なことなど、すっかり頭を抜けていた。
さては向日葵の野で立ち止まりやがったな、と、脳味噌の大部分を占めるのは焦りと苛立ちで、
「……あの馬鹿坊主」
漠然とした不安だけが、松岡の脚をもつらせた。
「ごめん……なさい」
板向こうの声が、突如崩れた。
太一は、予想外の事態に焦る。
「ごめんなさい。ごめん、太一くん」
何故、“ここ”に俺が居ることを知っている?
見えない相手が、自分の名を呼んだ声に少なからず動揺する。
いや、考えてもみれば造作ない。告解室に入った姿を見られのだ。
入室の際は十分に周りを注意しろと、上司に言われていた。
規則は、仕事に必要な分だけはきちんと守る性分だ。注意を怠った覚えは無いのに。
太一は舌打ちする。
「オレは、守りたかったんだ。みんな守れると思ってた……思ってたのに」
一瞬、上擦った声が小窓の方へと近づいた気がした。
椅子から人が立ち上がる気配。
思わず、太一も立ち上がる。
狭い告解室を、1歩後ろへと退がる。
「ごめんね、太一くん。やっぱ、守れなかったんだ」
そして、今、ようやく太一は気付く。
我にもなく心が振れるのは、自分の名を呼ばれたことに対する動揺ではなかった。
わずかに鼻に掛かる伸びやかな声。
春が似合う声質のくせして、人一倍春が苦手な声。
「長瀬、か」
「…………」
沈黙は、肯定だ。
何度、この声の主と会話したか数え切れない。
覚えのある耳に馴染む感触、気のせいなんかでは無い。もう間違えるはずがなかった。
今、この瞬間に、板仕切りの向こうにいる男、長瀬智也。
仕事、社会、憂鬱を持ち込まない、三大スローガンを掲げたとあるバーの、常連同士として知り合った。
生活時間帯が一緒なのか、どちらかが暇なのか、よく鉢合わせては馬が合った。
いつの間にやら、用がなくても世間話出来る間柄となっていた。
「お前、自分でフリーターだ、って言ってなかったか?」
「……フリーターだもん。嘘言ってないよ。“コレ”は、もう1つの仕事、だもん」
「こんのエセフリーター……」
「太一くんこそ。売れない中古問屋なんて……ちょー嘘っぱちじゃん」
親しい友人だと、太一は思っていた。
勿論、今も友人だと思っているし、多分、長瀬もそう思っていてくれている。
なのに、だ。
そう言えば、お互いの『もう1つの仕事』を詳しくは知らなかった。
太一は、すぐに気付けなかった自身の疎さを恥じる。
「で、ここで何してるんだ」
「……しごと、だってば」
「ああ……そうか、そうだよな。俺らを裁くのがお仕事だもんなぁ?」
「違う。それはオレの仕事じゃない」
がたりと、床が悲鳴を上げる。
「何でオレが、こっち側なの!?」
牧師は、この街では永世中立にして連絡手段。そして、仲介屋。
「無理だよ長瀬。お前と、俺の道は違いすぎる」
「オレ、黙ってるなんて出来ないよ。マボの“もう1つの仕事”、知ってるでしょ? 今、聞いた話も、太一くんのことも、“太一くんがここに来たこと”も、全部話すよ?」
「そう言うと思った」
太一は哀しげに鼻で笑って聞かせた。
はったりだ。口で言うだけだ。それを分かってしまえるから、尚も長瀬との道は遠いのだ。
彼は、絶対に自分からは、このことを彼らに話さないだろう。
長瀬は、牧師となるには優しすぎた。
「……だから、何回も言っただろ? お前は、牧師にゃ向いてないって」
上着の袖口から、すとんと短銃を手に落とす。
護身用にと隠し持っていたものだが、まさか使う羽目になるとは思わなかった。
「これで最後だ」