JUNK3

 透明な光が、廊下の窓から射し込んでいる。
 長瀬は、音楽室の防音戸の前で、ただ、立っていただけだった。

「で、何やってんの。そこで」
「はい?」

 がこんと、にべも無く開け放たれた扉という名の背もたれが消える。
 長瀬は後頭部から、真逆さまに部屋の中へとお邪魔した。
 あまりにも唐突な出来事に、痛む頭を押さえられない。

「盗み聞きかよ」
「は……」

 言い訳しようとして、長瀬は急いで起き上がる。
 このとき、音楽室にいた男の顔をようやく間近で観察することができた。

 見た目は若そうだが、実際の年齢は老けていそうだ、というのが長瀬の第一印象だった。
 精神年齢のボーダーラインがよく分からない。
 しかもちょっと恐い。
 てっきり睨んでいるものだと思った大きな眼が、次の瞬間ににっこりと笑った。
 不思議なことに、長瀬に湧き上がった警戒心は、あっさりと散ってしまった。

「ちょっと、観客やっていかねぇ?」

 色々と矛盾している二言三言に心の障壁一つも設けられず、長瀬は、その場でこくこくと、二つ返事で頷いた。
 城島が何かの気配を感じて、すいと顔を上げる。
 空から五線譜が落ちてきたのだ。
 ひらり、
 ひらりと、
 1枚、
 2枚、
 また1枚が風に遊ばれながら地面に近づいて来る。
 夢か現かの、光景であった。

 城島は呆然としながらも、慌てて楽譜を拾い集めた。
 楽譜は、全部で合計4枚になった。
 音楽に携わる者の性か、とりあえず順番通りに並べようと譜面を確認して、刹那、そのタイトルに眼が吸い寄せられる。

「“さくら”?」

 驚いた。
 驚きついでに、自分の手元の楽譜と、2枚並べて見比べてみる。
 城島の持っていた楽譜、そのタイトルもまた、『さくら』と言った。

 最初の1枚を重ね合わせる。当然なのだが、全く違う。
 自分のものとは別の曲だ。ただ、タイトルが同じ『さくら』ということだけだった。
 歌詞によく使われる語句ではあるが、
 城島はその偶然に何か運命的なものを感じざるを得なかった。

「誰の曲や……?」

 つぶやきながら、城島は上空に眼をやった。
 3階の窓が開け放たれている。
「オレ、その曲好き」

 鍵盤を滑らせる指が一瞬だけ止まり、長瀬を躊躇させた。

「なんてタイトルですか?」
「んー……さくら」
「今考えた……ぜったい今考えたでしょ、それ」
「ああ、バレた?」

 楽しげな誤魔化し笑いに乗せるように、旋律は再び流れに乗る。
 彼のピアノは分かりやすい。
 悲しいときは悲しい音、楽しいときは楽しい音を奏でてくれる。
 単純なのだが、それを平然とやってのける人を、長瀬は彼以外に知らない。

「太一くん、何か良いことでもあったんスか?」

 音楽室の古びたレコード台に椅子代わりに腰掛けて、
 長瀬はくるくると、その場を回る。

「え? いやべつにぃ」
「すげぇ嘘くさい」
 そんな馬鹿な。

 城島はただ呆然と曲を聞き流していた。
 正確には違った。城島も弦を爪弾き始めている。
 しかし、譜面の先を弾こうとする度に数奇の杭に引っかかり、指が止まってしまう。この動揺。

 一体、何の偶然なのだろうか。

 3階の窓から届くピアノの旋律は、時折危なげに迷いながら、ただひとつの曲の終わりに向けて、確かに音を滑らせている。
 驚くべきことにピアノの旋律は、城島がこれから弾こうとする曲のそれと、ぴたりと一致していた。
 正しくは、全く同じ旋律というわけではない。
 ふたつの譜面は違っていた。
 否、違っていて、当然だったのだ。
 城島が弾くギターの音色に、調和するように重なるピアノの音。
 2人は、同じ楽譜から作られたセッションの、個々人に割り当てられたパートをなぞっている。
 これでは、合奏曲である。

 偶然?

 城島の足元には、自分が持ち込んだ五線譜がある。

 これを偶然と呼ぶのか?

 曲はBメロから、サビの部分へと差し掛かる。
「シゲ、バンドやらない?」

 先刻からのそわそわと落ち着かない態度は、それが原因か。
 城島は苦笑する。
 たいした話題でもないような口調ではあるが、嬉しさに高まる声のトーンは隠し切れていない。

「後輩にね。ドラムがいんの。まだ始めたばっかで下手くそだけど、音楽好きの良いヤツなんだ」

 アレは絶対伸びるよ、と見る眼確かな彼が言うのだから、間違いはないだろう。
 出世払いとばかりに、自分から売り込んできた細長い男への、第一の感想だと言う。
 彼はおおいに気に入ったらしい。

「でさ。良い鍵盤、知らね?」
 松岡には、しばらく前から気になっていることがある。
 いつものように居酒屋のアルバイトを終えて、いつものように自宅へと帰る道すがら。
 小学校を右手に歩く。
 時刻は深夜、午前3時15分。いつものコース、いつもの時間。いつもの毎週金曜日。

 あ、やっぱり聴こえてくる。 

 それは、唄だ。
 深夜の小学校から、響く唄。真っ暗な舗道にふわりふわりと落ちてくる唄。
 尋常ではない。
 が、実はそんなに尋常ではない、わけでもない。

「……熱心なことで」

 松岡は、自宅へと急ぐ歩を、毎週金曜日の小学校前でだけ緩めてしまう。
 決まって、小学校の3階の一室には明かりが点っていた。
 唄が聴こえてくる。
 小学生の合唱の練習には、さすがに時間が遅い。
 もっとも、合唱曲を唄っているようには聴こえない。
 男の声だ。

 幽霊といえば、女の歌声と相場は決まっていると言うのに。
 (あるいは、全世界の男性歌手幽霊に喧嘩を売ってしまったかもしれない。)

 ふわりふわり、という形容も若干おかしい。
 消え入りそうな声、淡い声、なんてものではなかった。
 もうそれはそれは、筋金入りの太い声。
 どこかのライブハウスで馴らしているのではないか、とまで思わせるほどの、シャウトだ。
 何度か同じところを繰り返し唄い、時折途絶えたかと思うと代わりに笑い声が聞こえてくる。
 どこぞのミュージシャン志望か誰かが、練習に音楽室を借りているのだろうか。

 悔しいことに、巧いんだよな。

 松岡はゆっくりと、音楽室の真下にあたる舗道を行過ぎる。
 煌々と点り続ける音楽室の明かり。
 唄はまだ、松岡の背中に響いている。
 不意に、和音は途切れた。
 突然のことだった。
 どちらかがミスをして中断させたのではない。旋律は続いている。
 意図的に、まるで謀られたかのように、曲は違う箇所を奏で始めたのだ。

 城島は我に返った。
 一つの偶然が、心の内で必然へと変わった、まさにその瞬間だった。
 城島は何かに気付き、そして相手に何かを気付かれた。

 偶然だったと思い過ごさせたくはない。
 唐突に、曲を変えるな、という衝動に駆られる。
 慌ててギターを投げ出す。

 ――音楽室!

 城島は裏手の玄関口から建物内部へと駆け上がった。
 土足で踏みしめるリノリウムの廊下、踊り場に転がる砂粒に足を取られそうになる。
 懸命に走っていたら、いつの間にか、ピアノの音は聞こえなくなっていた。
 演奏を続けていてくれと祈りながら、階段を2段跳ばして上がっていく。

 そういえば、桜の季節だった。
 まだ、僕らは奏でられるはずだった。
 曲を持ってきた、
 と長瀬が意気揚々と楽譜を持ち込んできたときは、我が目我が耳を疑ったものだ。
 基本的に、唄うことが好きな長瀬は、歌を選ばない。
 つまり唄うことさえ出来れば良いので、どんな曲でも受け入れる。

 今までは、曲は全てこちらから与えてやっていた。
 太一は偏った選曲をしなかった。色々なジャンル、様々なキーから、多種の曲を満遍なく教えた。
 無論、好き嫌い、得意不得意は出てくるだろう。それは間違いなく成長の証であると言える。
 たとえ苦手だと言われても避けて通らせない選択の道だ。

「太一くん、これ弾けますか?」

 恐る恐る、といった風に楽譜を差し出してきた長瀬に、仕方なく強気な笑みを返す。
 先端に皿の取り付けられた長い物干しで、遠くから餌をやる飼育員のようだ。

「俺は猛獣か何かか」

 楽譜は全部で4枚あった。
 何回か書き直されているのだろうが、綺麗で細い音符が並んでいる。

「えっと、あの。それ、オレが作ったわけじゃないんスよ」
「え? ああ、そうなのか。つーか、そりゃそうだよなぁ……」

 そういえば長瀬は、楽譜が全く読めなかったのだ。
 今のところは読めなくて困る事態にはなっていないようなので、放っておいたのだが。
 と、言うことは曲を作ったのは、女か、と太一は勝手に解釈した。

「誰が作った曲なんだ?」

 長瀬にそう聞きながら、楽譜に目を落とした瞬間、太一の表情が固まった。

「……これ……」
「何かね、まだタイトル付けてないんですって、それ。主旋律?……とか、それだけ、らしくて」
「…………」
「バンドしてるんですよー、その人。すげぇカッケー」
「……これ、誰から貰った?」

 このときの太一の表情は、既に長瀬には見せられないものになっていたに違いない。

「バイト先の先輩」
「じょーしまーさーん」

 と、春惚けのように間延びした声が、従業員ロッカールームを今まさに後にしようかという、城島の背中にかろうじて届いた。
 松岡であった。おそらく、奥の仮眠室にいるのだろう。
 しまった、と城島は肩をすくめる。見つかる前に帰ろうと思っていたのに、タイミングの悪い。

「……待ち伏せかあ? 気持ちわるいなぁ」
「や、男待ち伏せする趣味はねぇけどさ」

 そこで、一呼吸ほどの気まずい沈黙が置かれる。
 松岡は、仮眠室から出てこようとせず、その位置で会話を続けることにしたらしい。
 次に来るであるだろう台詞は分かっていた。

「アンタさ、何でギター辞めたの?」

 城島は、その問いに答えられない。

「昔、バンドやってたんでしょ。何で辞めちゃったの?」

 その問いには、尚更答えられない。
 城島は黙りこくっている。
 松岡も答えを期待していないのか、口を開く暇も与えず、矢継ぎ早に話を進める。

「ってゆかさ。何で、オレらに、曲作ってくれるの? 嬉しいけどさぁ……意図が見えない」

 その問いに答えは、無い。

 城島自身にも、ひとつの正答を用意できないからだ。
 複雑な理由が深いところで絡み合って、結果、表面で幾重にも枝分かれしている。
 やはり、沈黙することしか出来なかった。

「この間の返事は?」

 ふいに、話題の次元が変わった。
 城島は、奥の仮眠室の方を仰ぎ見る。松岡は出てこない。

「考えとる最中、言うといてくれるか」
「……うん」

 返事があったことに、たぶん驚いたのだろう。
 松岡の応答は少し遅れて届いた。
 結局、今日中の会話では仮眠室から出てこないつもりらしかった。

 取っ付き難い人物だ、と思われているに違いない。

 城島は自嘲気味な笑みを浮かべる。
 そのままロッカールームを出ようとしたところで、松岡に最後に掛けられた言葉は、

「アンタは……何を待ってるの?」

 だが、城島を動揺させ得るに充分な反撃の狼煙だったのだ。
「お前、もう来るなよ」

 と、前触れなしに告げられた。
 3週間前だ。
 開いた口が塞がらないとは、まさに、こういう状況のことなのだろう。

 無論、来るなと言われて簡単にハイソウデスカと返せる長瀬ではない。
 実際、この数日の間、何度か太一の元を訪ねているのだ。
 正確ではないかもしれない。
 あの音楽室に、いつもの決まった時間に、足を運んでいたのだ。

 だが、太一は、そのいつもの決まった時間に、来なくなった。

 お前もう来るなよ、
 の背後には、答語が付いて来ていた。
 俺ももう来ない、と。
 あれは、そういう意味だった。

 なんでだろう。
 なんでだろう。

 長瀬は、ずっと考えている。

 連絡を取りたくても、手段がなかった。
 太一の住んでいる場所も知らないし、携帯電話の番号も知らない。
 仕事先も知らないし、そもそも何の仕事をしているかも知らない。
 今更になって考えてみると、何も知らない。
 聞く必要がなかった、と言えば聴こえは良いだろうか。

 二人の間を繋ぎ隔てていたものは、曲であり歌であった。
 それ以上のものは要らなかったのだ。

「そうだ……楽譜」

 唐突にぼんやりと、忘れ物を思い出した。
 先輩から預かっていた楽譜、太一に渡したままだった。

 なんでだろう。

 楽譜を渡した瞬間、太一の様子がおかしかったことに、長瀬は気がついていた。
 もしかすると、あの楽譜が何らかの原因なのかもしれない、と、そう思い始めていた。
 それなのに、何故だろう。
 原因を追求するよりも糾弾するよりも先に、真っ先に心を占めたのは、太一が今、何処かで、あの楽譜の曲を弾いてくれていれば良い、という想いだった。
 ロッカールームにふらりと現れた松岡は、飲料か食料かを差し入れに来たわけではなかった。
 確かに本来の目的は違えど、だが松岡のことだ。
 話を円滑に進めるために、何か手土産でも一つ持参してきそうなものを。
 松岡は手ぶらで現れた。たぶん、差し入れに気が回らなくなるほど、急いでいた。
 そのくせ、妙に余裕のある表情で、戸口に立ち尽くしていた。

「バンド、入ってくれるってさ」

 開口一番に告げた言葉には、決定的に主語が欠けていた。

「……誰が?」

 聞き返してから、山口は、その答えが一つしかないことに気がついた。

「だから、城島さん」
「そう。ああ、そう……ってか、え? マジで、か?」
「うん」
「本当にか!?」
「だから。そう言ってんじゃん」

 松岡の返答は、どれをとっても、やけに冷めていた。
 その理由を、山口はすぐ知ることになるのだが、

「だってギター弾かねーんだぜ、あの人。もう弾けないって。それでアナタが許すなら、入っても良いってさ」

 山口の心は既に決まっている。許すのだ。城島に、バンドに加わって欲しい。
 先が分かり切っている不器用な展開に、松岡は少々辟易しているのだろう。

 あんな楽譜ひとつで、何かが終わって始まるなんて、ムシの良すぎる話かもしれない。
 けれど、1歩でも未来へ進めるなら、今は、かつて奏でた和音が道標になってくれるよう、ただ願うしかなかった。
 階段を二段三段ずつ飛ばしながら、一気に駆け上がる。
 ここ数年で、最も体力を消費した2分間の短距離走だ。

 校舎の3階、長い廊下を走り抜けた先。
 一番奥に、音楽室はあった。
 ピアノの音色は、既に聞こえなくなっていた。

 城島は息を切らしながら、音楽室の扉に、倒れこむように手を掛けた。
 今更、土足で入ってきてしまったことに気づく。後の祭りだ。
 音楽室の少し重い観音開き戸を、気力を振り絞って開ける。
 あるいは、この時、ほんのわずかでも躊躇したのがいけなかったのだろうか。

 城島がゆっくりと扉を押し開けても、部屋の中に人の気配はなかった。

 広い講堂だった。
 隅に、グランドピアノが置かれている。音楽室用のホールであるから、さして不自然なことでもない。
 ピアノの蓋は閉じられている。近くに、楽譜などは見当たらない。
 違和感は見て取れなかった。
 城島は、いつ来るでもないその刻が訪れるのを、じっと待っていた。

 風が凪ぐ。
 部屋の窓が一箇所だけ開け放ったままになっていることに今更気づく。

 人の気配が、ある。
 1階の居酒屋の勤務を終えると、時刻は午前1時過ぎ。
 山口は手早く着替えを済ませ、その足で地下1階のホールへと下りる。
 誰のためだか、平日なのに深夜3時まで開いているバーは、当然ながら人気も疎らで、現在は一見客が2組だけ。
 城島一人でも、十分応対が間に合う。

 向かって中央にある、こじんまりとしたステージと、その横の明かりの届かないグランドピアノ。
 いつも何かしらの音楽バンドが演奏を披露しているのだが、今日は使われていないようだ。
 今月のステージ予約表を確認する。

「……あれ? シゲさん、今日水曜日って……吉井さんとこのジャズバンドじゃなかったっけ?」
「ああ、それ。さっきキャンセルあってん。何でもギターのモンちゃんがぎっくり腰とかで」
「そりゃ大変」

 と、口で言いつつも苦笑いしてしまったことを、山口は申し訳なく思う。
 幅広い年代の、幅広い趣向のバンドが夜な夜な集まるステージには、危急が付き物なのである。

「空いてるし。使てもいいけど?」
「いや、いいわ。人、待ってるから。その間、隅っこ使わせて」

 城島が眉で頷いたのを見て、山口は既に用意してあったギターケースを持って来た。
 カウンター壁に面した端席で、静かに爪弾く。
 店内のBGMを邪魔しないように楽譜をなぞるのは、なかなかに根気がいる。

 山口は度々城島の表情を盗み見る。
 相変わらず澄ました顔立ちで、興味なさそうにグラスやら皿やらを磨いているだけだ。
 真意を見とめられない。山口は嘆息する。
 音楽などより余程、城島に再びギターを持たせることの方が、ずっと難度が高いではないか。

「……頑固親父かよ」
「蕎麦でも出すか?」

 山口の皮肉めいた文句をさらりと流し、仕返しとばかりに、
 城島は、食事メニューを楽譜の上に重ねて出した。

「こんな小っこい飲み屋で待ち合わせか」

 城島の世間話は、ある意味、謙遜でなく大方本当のことだったので、山口は意図して楽譜から目を離す。

「あっちが指定して来たんだよ。ま、この時間まで営業して、楽に使える店なんて確かに少ないしなぁ」
「あちらさんの指定? そらまた……ありがたいちゅーか、珍しいちゅーか……いや、まぁ、楽に使えるんは良いとしても……こんな時間、が待ち合わせなん?」
「ああ……そっち?」

 その辺りの“相手”の事情を、山口は確かに聞きそびれている。
 だが、たいした理由ではないだろうと、勝手に解釈していた。
 現に、居酒屋勤務の山口だって、丁度今時分が自由時間だ。
「楽譜を見たよ」

 城島は、突然にその背中にかけられた声に、振り向くことすら出来なかった。
 年甲斐もなく全力疾走したせいか、上がった息が整うまでに、しばらく時間がかかる。

「まだ持ってたんだね」

 静かに、グランドピアノの蓋が閉められる音がする。

「とっくに捨てたのかと思ってた」

 捨てても良かったのに、という反語がついて来ていた。

 言葉が浮上しない。城島は途方にくれてしまった。
 いまだに声が出せないのは、息が枯れているという理由だけではないのだろうか。
 窓の開け放たれた広い講堂は、まるでそこだけが分厚い防弾ガラスに囲まれているように、世界の空気から孤立している。

「リーダー」

 もう、その呼び名を聞くことは無いと思っていた。
 懐かしさと申し訳なさが交互にやって来ては、それに反応することが出来ないまま、返事もせずにただ立ち尽くすしかなかった。

「いいかげん、ギター触ったら?」

 開いていた窓の一枠から、桜の花びらが舞い込んで、城島の目線を風の先へと促す。

「もう忘れていいよ」

 俺も忘れるから、と聞こえたような気がした。
 城島は、振り向かなければならなかった。
 振り向くと消える幻影だと、分かっていた。

 長瀬の唄がアカペラになってから、どれくらいの日が経っただろうか。
 太一が現れなくなり、伴奏者もいなくなった。
 このグランドピアノに会いに来る必要は、もはや無いはずなのだが、やはり、なのか、それでも、なのか、長瀬は定期的に音楽室に訪れていた。

 戻ってきてくれる、と、信じているのだろうか。

 不思議なことに、自分自身に疑問符を投げかけなければ気付けないほどに、薄い願望だ。
 彼がいないことが、随分と大昔から、当たり前のように思えてならない。

 漠然と、自らの唄声の質が落ちたように感じていた。
 繰り返し繰り返し唄っている曲目は、音程もリズムも、完璧に覚えている。
 より上達はしても、下手になることは無いはずだ。
 何かの歯車が、ひとつ抜け外れてしまった。

 ふと、窓ガラスが小さな音を立てた。
 乾いた音だ。小さな虫でもぶつかったのだろうか。
 長瀬は唄を止める。

 すると、続けてこつんと、窓ガラスが振れた。
 虫ではなかった。
 意図的に、誰かが小石か何かを窓ガラスに向かって投げつけているのだ。
 長瀬は窓を開けて、階下を見下ろしてみる。

「ああ! 気付いた?」

 そこには一人の男がいて、盛んに両手を振っていた。
 どうやら、小石をぶつけて長瀬を呼び出そうとしていたのは、この男らしい。
 初めて見る顔のはずだが、何処かで会っただろうか。
 長瀬の不信感を他所に、男は、満面の笑みで3階に声を飛ばしてくる。

「唄ってたの、あんただよね? ちょーっとお話があんだけど」
「え? オレに?」
「うん、そう」

 そっち行っていい、と、男はそこだけ妙に恐縮して尋ねた。
 確かに、大声で会話するのは骨が折れる。

「横の非常階段から上がれますよ」

 長瀬は音楽室の非常口から通じる、外階段を指差して答えた。
 似ている、と直感で思った。
 城島の、彼に対する第一印象だった。

 おそらく、山口とも数回しか顔を合わせていないはずだが、どうやらお互い気が合ったようで、会話は弾んでいた。
 城島は、カウンター向かいから距離を取りつつ、それとなく二人の会話を聞き流す。

 前々から店のことを知っていたらしく、何度か訪れたこともあるらしい。
 小さな店だ。何度か来店してくれる客の顔は多少なりとも覚えているはずだが、彼のことは記憶に無かった。
 いや、ぼんやりと薄淡い記憶の中には、在ったのかもしれない。
 どうして、思い出せないのだろうか。こんなに“似ている”という印象が強いのに、忘れる訳は無いと思うのだが。
 あるいは、店に来たことがある、と言うのは単に彼のお世辞であって、やはり初対面なのだろうか。

「ちゅーか……そっちの方が自然か」

 城島は一人呟いた。
 閉店後の後片付け最中は、どうにも独り言が増えて仕方がない。
 後片付けをしていると、余計な考えまで思い巡らせてしまう癖だ。
 気持ちを切り替えて、カウンターテーブルを水拭きしようと表に回ると、壁際の椅子におひとりさまのギターケースが座っているのが、目に入った。
 山口が置いていったのだろう。
 これみよがしに置かれては、苦笑するしかない。

「……いいかげん、触ったらええかなぁ……」

誰に尋ねるでもなく、それでも、城島がギターケースを開けることは無かった。
「……松岡くん、その笑顔気味悪いわ」

 城島がハラリと切り捨てても、笑顔で受け流す松岡がいた。
 いつにない満面の笑みで1階のジャズ・バーへと降りてきた彼は、今すぐに鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気で、カウンターに座った。
 最近になって、ようやくこの空間での緊張がほぐれてきたばかりのようだったので、そのテンションは山口も不思議に思っていたのだ。

「ふふふ……いいよいいよ。今日ならアンタの嫌味も華麗にサバける自信が、オレにはある」

 珍しくビールを傾けながら、松岡が身体を前にひとつ押し出して、上機嫌に言った。

「ボーカル。スカウトしちゃった」

 山口と城島が、驚いて顔を見合わせる。

「……マジでか!?」
「上手い奴なんだよー、バンドとかやってないって聞いてさ。どうかなーと思って」
「お前が見つけてきたのか?」
「おうよ。小学校あるでしょ、大通り沿いのとこに。いつもそこで練習してたんだよ」
「大通り沿いの……小学校?」

 城島が、怪訝な顔を向けたのを、松岡は別の意味として受け取ってくれたようだ。

「あ、いやいや。小学生じゃねーから本当。立派な成人男子ね」
「……何か状況よく分かんねーんだけど。まさか、地域の合唱部とか……」
「違うよ。音楽室借りてんだってさ。唄、練習してるらしいんだ」

 いまひとつ腑に落ちない点もそこそこあったのだが、松岡の次の一言で、その辺の疑問はあっさりと吹き飛んでしまった。

「てゆか、連れて来たんだけど。今日、今」
 雨の夕方だった。
 城島は駅前の通りを、傘を差して歩いていた。
 開店準備までには、まだかなり時間があったのだが、何となく、本当に何となく、としか言いようの無い理由で、いつもよりも少し早めに店に向かっていた。

 徐々に雨足が強まって来ている。傘の縁から零れた雨で、肩が濡れ出してしまった。
 ようやく店の軒下に駆け込んで、ぱたぱたとジャケットを揺すると、
 階段下に明かりが点っていることに気がついた。

 誰か先に来ている。

 十中八九、山口だろう。
 本腰で練習したいからと、店の合鍵を借りて行ったのは記憶に新しい。
 バンドのメンバーも4人に増えて、形として出来上がってきたことを、山口は何より喜んでいた。
 もう既に何度か、ステージにも上がっている。
 まとまってきている、と城島も感じている。
 まるで子供の成長を見守る親のような心境だ。
 そのステップアップが城島には嬉しくもあり、どこか寂しくもある。

 ……“寂しい”?

 何故、そんなことを。
 自分には関係ない領域のはずなのに、この想いは何処から沸くのだろうか。

 城島は、濁ったものと一緒に傘の雨を払った。
 店のドアへと続く階段を下りる。
 案の定、ピアノの音が聞こえてきた。

「ピアノ……?」

 山口、ではない。
 城島は、ドアを静かに開けた。
 店に常駐しているグランドピアノ。入り口からは角度があって、演奏者の顔までは見えない。
 それなのに、

 やっぱり、似ている。

 と、城島は、初めて会った時から変わらない感想を抱かずにはいられなかった。
 見覚えのある扉の前に立ったとき、ようやく分かったことが、二つ三つある。
 自分が自分であり続けることができるほどには、音楽に執着していなかったという事実。
 しかし、アルコールのように、煙草のように、といった表現にはそぐわない、何かしら奇妙な束縛があったことも、また事実だった。
 もう一つは、後者に分類されるのだろうか。
 音楽をただ全力で楽しむ人間と、対等に接したあの感覚が忘れられない。
 久しぶりに充足感のあった日々。

 しばらく、太一はその扉を開けていない。
 長瀬が持ってきた楽譜を見てからだ。

 忘れてくれていなかった。

 夜の音楽室、防音戸の前で、太一は耳を澄ませる。
 いつか置いてきてしまった、思い出の音を追っている。
 見知らぬ誰かの書いた楽譜がなぞる、懐かしい音楽。

 いや、違う。
 見知らぬ誰か、ではないことは、既に薄々気付いていたのだ。
 彼を引き止めるものは、何も無かった。
 狂い咲く桜の花が、突風に煽られて儚く散っていく。
 彼がいればこそ存在できた世界だったのだ。
 同じ音は二度と探せない。

「けれど、オレは待つ」

 長瀬は、永遠にやって来ない人を待っている。
 放課後の音楽室、埃を払ったグランドピアノの前で、楽譜を広げて待っている。
 2時間だけ借りることが出来たスタジオだった。

 日々の数少ないストリートでの演奏、玩具のような稼ぎを、10万貯まると銘打った貯金箱にコツコツ貯めていき、万が一にでもいっぱいになったら自作の音楽CDを作ってやろう、と、冗談半分本気半分で、メンバーたちと約束した。
 約束したら、現実のものになってしまった。
 何とも非現実的な奇跡の話だ。

 約束の時間よりも、20分だけ早く中に入ることが出来た。
 直前にスタジオを使っていた一団が、早めに切り上げたようだ。
 ほんの小さなことなのかもしれないが、ツキが回ってきている、と城島は人知れず微笑む。
 今なら何をやっても、気分の良い方向へと受け取れそうだ。

「それ。ええな」

 城島が突然に声を掛けたことに驚く様子もなく、
 太一はのんびりと鍵盤の上に手を休める。

「あ、そう?」
「うん。うん……なんて曲やの?」
「さくら」
「タイトルだけ?」

 存外に素っ気なくうなずいた彼が、この先に続く台詞を期待してくれていると信じて、
 城島は珍しく眼を合わせてやる。

「歌詞書いてもええか、それ」

 ああ、きっと、自分は春に酔っているのだ。