駐車場完備。
外観は、200m離れて見れば、真っ白なギリシャ風の洋館。
室内1DK〜2LDK、下階はオフィス仕様。
最寄の駅から歩いて20分、自転車だと5分。途中、神戸顔負けの急斜面有り。
目の前は一方通行の車道。
半径500m以内唯一の大型量販店を、500m先に望める立地条件の下、
ここ――『小糸オフィスビル』では、今日も『空部屋有』の垂れ幕が、パタパタと元気に揺れていた。
小糸ビルを生活の拠点とする人間が、当然一人や二人くらいはいる。
コンビニの袋を右手に提げて、即興の歌を口ずさみながら歩いてくる彼――長瀬智也も、そんな一人だ。
20代であろう、長身に整った目鼻立ちの、なかなかの美男子である。見た目は、である。
学生では無いが、定職には就いていない。世間で言う自由職人、俗に言うフリーター。
しかし、彼は大声でこう撤回することだろう。
「職業、『探偵の助手』です!!」
……と。
その経緯はさておき、彼は今日もウキウキ気分で、小糸ビルへと帰還した。
小春日和は良好。気温はほんのり暖かいくらい。
アーチがかった玄関口には、日当たりの良い場所を確保した1匹の犬が寝そべっている。
「ただいま小糸ー。お前、元気?」
長瀬はしゃがみこんで、スムースヘアーな灰色の毛並みを撫でる。
犬は一度だけ目を開けたが、見飽きた人間だと捉えたのか、そのまま昼寝の姿勢に戻った。
断っておくと、長瀬は別に建物に向かって挨拶をしたわけではない。
この犬こそが、『小糸』なのである。小糸ビルに住み着く犬、だから小糸。
安直にして単純な名前であるが、一体いつから、誰がそう名づけたのかなど、肝心なところは、アパートの住人たちは皆一人として知らない。
しかも、小糸には(厳密には)飼い主が居ないのだ。
アパートの住人たちが与えるおこぼれで生活しているようなものだから、住人全員が飼い主、と言えば間違ってはいないし、聞こえも良いが、要約するなら野良犬一歩手前である。
見た目スマートでスレンダーでスタイリッシュな大型犬なのだが。
世が世なら、血統書が付いていてもおかしくなさそうな犬なのに。
長瀬は小糸をぺたぺたと叩く。
「世が世、って……どんな世の中なんだよ」
長瀬、心の言葉につっこまれた。
(本当は心の言葉を、知らず勝手に口に出してつぶやいていただけのようである。)
相方は、振り向かなくとも声で判る、長瀬にとって最も親しいご近所さんだ。
「ただいまー」
「おかえり。小糸に変なもん食わせんなよ」
「食わせてないッスよー、もう」
長瀬が口を尖らせる。ここでようやく振り向く。
「お前、もう小糸の飼い主になっちゃえば? 懐いてるみたいだし」
「無理、オレ余裕ない。だってそれだったら、太一くん、もうほとんど飼い主みたいなもんでしょ」
「俺は寝床を貸してやってるだけ。犬を飼う予定は無ぇよ」
「……けち」
ぽそりとつぶやいた長瀬の言葉を、彼が聞き逃すはずが無かった。
「長瀬……城島さんからお前に伝言があったんだけどたった今言うの止めようかなって気に」
「えええ!? ちょ……ごめんなさいごめんなさい! 何スか、伝言って。それを先に言ってよ!」
「あー、あれ? ふふ、本当に何だったかなぁ?」
明後日の方向を見やりながら、首を傾げるこの男の名は国分太一。
背格好は長瀬よりも随分と小造りだし、『太一』と下の名前で呼んでいるが、実際はかなり年上だということを、長瀬は彼と遊び仲間になってから1ヵ月後に知った。
無邪気を3000mほど上向きに通り越した計算高さを武器にする、とある店の経営者である。
見たままに騙されると痛い目に遭う典型のような人だ、
と、長瀬は彼の人となりを、そうインプットしている。
「あ……そう、そうだ。城島さんが探してたよ。仕事の話じゃねぇ?」
「え、本当!? 何かなぁ……」
「これから時間あるかって聞いてきたから、緊急っぽいね」
「太一くんも手伝うの?」
「返事してない。でも、お前が帰って来たんなら、俺には頼まないだろ」
それはつまり、『城島さん』が長瀬の方を頼っている(のならば良かったのだが)、とは、残念ながら一概には言えない。
自由職人である長瀬に対して、本職を持っている太一に遠慮しているためだろう。
前述、彼は小糸ビルの1階部分、店舗フロアを借りて小さなリサイクルショップを経営している。
リサイクルショップ、現代風にアレンジした業種の詰まるところ中古骨董品店なのだが、これが、もう持ち上げようの無いくらいに客が来ない。
ヒマすぎる。閑古鳥が店の中に常駐しているんではないかと疑うほど、ヒマだ。
一体、彼はどうやって生計を立てているのだろう。長瀬は、日雇いバイトをこなすたびに、心配になっている。
太一とは1階の踊り場で別れた。
所々剥がれた金メッキにより、古臭さが倍増(当社比)した玄関奥のエントランス。
誰も世話していないゼラニウムの角鉢は既に雑草化して、時雨でも元気に育っている。
2階フロアの部屋は1つだけ。
1階と同じく店舗仕様だが、雰囲気は小奇麗な事務所風に改装されている。
磨りガラスに掲げられた金属プレートには、黒のゴシック体で彫られた『城島探偵事務所』の文字。
長瀬は心なしか緊張した面持ちで、ドアをノックする。
返事は無いが、鍵はかかっていない。単純に、長瀬のノックが弱すぎて音が響かないだけなのだろう。
事務所の中を、少し覗いて見る。
「ああ、長瀬くん。おかえり。良かった」
入ってすぐの戸棚向かいで、資料の整理をしている男。
彼が城島茂である。
一見すると人の良さそうな優男。
長瀬よりも年上だが、これと年齢が限定出来ない独特の空気を纏っている。
太一とは違う意味で、見たままに騙されると痛い目に遭いそうな雰囲気である。
たとえ冗談を口にしても、どこまでが本気なのだろう、という感じの、いわゆる境界線を引きにくいタイプの人間。
きっと彼の本性を知る人物など、ほんの一握りに違いない。
(そしてその中に、自分は入っていないのだろう)
と、長瀬はぼんやりと思い流す。
「帰ってこなかったら、太一くんに頼もうかと思ってたんだよ。これから時間もらえる?」
昼下がりだろうか、穏やかすぎる天候にして時間帯が読み辛いころ。
小糸ビル前の道路脇、お粗末な歩道に乗り上げて、1台のスポーツカーが停まった。
ワインレッドの車体から颯爽と降りて来たのは、ダークグレーのスーツを着こなす長身の男だ。
地面を擦るように靴を滑らせて、大股で男が向かったのは、小糸ビル1階のリサイクルショップ『中古世界』であった。
およそ似つかわしくない両雰囲気の温度差を気にもせず、男は迷わずリサイクルショップのドアを開ける。
と、1歩踏み進んだ右足に細いワイヤーが引っかかった。
びよん。
入り口すぐ右のパンチングマシーンが作動。
男は最低限の動作で器用に避ける。
パンチングマシーンのグローブは眼前を横切り、通路反対側のペナントを倒す。
ぱこん。
入り口すぐ左上からプラスチックのウルトラエイト(1/200)が店内を飛行。
男が素早くお辞儀すると、ウルトラエイトが頭上を掠める。
その突き出したパンチが、ぶら下がっていた4枝の針金製ヤジロベエに引っかかると、
だがん。
天井からどこのお約束だと言わんばかりに、ステンレスのタライが落下。
男は余裕の笑みでもって、身体を半歩ほど移動させる。
傍目から見れば、バラエティ番組のお遊びをど真剣にこなす役者の一コマのようである。
さて、これで最後かと思われたコンマ5秒後。
奇襲のごとく、それは時間差で発動した。
4枝ヤジロベエが作動させたのは、タライだけではなかったのだ。
スーツの男が不気味な気配を感じ取った足下に眼をやると、
古臭いネジ音でジーと通路を横切っていく、異様なまでに遅い赤のチェロQが。
ぴこん。
通路左にあからさまに仕掛けてあったピコピコハンマーが、
支点力点作用点の単純法則に基づき、狙い定めて倒れ掛かってきた。
男は「はあっ!?」という危険回避な叫びの後、間一髪、後方に傾いて逃げることに成功する。
トラップは、以上で打ち止めだ。
全部避けやがった。店長は人知れず舌打ちする。
何ともつまらない客である。
「……太一くーん」
入り口から呆れたような声が投げかけられる。
一見客では無かった。
否、当然と言うべきか、そんな常人離れた動きの客は1%もいない。
いるのは、この店と店長の性格を熟知する、彼の親しい知人ぐらいのものである。
「なんだ……松岡か」
「ちょっとー、毎回毎回、この仕掛けどうにかしなよ! お客さん来たらどうすんの!」
いまだにブランコ揺れし続けるウルトラエイトを払いのけて、ずかずかと店の奥カウンターに詰め寄ってくる。
男の名前は、松岡と言う。
「ま、この店のユニークさをアピールするためのオープニングセレモニーだから」
「……いや、横文字ばっかで言われても……それはたぶん一部の人間にしか伝わらないと思うよ」
「で、今日は何の用?」
松岡が店に訪ねてくる用事などごく限られているのだが、太一は話題逸らしにかこつけて聞いてみる。
「仕事。仕事手伝ってほしいんだけど」
「今から?」
「うん、これから。ちょっと情報欲しくて」
松岡は、まずバインダーを差し出してくる。
仕事の手伝いを頼んでくる時は、無駄に背景を隠したり、誤魔化したりはしない。
その辺は潔い、彼のスタイルだ。
作られたばかりなのだろう、真新しい薄緑のファイル。タイトルは付けられていない。
「人探しか何か?」
「さすが。察しが良いね」
「ってゆか、お前が持ってくる仕事の5割は人探しでしょ」
「残りの5割は……」
「浮気調査」
ご名答、と松岡は肩をすくめた。
さて船内の中心部、エントランスと2枚ドアで面した巨大なホールでは、今まさにパーティーの真っ最中であった。
立食形式の広間に、大勢のめかし込んだ客。200、多く見積もったら300人いるかもしれない。
この場合、人数の多さは難問題でしかない。
きっちりとした礼式スーツを着こなした山口は、短く嘆息する。
「いかがですか」
不意に間近で声がかかり、山口は顔を上げた。
背の高いタキシードの男が、ステンレスの盆を手に、ワイングラスを勧めているようだ。
豪勢なパーティーで出るワイン、さぞかし高級なものに違いない。山口の年収では、多分、この先、一生口にはできないだろう。
是非とも味わいたいところだったが、忌々しいことに職務中なのである。
「ああ、えっと……いや……」
「ありがとう、戴くよ」
勧めを断ろうとした山口の隣から、優雅に指が伸びてきた。
同時に、その肘が、その横目が、山口を小突く。受け取って、としきりに合図を送っているのだ。
「……どうも」
流れに押されるように、山口はワイングラスの一つを手に取った。
引きつった笑みには気づかなかったらしい、ボーイは一礼して、次の壁際の客へと移動する。
しばらくの間があった。
壁際に立つ二人の男が、何気ない世間話をし出すまでの合間としては、やや不信な数秒ではあった。
「おい……井ノ原?」
「もらっとけば良いじゃないの? 逆に怪しまれますって」
「職務中だぞ、何も飲まなくても。俺、反省書書くの嫌だからな」
「意外と頭固いんですねぇ、山口警部」
井ノ原は軽い口調でワイングラスを傾ける。
「それとも、何か起こる、って警部の勘でも?」
「いや……ああ、心配しなくても。まぁ確かに、このパーティーでは起こらねぇよ。何しろ人が多すぎる」
山口は、顎でホールの中央を指し示す。もっとも、中央が何処なのか判別できないほどの人、人の群れである。
規則的に置かれた円卓は、真っ白なテーブルクロスが会場の明りを全て弾くかのごとく、目に痛いほど美しい。
「シロと決め付けるな」と語った、上司の言葉を意味無く思い出す。
さらに、その人だかりの中、ひときわ輝く女性が周囲に愛想を振りまいている。
パーティーの央華とも言える彼女の周りに、人が途絶えることは1秒たりとも無い。
当然だ、このパーティーの主役の一人でもあるのだから。
「それに、お嬢様がまだ婚約者を発表してないしな」
山口はのんびりとグラスを揺らす。
どちらにも、たいして興味は無いという彼なりの主張である。
このパーティーは、例の主役――“お嬢様”の、婚約発表の席上に設けられた余興なのだ。
婚約発表、となると当然ながら相手の男性が必要なのだが、どういう経緯か、その男性の紹介は、パーティーのクライマックスに初めて行われる、ということだった。
壁の華もとい、壁際の枝……でなく、壁際の二人客、山口も井ノ原も、彼らの立場をもってしても、婚約者が誰なのかを知らされていない。
相手は結構な権力と相当な財力を持つ一団、迂闊なことは口出せなかった。
「って言うか、何でわざわざ、直前まで極秘なのか……?」
「ああ、それは。ほら、きっとあれでしょ」
井ノ原はそこで言葉を切り、ワインを軽く飲み干した。
「宝くじの当選番号発表会とか。公開抽選会とか。そんな感じじゃないですか?」
「宝くじね……知ってるか、1等は飛行機事故に遭遇するよりも確率が低いんだぞ」
「けど、それよりは確率高いでしょう? 婚約者に選ばれるほうが」
「逆玉の輿かー……何か複雑そうね。俺はパスだな」
「特に警部は尻に敷かれそうなタイプですからねぇ」
「……井ノ原、左遷先は小笠原で良いか」
刻々と逸れ始めた話題に同時に気づいたか、二人はふと我に返る。
現実に戻れば、何のことは無い。
「……どっちにしろ俺らには無関係だよな」
山口が自嘲気味にまとめた一言が全てである。
今、自分たちはパーティーに御呼ばれした財界人の関係者、という“設定”なのだ。
設定、があるからには無論、本当のところは違う。
(その事実を公にするのは、少し後のことになるだろうが、もう80%ほど明らかになっている。)
「無関係、とも言えないかもよ? ほら、だってこのパーティーに来てる人たち、皆お偉いさんなわけでしょ?」
井ノ原は、空のワインを持て遊び、一巡させる。
見た限りでは、どこぞの結婚披露宴と何ら大差は無い。客といってもピンキリだ。
確かに、“お偉いさん”と言われれば、何となくそう思えてしまうようなとても微妙な人物もいたりする。
大物と小物の違いなんて、衣食住と立ち振る舞い、考え方ぐらいのものだろう。
確かにおおよそ、人間の個性の違い全部に当てはまるが。
「何かのきっかけで社長令嬢とお知り合いに……なんて」
「……漫画みてーだな」
「だってー、2時間サスペンスドラマでは、渋い刑事と未亡人が仲良くなるって決まりでしょ!」
「誰だよ、未亡人って」
「深窓の令嬢ですよー」
完璧に使用方法を間違えていると山口は思ったが、聞き流した。
「刑事はともかく、渋いってのには俺らは当てはまんねぇだろ」
「ま、そりゃそうですね。あ、俺、肉取ってこよっと」
「お前……もう一押ししろよ……!」
山口警部が細いワイングラスの足を折れんばかりに握り締めたのに、井ノ原巡査部長は気づかぬ風で、取り皿を探しに行ってしまった。
外観は、200m離れて見れば、真っ白なギリシャ風の洋館。
室内1DK〜2LDK、下階はオフィス仕様。
最寄の駅から歩いて20分、自転車だと5分。途中、神戸顔負けの急斜面有り。
目の前は一方通行の車道。
半径500m以内唯一の大型量販店を、500m先に望める立地条件の下、
ここ――『小糸オフィスビル』では、今日も『空部屋有』の垂れ幕が、パタパタと元気に揺れていた。
小糸ビルを生活の拠点とする人間が、当然一人や二人くらいはいる。
コンビニの袋を右手に提げて、即興の歌を口ずさみながら歩いてくる彼――長瀬智也も、そんな一人だ。
20代であろう、長身に整った目鼻立ちの、なかなかの美男子である。見た目は、である。
学生では無いが、定職には就いていない。世間で言う自由職人、俗に言うフリーター。
しかし、彼は大声でこう撤回することだろう。
「職業、『探偵の助手』です!!」
……と。
その経緯はさておき、彼は今日もウキウキ気分で、小糸ビルへと帰還した。
小春日和は良好。気温はほんのり暖かいくらい。
アーチがかった玄関口には、日当たりの良い場所を確保した1匹の犬が寝そべっている。
「ただいま小糸ー。お前、元気?」
長瀬はしゃがみこんで、スムースヘアーな灰色の毛並みを撫でる。
犬は一度だけ目を開けたが、見飽きた人間だと捉えたのか、そのまま昼寝の姿勢に戻った。
断っておくと、長瀬は別に建物に向かって挨拶をしたわけではない。
この犬こそが、『小糸』なのである。小糸ビルに住み着く犬、だから小糸。
安直にして単純な名前であるが、一体いつから、誰がそう名づけたのかなど、肝心なところは、アパートの住人たちは皆一人として知らない。
しかも、小糸には(厳密には)飼い主が居ないのだ。
アパートの住人たちが与えるおこぼれで生活しているようなものだから、住人全員が飼い主、と言えば間違ってはいないし、聞こえも良いが、要約するなら野良犬一歩手前である。
見た目スマートでスレンダーでスタイリッシュな大型犬なのだが。
世が世なら、血統書が付いていてもおかしくなさそうな犬なのに。
長瀬は小糸をぺたぺたと叩く。
「世が世、って……どんな世の中なんだよ」
長瀬、心の言葉につっこまれた。
(本当は心の言葉を、知らず勝手に口に出してつぶやいていただけのようである。)
相方は、振り向かなくとも声で判る、長瀬にとって最も親しいご近所さんだ。
「ただいまー」
「おかえり。小糸に変なもん食わせんなよ」
「食わせてないッスよー、もう」
長瀬が口を尖らせる。ここでようやく振り向く。
「お前、もう小糸の飼い主になっちゃえば? 懐いてるみたいだし」
「無理、オレ余裕ない。だってそれだったら、太一くん、もうほとんど飼い主みたいなもんでしょ」
「俺は寝床を貸してやってるだけ。犬を飼う予定は無ぇよ」
「……けち」
ぽそりとつぶやいた長瀬の言葉を、彼が聞き逃すはずが無かった。
「長瀬……城島さんからお前に伝言があったんだけどたった今言うの止めようかなって気に」
「えええ!? ちょ……ごめんなさいごめんなさい! 何スか、伝言って。それを先に言ってよ!」
「あー、あれ? ふふ、本当に何だったかなぁ?」
明後日の方向を見やりながら、首を傾げるこの男の名は国分太一。
背格好は長瀬よりも随分と小造りだし、『太一』と下の名前で呼んでいるが、実際はかなり年上だということを、長瀬は彼と遊び仲間になってから1ヵ月後に知った。
無邪気を3000mほど上向きに通り越した計算高さを武器にする、とある店の経営者である。
見たままに騙されると痛い目に遭う典型のような人だ、
と、長瀬は彼の人となりを、そうインプットしている。
「あ……そう、そうだ。城島さんが探してたよ。仕事の話じゃねぇ?」
「え、本当!? 何かなぁ……」
「これから時間あるかって聞いてきたから、緊急っぽいね」
「太一くんも手伝うの?」
「返事してない。でも、お前が帰って来たんなら、俺には頼まないだろ」
それはつまり、『城島さん』が長瀬の方を頼っている(のならば良かったのだが)、とは、残念ながら一概には言えない。
自由職人である長瀬に対して、本職を持っている太一に遠慮しているためだろう。
前述、彼は小糸ビルの1階部分、店舗フロアを借りて小さなリサイクルショップを経営している。
リサイクルショップ、現代風にアレンジした業種の詰まるところ中古骨董品店なのだが、これが、もう持ち上げようの無いくらいに客が来ない。
ヒマすぎる。閑古鳥が店の中に常駐しているんではないかと疑うほど、ヒマだ。
一体、彼はどうやって生計を立てているのだろう。長瀬は、日雇いバイトをこなすたびに、心配になっている。
太一とは1階の踊り場で別れた。
所々剥がれた金メッキにより、古臭さが倍増(当社比)した玄関奥のエントランス。
誰も世話していないゼラニウムの角鉢は既に雑草化して、時雨でも元気に育っている。
2階フロアの部屋は1つだけ。
1階と同じく店舗仕様だが、雰囲気は小奇麗な事務所風に改装されている。
磨りガラスに掲げられた金属プレートには、黒のゴシック体で彫られた『城島探偵事務所』の文字。
長瀬は心なしか緊張した面持ちで、ドアをノックする。
返事は無いが、鍵はかかっていない。単純に、長瀬のノックが弱すぎて音が響かないだけなのだろう。
事務所の中を、少し覗いて見る。
「ああ、長瀬くん。おかえり。良かった」
入ってすぐの戸棚向かいで、資料の整理をしている男。
彼が城島茂である。
一見すると人の良さそうな優男。
長瀬よりも年上だが、これと年齢が限定出来ない独特の空気を纏っている。
太一とは違う意味で、見たままに騙されると痛い目に遭いそうな雰囲気である。
たとえ冗談を口にしても、どこまでが本気なのだろう、という感じの、いわゆる境界線を引きにくいタイプの人間。
きっと彼の本性を知る人物など、ほんの一握りに違いない。
(そしてその中に、自分は入っていないのだろう)
と、長瀬はぼんやりと思い流す。
「帰ってこなかったら、太一くんに頼もうかと思ってたんだよ。これから時間もらえる?」
昼下がりだろうか、穏やかすぎる天候にして時間帯が読み辛いころ。
小糸ビル前の道路脇、お粗末な歩道に乗り上げて、1台のスポーツカーが停まった。
ワインレッドの車体から颯爽と降りて来たのは、ダークグレーのスーツを着こなす長身の男だ。
地面を擦るように靴を滑らせて、大股で男が向かったのは、小糸ビル1階のリサイクルショップ『中古世界』であった。
およそ似つかわしくない両雰囲気の温度差を気にもせず、男は迷わずリサイクルショップのドアを開ける。
と、1歩踏み進んだ右足に細いワイヤーが引っかかった。
びよん。
入り口すぐ右のパンチングマシーンが作動。
男は最低限の動作で器用に避ける。
パンチングマシーンのグローブは眼前を横切り、通路反対側のペナントを倒す。
ぱこん。
入り口すぐ左上からプラスチックのウルトラエイト(1/200)が店内を飛行。
男が素早くお辞儀すると、ウルトラエイトが頭上を掠める。
その突き出したパンチが、ぶら下がっていた4枝の針金製ヤジロベエに引っかかると、
だがん。
天井からどこのお約束だと言わんばかりに、ステンレスのタライが落下。
男は余裕の笑みでもって、身体を半歩ほど移動させる。
傍目から見れば、バラエティ番組のお遊びをど真剣にこなす役者の一コマのようである。
さて、これで最後かと思われたコンマ5秒後。
奇襲のごとく、それは時間差で発動した。
4枝ヤジロベエが作動させたのは、タライだけではなかったのだ。
スーツの男が不気味な気配を感じ取った足下に眼をやると、
古臭いネジ音でジーと通路を横切っていく、異様なまでに遅い赤のチェロQが。
ぴこん。
通路左にあからさまに仕掛けてあったピコピコハンマーが、
支点力点作用点の単純法則に基づき、狙い定めて倒れ掛かってきた。
男は「はあっ!?」という危険回避な叫びの後、間一髪、後方に傾いて逃げることに成功する。
トラップは、以上で打ち止めだ。
全部避けやがった。店長は人知れず舌打ちする。
何ともつまらない客である。
「……太一くーん」
入り口から呆れたような声が投げかけられる。
一見客では無かった。
否、当然と言うべきか、そんな常人離れた動きの客は1%もいない。
いるのは、この店と店長の性格を熟知する、彼の親しい知人ぐらいのものである。
「なんだ……松岡か」
「ちょっとー、毎回毎回、この仕掛けどうにかしなよ! お客さん来たらどうすんの!」
いまだにブランコ揺れし続けるウルトラエイトを払いのけて、ずかずかと店の奥カウンターに詰め寄ってくる。
男の名前は、松岡と言う。
「ま、この店のユニークさをアピールするためのオープニングセレモニーだから」
「……いや、横文字ばっかで言われても……それはたぶん一部の人間にしか伝わらないと思うよ」
「で、今日は何の用?」
松岡が店に訪ねてくる用事などごく限られているのだが、太一は話題逸らしにかこつけて聞いてみる。
「仕事。仕事手伝ってほしいんだけど」
「今から?」
「うん、これから。ちょっと情報欲しくて」
松岡は、まずバインダーを差し出してくる。
仕事の手伝いを頼んでくる時は、無駄に背景を隠したり、誤魔化したりはしない。
その辺は潔い、彼のスタイルだ。
作られたばかりなのだろう、真新しい薄緑のファイル。タイトルは付けられていない。
「人探しか何か?」
「さすが。察しが良いね」
「ってゆか、お前が持ってくる仕事の5割は人探しでしょ」
「残りの5割は……」
「浮気調査」
ご名答、と松岡は肩をすくめた。
さて船内の中心部、エントランスと2枚ドアで面した巨大なホールでは、今まさにパーティーの真っ最中であった。
立食形式の広間に、大勢のめかし込んだ客。200、多く見積もったら300人いるかもしれない。
この場合、人数の多さは難問題でしかない。
きっちりとした礼式スーツを着こなした山口は、短く嘆息する。
「いかがですか」
不意に間近で声がかかり、山口は顔を上げた。
背の高いタキシードの男が、ステンレスの盆を手に、ワイングラスを勧めているようだ。
豪勢なパーティーで出るワイン、さぞかし高級なものに違いない。山口の年収では、多分、この先、一生口にはできないだろう。
是非とも味わいたいところだったが、忌々しいことに職務中なのである。
「ああ、えっと……いや……」
「ありがとう、戴くよ」
勧めを断ろうとした山口の隣から、優雅に指が伸びてきた。
同時に、その肘が、その横目が、山口を小突く。受け取って、としきりに合図を送っているのだ。
「……どうも」
流れに押されるように、山口はワイングラスの一つを手に取った。
引きつった笑みには気づかなかったらしい、ボーイは一礼して、次の壁際の客へと移動する。
しばらくの間があった。
壁際に立つ二人の男が、何気ない世間話をし出すまでの合間としては、やや不信な数秒ではあった。
「おい……井ノ原?」
「もらっとけば良いじゃないの? 逆に怪しまれますって」
「職務中だぞ、何も飲まなくても。俺、反省書書くの嫌だからな」
「意外と頭固いんですねぇ、山口警部」
井ノ原は軽い口調でワイングラスを傾ける。
「それとも、何か起こる、って警部の勘でも?」
「いや……ああ、心配しなくても。まぁ確かに、このパーティーでは起こらねぇよ。何しろ人が多すぎる」
山口は、顎でホールの中央を指し示す。もっとも、中央が何処なのか判別できないほどの人、人の群れである。
規則的に置かれた円卓は、真っ白なテーブルクロスが会場の明りを全て弾くかのごとく、目に痛いほど美しい。
「シロと決め付けるな」と語った、上司の言葉を意味無く思い出す。
さらに、その人だかりの中、ひときわ輝く女性が周囲に愛想を振りまいている。
パーティーの央華とも言える彼女の周りに、人が途絶えることは1秒たりとも無い。
当然だ、このパーティーの主役の一人でもあるのだから。
「それに、お嬢様がまだ婚約者を発表してないしな」
山口はのんびりとグラスを揺らす。
どちらにも、たいして興味は無いという彼なりの主張である。
このパーティーは、例の主役――“お嬢様”の、婚約発表の席上に設けられた余興なのだ。
婚約発表、となると当然ながら相手の男性が必要なのだが、どういう経緯か、その男性の紹介は、パーティーのクライマックスに初めて行われる、ということだった。
壁の華もとい、壁際の枝……でなく、壁際の二人客、山口も井ノ原も、彼らの立場をもってしても、婚約者が誰なのかを知らされていない。
相手は結構な権力と相当な財力を持つ一団、迂闊なことは口出せなかった。
「って言うか、何でわざわざ、直前まで極秘なのか……?」
「ああ、それは。ほら、きっとあれでしょ」
井ノ原はそこで言葉を切り、ワインを軽く飲み干した。
「宝くじの当選番号発表会とか。公開抽選会とか。そんな感じじゃないですか?」
「宝くじね……知ってるか、1等は飛行機事故に遭遇するよりも確率が低いんだぞ」
「けど、それよりは確率高いでしょう? 婚約者に選ばれるほうが」
「逆玉の輿かー……何か複雑そうね。俺はパスだな」
「特に警部は尻に敷かれそうなタイプですからねぇ」
「……井ノ原、左遷先は小笠原で良いか」
刻々と逸れ始めた話題に同時に気づいたか、二人はふと我に返る。
現実に戻れば、何のことは無い。
「……どっちにしろ俺らには無関係だよな」
山口が自嘲気味にまとめた一言が全てである。
今、自分たちはパーティーに御呼ばれした財界人の関係者、という“設定”なのだ。
設定、があるからには無論、本当のところは違う。
(その事実を公にするのは、少し後のことになるだろうが、もう80%ほど明らかになっている。)
「無関係、とも言えないかもよ? ほら、だってこのパーティーに来てる人たち、皆お偉いさんなわけでしょ?」
井ノ原は、空のワインを持て遊び、一巡させる。
見た限りでは、どこぞの結婚披露宴と何ら大差は無い。客といってもピンキリだ。
確かに、“お偉いさん”と言われれば、何となくそう思えてしまうようなとても微妙な人物もいたりする。
大物と小物の違いなんて、衣食住と立ち振る舞い、考え方ぐらいのものだろう。
確かにおおよそ、人間の個性の違い全部に当てはまるが。
「何かのきっかけで社長令嬢とお知り合いに……なんて」
「……漫画みてーだな」
「だってー、2時間サスペンスドラマでは、渋い刑事と未亡人が仲良くなるって決まりでしょ!」
「誰だよ、未亡人って」
「深窓の令嬢ですよー」
完璧に使用方法を間違えていると山口は思ったが、聞き流した。
「刑事はともかく、渋いってのには俺らは当てはまんねぇだろ」
「ま、そりゃそうですね。あ、俺、肉取ってこよっと」
「お前……もう一押ししろよ……!」
山口警部が細いワイングラスの足を折れんばかりに握り締めたのに、井ノ原巡査部長は気づかぬ風で、取り皿を探しに行ってしまった。