JUNK5

 グリモワール“第7巻”は、“時”について語られる。
 “時”とは、言葉の意味のままに、常々に流れ行く“時間”であり、また移ろい行く“時代”でもある。
 時を操る魔術師ならば、その内容に興味を駆られるのは必然というもの。

 けれど、太一が“第7巻”を探しているなんて話は、聞いたことが無かった。
 誰にも明かしていないわけではなくて、おそらく本当に探していない。
 きっと、彼は、「必要ない」と思っている。
 長瀬には、変なところで妙な自信がある。

「グっさんは、“7巻”を手に入れて……どうするんですか?」

 カウンター向かいで、松岡が顔を強張らせる。
 場の空気が、数瞬の後に凍りつきそうな状況となっていることは分かっている。
 長瀬だから、かろうじて口に出せた質問だったかもしれない。
 いや、だからこそ、長瀬は聞いた。誰かが口火を切らなければ、前に進めない話題だった。

「……“時の魔術”を探してるんだ」

 時の魔術師を知る長瀬は、分かりやすく眉根を寄せる。
 それは、山口からすれば、単純に理由を尋ねたがっている風の表情に見えただろう。
 事実、長瀬が発した次のセリフも、疑問符だった。

「何のために?」
「“時”を変えるために」
「過去ですか? それとも、現在? 未来ですか?」

 矢継ぎ早に問うた長瀬の目を、山口が無言のままに見つめ返してくる。
 人が変えたいと強く思う“時”は、おそらく、その選択肢の中で言えば一つしか無い。

「たぶん、お前らが思ってる答えとは違うよ」
「それは……じゃあ、それには、“時の魔術”が絶対に必要なんですか?」
「うん」
「けど、“時の魔術”は……あれは……失われた禁呪だよ」

 カウンターに目を落とす松岡が、震える声でつぶやく。
 失われたと口で言いながら、それを扱う者を知るというバックボーンは長瀬と変わらないが、松岡の方がより慎重に言葉を選んでいる、と長瀬は感じている。
 二人は共に、“時の魔術”の抱える矛盾を知っている。
 禁呪であるが故に、圧倒的な力の代償として払う、大きな対価を。

「“時の魔術”を手に入れても、兄ぃの目的は達成されない」

 絶対に、と付け加えることが出来なかった分だけ、松岡は山口を手助けしたいと思っているのだ。
「ふぅん。てことは、オレも魔曲を覚えれば、お前の呪歌は効かなくなる、ってことなんだ?」
「うん。素質は要るけど……マボ、呪歌遣いたいの?」

 長瀬は、フォークを空中で止めると、トマトソースのパスタを肺気圧だけで吸い込んだ。
 文献にだけ見る、全てを吸い込む伝説の怪物アトモスが実在するとしたら、きっとこんな感じなのだろう、と松岡は余談的に思う。

「唄いたいわけじゃねって。たださぁ、お前が“妖精の踊り”遣うたびにオレも落ちるって、何か情けなくね?」

 魔術と勘繰らせないような魔術、として使う呪歌であるので、その場にいる全ての生物に等しく効力が降り重なる。
 耳栓をしているか、耳を塞げばある程度は緩和できるのだろうが……。
 何せ、この店の経営者でもある松岡が、向かいのカウンターでいきなり耳を塞ぐような状況は、さすがに滑稽だ。

「ちゃんと後で、マボのぶんだけ解呪してるじゃんよー」

 長瀬は“妖精の踊り”に関しては、その解呪専用の呪歌、つまり正反対の効力を持つ“理性の女神”も使用することが出来る。

「わかってる。それもわかってるんだけどよ……だから、その……解除の方法ってのが……」
「え? “耳元でこっそり唄う”」
「いやそれが恥ずかしいんだよ!! 何だよその乙女の内緒話みたいな!!」

 店にグリモワールを狙う輩が押しかけて来る度に、長瀬は呪歌で追い返してくれるものの、松岡は、その間、一体何が起こっているのか全く分からないままに敵味方諸共(まさしく諸共)の魔術を掛けられ、全て終わってから、ようやく長瀬に解呪される。
 前述、人目にかなり恥ずかしい光景で。
 自分の知らないところで片付いている、自分が巻き込まれている何かが、色々と、納得いかない。

「それ、太一くんにも同じこと言われたよ。最初」
「え、マジで? つーかやっぱり?」
「だから太一くん、魔曲覚えたんだもん」

 元々、日頃の手習いから鍵盤楽器を嗜んでいた太一は、魔曲の飲み込みが早かった。
 魔曲の持つマナの流れと、仕組みとを理解した身体は、呪歌を無効化できるようになる。
 だから現在の太一は、長瀬が隣で呪歌を遣っていても全然平気なのだ。

「ほーなるほど……なるほど。ってことは魔曲って、覚えようと思えば、覚えられる、ってコトよね」
「うん。マボ、何か得意な楽器とかあんの?」
「が、楽器!?」
「出来たほうが覚えやすいよ、魔曲。太一くんは銀鍵弾けたから」

 言われて、松岡は悩む。
 生まれてこのかた、楽器に触れるタイミングはまるで無かったし、それで問題も無かった。
 グリモワールを継承する家として一通りの魔術を学んできてはいたが、魔曲は知識の範囲外だ。
 伝説の中の伝説であり、幻の魔術体系。
 だが、それでいて、実用性の乏しい、いわば飾り物としての意味しか成さない魔術だと思っていた。
 おそらく、自分には魔曲の素養は無い。

「銀鍵……ってオレにゃ絶対無理だなぁ……」
「じゃぁ弦楽器は? ルクス・リュートとか玉石七弦とか」
「いやどう考えても無理だろ! せめて無効化できるような……何かコツとかありゃ」

 無効化、とその単語を聞いた長瀬はふいと視線を上げる。

「無効化……とは違うかもしんねーけど、呪歌の力を乱す方法ならあるよ。魔曲の一種で」
「その魔曲をどうやって演奏するか、で、今悩んでんじゃねーか」
「楽器使わない魔曲なの。それのハイレベルな人になると、楽器も使うようになるらしいんだけど……」

 基本的に楽器を使わないが、それは、歌ではない魔曲であるらしい。
 長瀬が塔から持ち出した魔曲全集の教本にも記載されていたが、その魔曲は外からマナの動きを遮ってしまうため、呪歌を使用する歌い手本人には、扱えないそうなのだ。

「“鼓律”って言うんだけど」

 覚えてみる?、と少しばかり挑戦的な態度で聞かれたものだから、松岡は思わず、二つ返事で頷いてしまったのだ。

「交渉は決裂、と言うことで宜しいですね?」

 そう言い放ったのを最後に口を閉じた魔術王は、言葉の代わりに不敵に微笑んだ。
 床に積まれた冊子の中から、おもむろに三冊ほど引き抜いて、領主の目線に持ち上げる。
 何をしようというのか。
 取り囲んだ近衛兵が即座に剣を閃かせる中、魔術王と称された伝説の(あらゆる意味で伝説の)男は、冊子を一冊ずつ、片手から片手へ、ひらひらと団扇のように振り仰ぎながら、口を楽しそうに尖らせて、何か、独り言をつぶやいた。
 そのように、見えた。

「何を……!?」

 驚愕の声を発したのは、他ならぬ魔術王の従者だった。
 従者すら予測できない行動を、魔術王はやってのけたのだ。
 あの独り言が、高位古代語だと気付けた人物は、放った本人と、従者以外には一人もいなかった。

 次の瞬間、場の人間全てが絶句していた。

 尊大なる魔術王は、自ら至高の書と呼んだそれを、自らの手で燃やしたのだ。
 まるで未練無く一切を燃やし尽くしたあと、残った灰を無造作に払う。
 精神の休む暇も与えず、彼は次の三冊を手に取っていた。

「さて、残り九冊になってしまいましたね。領主殿」

 その眼に浮かんだ狂気じみた冷笑は、やはり狼狽など微塵も感じさせてはくれなかった。
 太一の実家は、代々、王立学院十等席に名を連ねる、高名な魔術師をそこそこ輩出する、そこそこ名の通った魔術の名家であった。
 跡継ぎでは無いにしても、幼少からのそこそこの英才教育と、尚且つそこそこの天賦の才(自称)もあってか、成人を迎える前には、ストレートで採用試験を通っていた。
 4回程度で通れば良いだろうと楽観していただけあって、これには本人が驚いた。
 運の良さも、ひとつの能力なのだろう。
 両親や兄姉たちと同じく、王立学院に属する魔術師となることを運命付けられていたし、その運命に抗うどころか、むしろ何の嫌悪感も持たなかった。
 親の七光り、名家の圧力、などと自らの実力の無さを棚に上げる矮小な人間から陰口を叩かれること数回で、だがしかし、太一はむしろ開き直っていた。
 合言葉は、「七光り上等!! 安定第一!!」であったのだ。

 そんな太一だったので、時たま今の状況に、疑問とまでは行かない靄々とした想いを抱く。
 まさか安定とは正反対の、ハイリスクハイリターンな冒険者稼業をしているとは、あの頃の自分では、夢にも思わないだろう。


 太一は、物思いに耽りながら、懐から1冊の手帳を取り出す。
 常に肌身離さず携帯している小冊子。
 それは手帳ではなく、手のひらに乗るほどのサイズの大きさと薄さの、1冊の本であった。

 グリモワール。
 この世界に5冊しか存在しないと言われる幻の書物の、“5冊に含まれない”第1巻。
 つまり既に失われ、存在しないはずの、第1巻なのだ。
 これを偶然に譲り受けたその瞬間から、太一の安定した未来への道は、言わずもがな綺麗に閉ざされてしまった。

 グリモワール1巻の内容は、たったひとつの事象についてのみ記されている。
 故に、わずか数ページの内容が走り書きされた手帳のような装丁となっている。
 手帳には、メモ書きのようだが迷い無く書かれた文字が踊っている。

 グリモワール1巻の内容は、世界消失の前夜―――真の意味での終わりについて、である。
 目の前のテーブルの上に、す、と、たいしたものでもないように、薄い冊子が差し出された。
 ページ数にすると、100には到底満たないだろうか。
 ボロボロの表紙は、週刊誌よりわずかに厚みがある小冊子、くらいの程度の強度で、頼りなさげな太さで書かれたタイトルは、だがよく見ると、黒いインクの乾いた筆跡が残っている。
 手書きなのだ。原本であり、この世にただひとつのオリジナルの本。

 正真正銘の破戒の書、“グリモワール”。

 冗談だろう、と山口は思っているはずだった。
 しかし、何故かその感想を口に出すことができない。
 向かいに座る男が、嘘を吐いている、騙している、貶めようとしている、当然身構えた感想を、口に出すことが出来ない。

 次元を超えた何かが(おそらく魔力が)、山口を沈黙させていた。

「取引しよかぁ」

 男は、山口と対照的な、緩く飄々とした口調で言った。

「このグリモワールは第12巻」

 表紙に、巻数は示されていない。
 山口の疑問は当然来るものと分かっていたのだろう、男は薄い冊子を手に取ると、無雑作に表紙を開いた。
 週刊雑誌でも捲るような手つきで、表紙の装丁の裏側、開きに近い部分を指差す。
 メモ書きがあった。12、という数字が添削の丸で囲まれている。

「キミが欲しがっとったんは第7巻やったな? せやけど、この12巻に記される内容は……いや、キミはもう知っとるよな」

 グリモワールは、12冊の書全てに巻数が振られており、それぞれ1冊ずつが、違った真理を説き伏せる。
 山口は、現存するとされる5冊の巻数を、慎重に思い浮かべる。
 2巻、5巻、7巻、8巻、12巻。
 実質、最終巻である12巻のグリモワールの内容は、

「……他のグリモワールの存在証明だ」

 グリモワールそのものが、今、そしてこれから、どのように未来に介入していくか。
 どのような経緯を辿り失われるのか、それが完全に消失するまでが記録されるのだと言う。
 あれから、結局、骨董品店には寄らず終いだ。

 山口の手元には、売り損ねた1冊の本がある。
 魔術師風の怪しい男に、すれ違いざまにグリモワールだと指摘されたから、などとは、絶対に認めたくはない。
 確かに、この本にはまだ何か、可笑しな点が有るように思えてならなかったのだ。

 売却を思い止まった山口は、もう1度だけ中身を確認しておくことにした。
 特に歴史的価値がある装丁では無いようだし、魔術がかけられている様子も無い。
 しかもその内容と言えば、てんで珍妙な覚書が、あちらこちらに煩雑に散らばって、とある見習い魔術師の魔術練習メモ帳のような、とかく本とは呼べない代物である。
 読む価値も無い、と1度は流し見て終わったのだが。

 1枚、ページをめくってみる。
 所々途切れる単語に、集中力を切らさぬよう、根気強く読み進める。
 どうやら、“魔術の基礎”について書かれてあるようだった。
 カチリ、と何か小さな金属が擦れたような音が響いたことに、あの魔術師は気付いただろうが、結果的に全て終わる最後まで、気付くことは出来ないのだ。

 刹那のうちに、音が放たれた1箇所から広がる無音の空間が、酒場を包み込んでいた。

 長瀬と、相対していた魔術師とが、互いの術が発動する直前の姿勢で、
 倒れかけた椅子が、傾いたそのままの角度で、
 テーブルから転がり落ちたコップが、水をたたえて空中に浮いたように、
 すべてが停止している。

「ったく……ヘマしやがって」

 つぶやきながら、太一は手元の懐中時計を確認する。
 文字盤を保護するガラスが砕け、5時31分10秒を指した秒針が、10秒のその位置で、細かく振れ続けている。
 “時の離れ”は、長くは保たない。

 太一は、相対する魔術師の男をわずかに横目で一瞥した。
 指を引っ込めようとしている懐から、小型のダガーが垣間見える。
 ダガーを媒介とするならば、雷か、風の魔術師だろうか。

 足早に長瀬の元へと駆け寄ると、すぐ近くの床に移動用の術式を設置する。
 長瀬の立っていた場所とは距離があったため、咄嗟に、彼を“離れ”の範囲外に指定することが出来なかったのだ。
 あと一歩を踏み出せば、術式が発動する位置に設置しておいたので、おそらくこれで気付いてくれる、とは思うが。

 いくら太一と言えども、一つの時間を止めた状態で、時間を止めたものを別の空間に移動させる術を重ねる、というのは、かなり難しい。
 余程切迫した状況でなければ、重ね技は使いたくはない。
 そうでなくとも、ここ数日で一体何個の時計を犠牲にしたことか。

「もう数えたくもねぇ」

 げんなりと肩を落とす太一である。

 時の魔術には、当然と言うべきか時計を使用する。
 1回の術の発動に、必ず1個の時計が必要であり、しかも発動と同時に壊れてしまうのだ。
 おかげで太一は、時計としての役割をしそうにない時計を、常に2、3個は携帯しなくてはならない、傍から見ると変な人である。

 便利なのは認めるけど、金がかかるんだよなぁ、これ。

 太一は溜め息を吐いて、自らの師のことを思い浮かべた。
 そういえばあの人も、常に金欠でよく借金取りに追われていたなぁ、と、少しばかり遠い目で懐かしんだ。
「……何で」

 こんなとき“彼”がいれば。
 長瀬は、今、この場にいない魔曲使いのことを思う。
 呪歌の効力を増幅させるための術を持つ、魔術師である。
 その術自体も、呪歌と同等か、あるいはそれ以上の効力を持っているため、互いに術の効力を増幅しあう関係作用となる。

 元々、呪歌自体が、本来は旅芸人の唯一の護身手段として考案されたものだとも言う。
 ゴツ苦しい魔術道具やら堅苦しい儀式、呪文を必要とする一般的な魔術師の各種装備を一切手にしなくとも、声さえあれば、身ひとつで使用できるという利点。
 ただ、あくまでも護身手段であるために、呪歌単体での効力は、それほど強いものではない。

「何であなたには、唄が効かないんですか」
「さあ。何でかなぁ。それ言うんやったら……キミはどうなん?」
「は? オレ?」
「キミには、唄は効かんわけ?」
「それは……え? オレは……え? ちょっと……待って」

 そもそも、魔曲を使役する術士たちはみな一様に、ある矛盾を抱えたままに術を行使せざるを得ない。
 考えてみれば、そうなのだ。
 魔曲を使役している側の術者も、当然魔曲を聞いているわけであるからして、つまり術を最も間近で、最大威力で受けているのは、他ならぬ術者本人なのである。
 この創始ひっくり返るほどの永遠の問題に対して、魔曲使いたちは、単純、と言うか半ば逃げ道的な方向で、既に解答を出していた。

「うん。“魔曲使い”には、“魔曲”は効かんのや」
「ああ! そ、そーなんスか!?」

 あっさりとタネ明かしをした魔術師の男に、一瞬納得しかけた長瀬は、だが次の瞬間には、沸き上がった新たな謎に飲まれる。

「そうなのか……あれ? ってことは、あの……アナタは?」
 松岡が持っているグリモワールは、第8巻。
 これまでと、これからの、全ての戦について記されており、記されていく。

 何故、これを所持しているのか、理由は長いようで短い話である。
 要は、松岡の家に代々伝わる家宝だったのだ。
 家督を継ぐ者に譲り渡されるという門外不出のそれを、松岡は多くの犠牲と引き換えに、だが労せずして手に入れることになってしまった。

 よりにもよって、一番要らないと思っていた巻を。

 18時開店ぴったりに、店のドアベルが音を立てる。
 松岡は酒場のカウンターの引き出しに、売り上げ日誌とグリモワールを無造作に片付けた。
 効果音を付けるなら、ぺい、と放り投げた感じだ。

「いらっしゃい」

 開店準備に追われるような仕草をしながら、松岡は客を出迎えた。
 敬語を使わずに話しかけることができる、親しい客であった。

「夜飯セットと生中で」
「……あのね兄ぃ。夜飯セットなんてメニューないから」

 松岡が釘を刺してやった馴染み客は肩を窄めて、そそくさとカウンター席に腰掛けた。
 客の名は、山口と言う。
 いかにも戦士風のガタイで初見惑わされること請け合いの、魔術師である。
 彼もまた、多くの魔術師と同じように、グリモワールを探す一人であった。

「この間、見つけた本さ。売れたんだよ、旅の魔術師に」
「え、売ったの? あれ」

 松岡が、1杯目のグラスを置きながら尋ねる。

 山口が先日手に入れた古書。
 松岡も見せてもらったが、あるいはグリモワールだったとしても違和感は無い、そこそこ価値がありそうな書物に思える代物だった。

「いやにあっさり売ったねえ」
「中身覚えたからな。内容……って言ったって、ほとんど無いようなもんだったし」
「内容が……無いよう……」
「いや親父ギャグじゃねーから別に」

 つきだしの炒り豆をつまんだ山口に、松岡はあとに続く台詞を綺麗に切断されてしまった。

「それに、あれがグリモワールだとしても、俺が欲しいヤツとは違う」

 現存する5巻のグリモワールは、固有の未来が記されている、と言われている。
 松岡が所持するものが“戦”について書かれてあるように、他の4冊も、おそらくそれぞれがキーワードを以って、別々の真理を示しているに違いない。

 松岡は、山口がグリモワールの何巻を求め探しているか、立ち入って聞いていない。

「まーだ探してんの? あんなの、もう無いって。ただの本だよ?」
「残ってるよ全部。あれは……人の手が創ったもんとは思えねぇ」

 ふと覗かせた真剣な表情を、山口はすぐに苦笑して壊した。

「少なくとも、俺が欲しいヤツは、まだ残ってるさ」

 気付いているのではないだろうか、と松岡は時折、思う。
 山口は、グリモワールを松岡が所持していることを知って、心密かに情報を求めているのではないだろうか。

 5冊のうち1冊を所持している松岡は、山口が欲している1冊が自分の1冊であれば良いのに、という願いと、自分の1冊と被りませんように、という願いとを、矛盾と分かりつつ抱えている。
 そして今、山口の手には、1冊の古びた本がある。
 簡単な魔術の封が掛けられてはいるが、開けようと思えば誰にでも開けられる、
 その程度の制限しか設けられていなかったから、たいした内容の本では無いのだろうと、山口は安易に推測してしまった。

 実際、中身は本当にたいしたことは無かった。
 数ページに渡る白紙と、破られた余白部分、所々途切れる支離滅裂な文章。
 子供のらくがき練習帳を、本にまとめたようなものだった。外れも大外れの、良いところだ。

 嘆息した山口は、骨董店を目指している途中であった。
 なじみの鑑定士に買い取ってもらおうと思っていたのだ。

「グリモワールを持っとるなぁ」

 と、すれ違った一人の魔術師が、突如と指摘するまでは。
 “グリモワール”と呼ばれる魔術書がある。
 全12巻から成るこの書は、世界の真理と行く末を記した預言書であると言う。
 そのうち7冊は、魔術書の存在が明るみになった瞬間に、失われている。
 現存するのは、わずかに5冊。
 魔術をたしなむ者であれば、誰であっても死ぬまでに一度は御目にかかりたい代物であるし、巨大国家がどれだけ大金を費やしても手に入れたい、そうするほどの価値がある書物だ。
 故にグリモワールを探す魔術師も、悪しき輩も比例して多い。

 悪用される前に、何としても、早く回収しなければならない。

 あれを作ってしまった魔術師の一人が、城島である。
「……長瀬。人間は死ぬと、腐るんやで?」

 太一は、ぎょっとして城島を睨み返した。
 どんな状況でなら、そんな台詞を吐けるのだ。噛み付こうとした太一だったが、城島はあくまでも冷静だ。

「最後に唄ったのは、いつや?」
「え? ええと……1ヶ月くらい、前だと思う」
「死んで1ヶ月もしたら当然、腐り始めるなぁ。ここのところ、暖かかったし」
「あ、そうか……もしかして」

 太一は、城島の言葉の意味に気付く。
 長瀬が唄ったのが本当に1ヶ月前で、その場にいた兵士100人を呪い殺したとしたら、今頃は、塔の内部はそれはもう酷い惨事になっていたはずだ。
 三人がこうして何事も無く踏み込めて行けるような、綺麗な状況にはならない。

 その辺を転がる遺体に、無造作にぺたりと手を触れてみた。冷たい。
 だが、遺体の冷たさとは、少し違うのだ。
 触れたことにより特に破損することも無く、変化するでも無い。呼吸も心音も無いが、死んでいるわけではない。
 そして、太一は、この状態を誰よりもよく知っていた。

「これ“時の眠り”だ」

 自身も使うことが出来る、高等魔術の一種。生物の時間を停止させる術だ。
 とは言え、それはそれで、太一には信じられない事態であった。
 あの高等魔術を、マナを読むこともできない素人が、発動させたというのだろうか。
 ありえない、と同時に、半ば敗北感に似た屈辱である。

「……冗談でしょ」
「どうやら、僕らが思てるよりずっと、厄介なもんらしいわ。呪歌ってのは」

 城島が、極限に細めた横目で長瀬を窺う。
 珍しく、厳しい表情をしていた。
 相手は、世界屈指の魔術師と、その弟子で構成される一個隊だ。
 いくらなんでも、分が悪すぎるではないか。
 今すぐ助けに行く、と長瀬がいきり立つのをやんわりと制して、

「負けんよ、太一は」

 と、城島が表情も変えずに言い放った言葉に、長瀬は首を傾げることしか出来なかった。

「どんな恐ろしい怪物も、とてつもなく強大な国も、どんなに歴戦の勇者でも、100%、必ず葬ることが出来るモノを知っとるか?」
「え……そんなのあるんスか!?」

 彼が使える魔術は、たった一種類だけなのだ。
 その一種類のために、他全てを捨てざるを得なかった、とも言える。
 しかし、そのたった一種類は、ある意味で最強であり、他のどんな魔術よりも高等であり、絶対の存在であった。

 城島が、笑いでなく、口の端を持ち上げた。

「時間、や」
 ――競り負けた。

 長瀬は心内で舌打ちする。
 テーブル席の一人の男が、徐に立ち上がり、こちらに近づいて来ていたからだ。
 まさか、魔術師がいるとは思わなかった。

 “妖精の踊り”は、呪歌の中では極めて広範囲まで届く、非常に使いやすい眠りの術である。
 半径50m程度ならば、一気に数十人単位で眠りに落とすことも出来るのだが、実は、呪歌自体の効力は然程強くないのだ。
 それなりの力量を持つ魔術師ならば、簡単に無効化などの対処が出来てしまう。

 とは言うものの、一般人か、一端の魔術師か、長瀬にそれを判断する術はない。
 彼は、マナを読み取る力が極端に弱いのだ。
 魔術師にとっては致命的な弱点である。
 だが、呪歌遣いである自分にとってはそれほど意味を成さない短所であると、ある意味で高を括っていた。
 そこに、マナがあるかどうかは関係ない。ただ形式に則って唄えば、術は発動する。
 つまりマナを見る訓練をサボっていた、自分の責任でもあるわけだが、今更悔いても仕方が無い。

 長瀬は、瞬時に、別の呪歌に切り替える。
 流れを断ち切ることなく旋律を反転させ変える技術、これだけは他のどの呪歌遣いにも負けないという自負がある。
 同じ魔術師ならば、容赦はしない。
 ならば、

 “火の歌”
 長瀬は、太一が魔術を使うところを、見たことがない。
 そこそこの知識とそこそこの経験を持っており、魔術に対してそこそこの対応策を取れるらしいことは分かるのだが、それだけだ。

 本当に魔術師なのだろうか、という疑問が沸く。
 魔術師は並の人間よりもマナを多く纏うため、同類にならすぐに判る。
 とは言うものの、そもそも長瀬にはこのマナを感じ取れないのだから、どうしようもない。

 もっと、分かり易い魔術師なら良かったのに。

 と、妙な文句を付けた長瀬である。
 せめて魔法の杖と、三角帽子、薄汚れたローブの三点セット、あとは妙な雰囲気くらい揃っていれば、きっかり魔術師だと判るはずだ。
 例えば、そう、目の前で怪しい薬の調合をする、城島のように。

「世の中の魔術師、みんなリーダーみたいだったらわかりやすいのになぁ……」
「い、いきなりそれ、どーゆう話?」
 半音も外してはならない。
 半律も遅れてはならない。

 長瀬は“古き言葉”の力を、唄という特殊な手段で具現させることができる魔術師であった。
 失われし古代の魔術の、難解な手法の一つ。
 魔曲、いや、あるいは呪歌とも呼ばれるだろうか。今やその使い手は、皆無と言って等しい。
 難解であり面倒である、というコスト面の理由が大きいのだが、さらに加えるとしたら、術者の先天的あるいは後天的な素質の問題だ。
 呪歌を正確になぞれるだけの、技量と声量が必要なのである。
 逆に言えば、それ以外は必要としない。

 それでも、発動の形態が“唄”であるという最大の長所にして短所が、術を極端に弱める。
 唄が聴こえる範囲までにしか、届かないのだ。
 音の振動は空気を伝わるので、ある程度の遠距離でも効果はあるとしても、ただ耳を塞がれてしまうだけで、術の波動は半分に落ち込む。

 酒場に最後にやって来た男が、腕の立つ魔術師だとは気づいていた。
 これは、賭けだった。
 長瀬の術が完成するまでに、男が呪歌に気づくかどうか。
 グラスの割れる音が響いた。
 次いで、怒号が飛び交った。
 どうやら、酔った客同士が数人、喧嘩を始めたようだ。

 酔った客が投げつけたグラスが、ちょうど城島の座るカウンターの真横で砕けた。

「申し訳ありません、お客様」
「いえ……」

 バーテンダーは一瞬戸惑ったようだったが、次の瞬間には慌てた様子を微塵も見せず、あくまでも落ち着いた仕草で、破片を集め、零された水を拭き取る。
 零れた水を拭き取る動作をした、と表現した方が正しいかもしれない。

 カウンターテーブルを伝う水紐が、床に一滴、落ちる。
 城島は、その何の変哲も無い光景を、生来の性から眼で追った。
 床を濡らした、たった一滴の水は、木目の床板に巨大な波紋を作り出す。
 常人には見えない、魔術の波動だ。

 水の魔術、か。

 つまみのクラッカーを一枚口に放る。

 背後で椅子が派手に倒れ、周囲がざわつき始めたのも束の間、何処からともなく押し寄せた無数の水砲が、酔客を弾き飛ばしてしまったのである。
 同時に、狙いすまして襲った大洪水は酔客数人を押し流し、他の客のテーブルを一滴も濡らすことなく、虫が掃けるように引いていた。
 店の中に魔術師がいる、と聡明な客の何人かは気づいただろう。

 城島は、空のグラスを傾けた隙間から、バーテンダーを盗み見る。
 斜め前で、何事も無かったかのように、黙々とグラスを拭いている。
 名乗り出る気はないようだった。
 ならばと、素知らぬふりを決め込んだ城島だったが、グラスを空のまま玩ぶのはさすがに妙だと思われたらしい。

「どうぞ」

 す、と突然差し出されたカクテルと、バーテンダーの顔を交互に眺める。
 薄いサファイアブルーのカクテルグラスだった。注文はしていない。

「お詫びのしるしに私から」

 そのすぐ横に、小さく折りたたんだ紙切れが無ければ、場末の酒場の常套文句。

「アンブロシアです」
 テーブルの上に置かれた三脚燭台の、一つの足に蝋燭が立っていた。
 ぼんやりと点るオレンジ色の炎が、時折微かに隙間風に揺れる。
 長瀬は険しい表情で、蝋燭の芯に目を凝らしている。

「どうだ、長瀬? 見えたか?」
「あのねえ……無理!」

 眉間のシワが戻らないままに、長瀬は太一を見返した。

「ちょっとこれ、本当にいるんスか? ホントに? 冗談とかじゃなくて?」
「思いっきりいるじゃん。ほら、そこ」
「だから、どこ?」

 マナを一切感じ取れない魔術師なんて、いるわけがない。
 と、太一含め他大勢がごく最近まで思っていた、そんな常識を打ち破った奇跡の魔術師がいる。
 今、彼の目の前で、火の精霊の姿無き姿を云々唸りながらも必死に感じ取ろうとしている男、
 長瀬は、ある種類の魔術師であった。
 だが、マナの類を全く感知できない。

 魔術を使役するために必要な魔力―――マナを見ることが出来ない、など。
 本来はありえないはずだ。

「……お前、本ッ当に、全然見えないの?」
「ろうそくの火なら見えますけど」
「……それでよくホイホイと動かせるもんだな、精霊群」

 太一が疑わしげな眼をしたせいだろうか。
 申し訳なさそうに肩を縮こませた長瀬は、居住まいを正すと、静かに鼻歌のようなリズムを取り出した。
 唄っているのだ。小さな声で、不思議な旋律をなぞる。
 臍を曲げたか、修行を放り投げたか。
 いや、違う。理由ならば分かっている。
 “それ”が、長瀬の術の形態だからだ。

「呪歌、とはねぇ」

 太一の眼は、蝋燭の芯に巻きついていた火蜥蜴が、顎を上げたのを見て取る。
 長瀬の眼は、それよりも少しだけ遅く、突如として倍に膨れ上がった蝋燭の炎を見て取った。

 歌を止めると、炎は、元の大きさに戻る。

「でもオレ、どの歌がどんな効果があるのか、っていうの。よく分かんないんスけど」
「お前それ超危険。唄っただけで殺される呪歌とかあったらどうすんだよ」
「そんな強力な呪歌はないッスよ。だからマイナーなんだもん」

 確かに、太一も呪歌遣いに出会うのは、長瀬が初めてだ。
 おかしい、と山口は思い始めている。
 強烈な眠気が襲ってきているのだ。
 しかし、それを妙だと思い始めるまでが、何故か長かった。時、既に遅しと言うやつだ。
 いつもなら四六時中、神経を張り詰める自身の職業柄、二度は無い失態ではないか。

 出されたものには、一切、手を付けていない。
 香か、あるいは魔術か?
 香か薬の類ならば視界が霞むだろうし、匂いで鼻が麻痺するはずだ。
 何より、そういった麻薬に対する耐性は、そこいらの一般人より強い自負すらある。

 魔術なら、マナが規則的に動く。魔術師である山口に気付けないわけがない。
 酒場に滞るマナは、ただ穏やかに流動するのみだ。
 まるで、風精の群れが店内を飛び回り、遊んでいるかのようなマナの気配。

 風精?

 得体の知れない誘眠の力に必死に抵抗しながら、山口は苦々しく笑う。
 竜嵐の谷にでも行かなければ、風の精霊が群れている姿など拝めやしない。
 ただの場末の酒場で、精霊を跳ね除ける荒れた人欲の街で。
 有り得ない。

 山口が平静を装いながら、隣テーブルの客を盗み見る。
 3、4人ほどの野盗かごろつきか、と言ったところか、男たちはテーブルに突っ伏していた。
 数分前まで喧々囂々としていた店内は、今や怖ろしいほどの静けさに包まれている。話し声は全く途絶えていた。
 酒場に流れる異国の唄だけが、子守唄のように降り積もっていく。
 異様な空間だ。
 唄が聴こえる。

 ……ちょっと待て、唄?

 山口は最後の力を振り絞って、店内奥に設けられたステージを見た。
 異国の歌い手が一人、整然と立つ姿を見た。

 ―――呪歌!

 山口は自らの無用心さを恥じた。
 そして恥じた瞬間に、意識を落としたのだ。
「普通、傘って……」

 雨避けだよな、と太一は思った。
 イメージで言うと、水属性である。
 そんな感想とはおかまいなしに、現在進行形で大通りには、どかどかもうもうと、蛇ののたくった様な火柱が立ち上っている。

「魔女っ娘……」
「いねーだろ、あんな魔女っ娘。いたら怖い」

 炎の魔術に必要な道具は、木製の杖、一般にはワンド、スタッフなどだ。
 極論から言うに、木製で杖状の物であれば、何でも良い。
 確かに、木の棒なら、どのような形状でも良いのでは、あるが。

「傘って……いや100歩譲って、傘は良いよ。良いとしようよ。だからってさあ……何であんなプリティな傘選ぶの!?」

 太一の悲鳴混じりのつっこみと大いなる疑問は、ただいま魔術絶賛使用中の、当の本人には聴こえていないことだろう。
 炎の魔術士、城島茂。
 媒介は柄が木製の蝙蝠傘である。
 その柄は蛍光赤色にペインティングされ、全体像は白地に赤い水玉模様、さらにてっぺんには謎のボンボリが2つ取り付けられているので、振る度にアメリカンクラッカーのような動きで(主に味方を)翻弄する。
 少なく見積もっても、城島のイメージとは相容れない。だが、強い。
 どこぞの魔法少女にも見かけない謎のデザインと、相反する凄まじい威力は、まさに人外魔境のものであった。

「どう考えても目立つでしょ、あれ! あんなの持ってたら変質者じゃん!」
「まー良いんじゃね? 元々、変質者に近いんだし……傘がプリティでカワイイことは、別に悪いことじゃないだろう?」

 さらりと最も厳しい発言をしておき、言葉とは裏腹な素晴らしい笑顔を向けた山口である。
 ちょっと背筋に冷たいものが走った気がした。多分、気のせいではない。
 おおらかに捉えれば、城島、全体的に楽しそうな気もする。多分、気のせいではない。

 似合う、とまではいかなくても。
 何度か見慣れれば、相容れるのかもしれない。
 かもしれない。かもしれない。

「あぁ見慣れれば……って見慣れるか、あんなのー!!」

 結局、絶叫してしまった太一は、今後のチームの活動方針と、その周囲に起こり得るだろう状況を交互に頭に浮かべて、少し疲れた。