祭神は、素盞鳴命である。祭礼は、1月1日元旦祭・1月15日左義長祭・4月15日春季例祭・6月14日祗園祭・7月2日半夏生祭・9月1日風祭・9月16日秋季例祭である。慶長6年創立(1601年)。明和9年(1772年)火災にあって焼失したが嘉永6年再建(1853年)した。昭和23年の震災で倒壊したが、昭和24年9月六万円で復旧した。本殿は、七尺四方、境内は約150坪ある。

 宝亀2年(771年)3月5日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の子、浄尊丸(きよたかまる)、一門の菩提のために出家し、殿下(現在の福井市殿下町)の里に一坊を開き、泰澄大師の末学となり、正源院と号した。すなわち浄尊の開基である。恵美押勝は天平宝字8年(764年)押勝の乱により琵琶湖上に斬られている。また、押勝の七男、辛加知(しかち)は、越前守をつとめていたがこの時斬られている。「殿下」とは、恵美押勝がかつてこの地に居たことがあると言われ、押勝殿下(おしかつごんか)と敬われていたことからついた地名であるという。浄勝という住持が吉崎の蓮如上人に帰依し、文明5年(1473年)に、それまでの天台宗から浄土真宗に改宗し、正源院を浄尊寺と改める。慶長3年(1594年)検地の際、殿下村の畑、三畝一四歩の浄尊寺持分が除地(免税)となった。(円明寺文書) 住職浄西のとき法主宣如上人(1658年遷化)「浄尊寺」と御染筆下さる。(浄尊寺最古の文書) 慶安2年(1649年)3月殿下村より和田村に移る。すでに和田村に掛所はあった。明暦3年(1657年)8月6日、木仏尊像(御本尊)下付。寛文8年(1668年)季夏20日、常如上人「親鸞聖人御影」に御裏御染筆。現存。延宝2年(1674年)7月上旬、常如上人「太子七高祖真影」に御裏御染筆願主安隆とある。現存。貞享2年(1685年)9月10日、一如上人「親鸞聖人縁起」一巻〜四巻に御裏御染筆願主安隆とある。現存。文政13年(1830年)4月に記された「御請書」には、当時の門徒111名の押印がある。また、この年の記録には寺地四六二・五歩、畑六○○歩、殿下村に旧寺屋敷一二六歩、墓所九五歩、河水村に持山二ヶ所あったことが記されている。皆到院釋安順、天保6年5月、14歳で住職となる。天保4年から不作が続き、7年には、大凶作となり天保8年(1837年)大飢饉となり疫病も出て死者続出する。福井藩内だけでも人口の2割の6万人が死亡したという。当時の過去帳では、本寺の門徒で、この年102名が死亡している。嘉永2年(1849年)7月29日、和田中村の大火により本堂焼失。嘉永3年9月、本堂再建。昭和23年(1948年)6月28日福井地震が起こり、門徒の大半が全壊、半壊等の被害を受けた。当寺も本堂、庫裡、鐘堂、土蔵、山門のことごとくが倒壊した。昭和24年末、本堂復興、落慶法要は、昭和25年3月26日厳修した。しかし、この本堂は、地震による倒壊用材の再利用等で各所に老朽化が目立つようになったため、昭和54年(1979年)5月、鉄筋コンクリート造り本堂新築の起工法要を執行、翌年7月20日竣工し、同年11月2日落成慶讃法要が厳修された。この時の門徒数は、186戸である。1990年1月、土地区画整理事業完了後の境内地は、2593.43uである。

 越前島津家の元祖、島津忠綱公は、薩摩忠久公の次男で、越前の守護代となり越前に移住し、河城に居を構えるも寛元甲辰(1244年)2月7日逝去、河北地内、専光寺に埋葬された。専光寺は、戦国時代、朝倉家滅亡と同時に織田信長によって破壊されたが、江戸後期、祖海が出て復興した。祖海は、当時越前三傑僧の一人として人望を集め、和田中村民も帰依する者多く、坊舎を建ててその教化を願い出た。その後、弟、祖順が後をつぎ、天明5年(1785年)6月22日、本願寺より本尊、阿弥陀如来木像を下附され、寺号(弘誓寺)公称認可される。本尊は、江戸初期の作といわれ、本願寺内佛の本尊を伝えられた。しかし残念ながら和田中は、何回もの火災にあい、宝物らしきものは現存していない。  現在、残されているものは、本尊阿弥陀如来像、寺号木像下附裏書ほか歴代宗主御影数体、本如上人御直筆画等である。  尚、昭和23年6月、福井震災にあい、本堂、庫裡、鐘楼共に倒壊したが、28年に復興し現在に至る。当初は、西宅地にあったが明治初期の全村火災で現在地に移る。