出作観音は御札所二十八番、慈母観音像は京都府与謝郡府中村成相山成相寺西国二十八番の御分霊で、餓死を救われる観音と信仰されている。
  • 観音像の縁起由来
     昭和20年7月19日の空襲に逃れ損った人達の何千という死屍が濠や川、防空壕、寺院神社の境内をうずめ、鳥も犬も猫も共々累々と焦げ死んでいった。この人達の霊を慰めとむらうため、誰いうともなく観音像を建立したらとの声が起こって、東別院前の空地に御堂を建てて、慈母観音を安置した。  昭和23年6月28日の大地震で又もや福井は阿鼻叫喚の地獄となって、観音堂は潰れたが不思議や観音像は何の損傷もなく無事で残った。この霊験に感じたので、市民の間には、昔あった三十三札所を慈母観音の御分身で復興しようとの声が起こった。たまたま出作町は、和田八幡宮の氏子であるが、同神社まで相当の距離で、参拝にも不便を感じ、出作町内に和田八幡宮の御分身を奉祀したいとの町民の熱望があった。
     ここに、出作町に二十八番出作観音として、林駒吉願主として内田清吉外出作町民の努力で堂宇を建立、昭和24年6月24日林願主町内一同をはじめ前田岳洋等多数参列の上、末野乗国寺住職が導師となって雅楽稚児行列等荘厳な入仏法要を営んだ。その後は毎月18日と28日の礼祭、四万八千日の旧7月9日、6月28日の大祭には終日香煙堂宇に充ちて、御詠歌と鈴の音が流れ参詣者は絶えず法悦にひたっている。また、信者は観音講を結び、霊場めぐり、史跡めぐりなどをしている。当観音堂は、昭和49年11月、出作会館の新築に伴い勝見3丁目1001番地の同敷地内に別棟として移転建立し、今日に至っている。

 祭神は、菅原道真公である。祭礼は、毎年4月18日と9月25日である。天正2年(1574年)7月12創立、昭和3年改築本堂二間四方、拝殿間口四間、奥行三間であった。福井震災により倒壊した後、昭和25年9月25日再建、当時の金額で工費二十五万円であった。境内は321坪、境内には神明社があって天照皇太神を祀っている。この神明社は、慶長5年の大風雨で社殿が大破し、一部修理されたが、福井震災で倒壊したため、昭和26年1月に再建された。別名、観音堂とも称している。

 浄土真宗本願寺派で御本尊は阿弥陀如来である。文明4年(1472年)大野郡北袋伊知村にあって住職善敬は蓮如上人に帰依して真宗となり元禄12年(1699年)現在の上北野に移転した。本堂は、震災前までは間口六間、奥行五間であったが震災により倒壊した。その後再建され現在に至っている。境内内約147坪である。

 下北野天満神社の起源は、天正年間というから1570年頃であろう。祭神は菅原道真・文殊菩薩である。神域は、昔と変わらず185坪が天満社の名義で登録されている。昔は、杉や欅の大木・梅の古木がある鬱蒼とした森の中に神殿・拝殿があり、毎年4月25日と10月3日に五穀豊穣と氏子の安泰を祈願してきた。また、境内の東方に6坪ほどの沼地があり、一隅からいつもこんこんと清水が湧き出ていて、村人の喉を潤していた「との池」があった。一説に、この池は下北野の発祥の地ともいわれている。また、「雨ごいの池」とも言われ、旱魃のとき神に祈り池を掃除すると、たちまち黒雲がわき起こり雨を降らせたと伝えられている。この池も時代の変遷に逆らえず埋め立てられ、いわれをきざんだ碑を有志が建立し後世に伝えている。神殿・拝殿は、福井震災で鳥居・こま犬・灯篭・玉がきなどと共に大被害を受けた。翌年仮神殿・仮拝殿を建て、昭和37年には、本建築による神殿・拝殿が建立された。同時に鳥居・こま犬・灯篭・玉がきも復元された。そのころ、台風の被害を受けた森の樹木は伐採され、いわれのある池も埋められた。昭和38年には、神域全体を遊具のある児童公園にし、同41年には境内に下北野集会所が建てられた。

 浄土真宗大谷派の寺院で、御本尊は阿弥陀如来であり、元天台宗だった頃からの仏像である。  開祖は、聚徳庵玄恵で、近江国竹生島の人と伝えられている。1328年、尊雲法親王の随弟として、京都の西山に住庵し、建武2年7月天台宗の寺を創建したと記されている。  文明4年11月、法覚坊秀恵が蓮如上人に帰依し、浄土真宗に転宗し開基となった。文明6年、北ノ荘外、中島の区(現在の日の出4丁目・鬼子母神周辺)に御堂を建立した。その後、延寳5年、一向一揆の争乱の際難を逃れるため、ここに聚徳山法覚寺を建立した。以後、天和3年7月「越前東尋坊と百ヶ寺騒動」の際、第十一世瑞華院知周が大谷派を離脱し、本願寺派に転派したが、同年12月下旬に復帰し、「順寳寺」と改名した。
 又、藤原氏の出身であったため「北藤」を姓としたと伝えられている。現在北藤覚照は第十六代を世襲している。震災で、本堂、庫裡、鐘楼堂全部倒壊したが、昭和34年11月、現在の本堂が再建された。同39年に庫裏、51年に鐘楼堂が新築された。尚、寺宝として、北條高時の御袖薬と伝えられている「医書調書寳記」があり、寺の什物として過去帳3冊が保存されている。境内約300坪。