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東安居公民館 |
金屋 油屋敷は三百年くらい前の話で、舟つき場があったから廻船問屋か何かではないかと思われる、かなり豪商で油屋助左ヱ門という者が住んでいた。その娘がみごもったことが知れ、松平忠直(一伯さん)の命により役人に連れて行かれ殺されそうになったので、いっそ家族で死のうと油を家にまいて火をつけ一家心中したと伝えられている。その屋敷跡に油屋助左ヱ門の守本尊である石地蔵というものが現存している。 |
油屋敷跡 |
金屋河戸の跡 |
お茶屋屋敷は松平の殿さまがこのあたりにお茶を飲みに来られた所という説と、もっと前の話で弘祥寺の繁栄した頃の参拝者の休み場所だったという説と二つある。 |
お河戸(おこうど)<舟つき場>は他の村では河戸というが、金屋ではお河戸という。松平のとのさまが魚釣りに来られた所で一般住民はここでは魚釣りは禁止されていた。最近まで大きい石板が何枚にも敷いてあったが河川改修で今はその面影はない。 |
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古い墓石 現在の山崩れの下に位置し宮下家の屋敷跡に昔からあったのが土を取った時に出てきた墓で、奥の三昧(墓地)へ持っていってあるがその墓をみると弘治○年と天正三年と記されている。 |
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甘露水は弘祥寺境内に現存していて、井戸の形が瓜を半分に割ったような形だから瓜破清水ともいわれている。水がおいしいので死にそうになって口がわるくなると、甘い水といって息子達に汲んでもらい末期の水を飲んだということで、今でも汲みに来る人がいるそうである。 |
足羽郡誌抜粋 安居城址 |
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俗に御殿地、下市より金屋に行く途中、道傍に泉あり。この直上約一町の所に平らなる林地あり。これ即ち斯波高常疊を築きし足羽七城の一なる安居城址にして、その後、朝倉孫三郎景健城を築き、慶長の頃戸田武蔵守勝成の居城せしことあり。五十間に三十間ばかりの所なり。土人は御殿地という。明治初頃には礎石残存し城址の面影稍稍存せしという。思うにこの地たるや足羽・日野の合流点にして、背後は山脈相連り、前に漆ヶ淵あり。山上に登る道、溜池に下る二筋の間道及び近道・遠道・曲り道などありて敵を防ぐ要害の地なりしなり。 |
御茶屋跡 |
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元弘祥寺の西にあり、藩祖秀康郷の御茶屋のありし跡にして五十間ばかり四方の所あり(越前国城迹考)今は畑地となれり。 |
局墓 |
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元弘祥寺址の左手の石階を登れば石門あり、奥行三間巾四間の石柵を廻らし、石畳の中央は即ち局墓俗にうばの墓という。 |
大渡・小渡 |
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河川改修前は大渡・小渡の二区存在せいが、今はこの区なし。今その由来を記さんに、古来大渡は蒲生道にして、越前国絵図記に「馬船 川幅三十九間、水一寸一尺、岸一丈、大渡村渡守居」とあり、その後幅二間長さ四十六間の橋を架す。小渡は菅野道にして、同絵図記に「馬船 川幅三十四間、水八尺五寸、岸九尺五寸、川の両岸渡守居」長さ三十間幅一丈の橋を架す。下市の錠者仁左衛門は寄附によりて、この橋を架せんとせし竣工後に至るも寄附金は集まらず。已むなく渡橋料を取りて通行せしめたり。古来住民は、渡船又は川船を業とす。両橋は大正三年廃橋となり、現在の二光橋は十二月二十四日渡橋式を挙げたり。 |
太閤屋敷 |
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安居に太閤屋敷という所あり。これは柴田を攻めしとき、東郷より河を越え、平岡に陣取り、それより安居へ廻り一宿し給うといえり。この時陣取たまいし所を云にやといえり(越路草) |
弘祥寺跡 |
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昔、大冶山弘祥護国禅寺という臨済宗の巨刹あり。金屋の山麓前に川を控え、眺望絶佳なる小高き所即ち是なり。今は田地となるも前に石佛と古き柿木あり。明治年間には寺下に四軒残れりといえど、今はなし。現存の不動堂は信徒の建てたるものなりという。 |
角折の由来 |
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継体天皇の第二のつのり姫が住んでおられたことにより、この名が起ったと伝えられる。 |
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