東安居地区の 史跡・名所2
東安居公民館 各資料集より転記しています。
弘祥寺跡地
弘祥寺跡地
鎌倉時代に亀山法王の勅願によって建立された弘祥護国禅寺は、明治時代まで約七百余年の時を刻みその歴史を閉じます。現在、その跡地には同寺ゆかりの古い墓石だけがひっそりとたたずんでいます。
前面に日野川をひかえた眺望絶佳の金屋地籍の小高い山麓に弘祥寺跡地がある。現在、寺地はほとんど田地となっているが、近くに弘祥寺ろ関係の深い石仏や局墓(つぼねのはか・俗にうばの墓と云う)、甘露水などが往時をしのばせています。
甘露水
静寂な自然の中で墓石の傍らに今も途切れることなく湧き出る水は、古くから病気平癒や安産の水として、地元や近隣の住民に親しまれ愛飲されています。
東安居地区ではまちづくり活動の一環として、甘露水の整備や谷川、遊歩道などの整備を進めています。またこの甘露水は「ふくいのおいしい水」として平成18年に福井県の認定を受けています。
安居城跡
安居城跡
安居城は、南北朝時代の足羽七城の一つで、朝倉時代後半には朝倉氏の一族、朝倉孫三郎影健が居城していました。前方に日野・足羽川の合流地を臨み、後方に国見嶽をひかえた天然の要塞であると同時に、交通の要衡の地でもありました。
千六百年頃廃城となって以来、明治初年にはまだ礎石が残存していたというものの、現在はわずかに残る平坦地と「切り落し」などが当時の面影を残すのみとなっています。
菅谷 大瀬・飯塚・明里 金屋
安居城
南北朝時代の足羽七城の一つ、安居城は、朝倉時代後半には朝倉氏の一族、朝倉孫三郎景健が居城しました。天正元年(1573)朝倉氏滅亡後、景健は姓を安居と改めて、そのままここに居城しましたが、翌年二月、越前国内に一向一揆が蜂起すると、安居景健は一向一揆に服従してしまいました。しかし翌年八月、織田信長が一揆平定のために越前に入国すると、景健は一揆の首を四ツ五ツ持参して信長に赦免を乞いましたが、ゆるされず誅伐されて滅亡してしまいました。その後、慶長初年戸田武蔵守勝成の居城する所となりました。勝成は丹羽長秀、長重に仕えましたが、天正十三年(1585)長秀の死後、丹羽氏に内紛が起こると、丹羽家を去って豊臣秀吉に仕え、安居城に居城しました。初め一万石でありましたが、慶長五年(1599)頃は加増されて二万石となりました。慶長五年の関ヶ原合戦に西軍に属し関ヶ原で討死して戸田氏は断絶したらしく、安居城もこの時、廃城となりました。
藩政時代の刑罰のうち磔、獄門、火罪は赤坂や八重巻、六方河原で行ない、斬罪や死罪はこの御仕置場で行われました。これらの刑に処せられると田地、家屋など財産一切は没収されました。現在の湊保育園の附近で、犯法分屍塚がありました。福井藩医が罪人の屍体を解剖し、その菩堤を弔う塚です。そしてここに阿弥陀如来の石像が安置してあります。
河川の変遷物語る          福井市渡町              佐藤 秀樹 1995年12月30日の新聞記事より
私の勤務先では、月に約一度の割合で金曜日の勤務時間が十時半から午後七時までと不規則になる。こういう日は、たいてい
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