史跡・名所  大瀬・飯塚・明里
東安居公民館
足羽郡誌抜粋 飯塚 真宗 観音堂
飯塚観音
道場なり。越前郡県細志に「近年霊験の観音出て、国中貴賤郡集す」とあり。有名なる開帳仏にして飯塚の神社と並び建つ。昔時行基の開墓、近世神仏混淆時代に神社と並べ建て、福井神社の支配なりしが、維新後神仏分離して木田の長慶寺の持分となる。十七年毎に中開帳。三十三年毎に本開帳あり。縁起に曰く、
大勘定
幕末の頃大西弥三治家へ福井藩の郡奉行様七日間逗留し、郡里の庄屋を集め、水帳につきて大勘定をせしことあり、時に大勢の人数出入せしてめ、前の小屋にて煮売をせし程なりと古老の談なり。
大瀬 御殿屋敷跡
下市橋の東の袂より稍 東にかたよれる川堤のある所は、元福井藩主別業の地なり。文久三年の建築、本館三階・附属建物・塀・門あり、番人は藩士松山氏を始め中山・岸田・原田等之に当り、掃除番として荒子(あらしこ)組角折の中川弥三平等三人扶持を受く。
寄品大明神の由諸
下市の山腹に鎮座の寄品大明神は、元大瀬の大杉の下にあり。昔村人、福井の下肥を車に積みてこの祠前を通行すること?々なり。大明神之を忌み、ござ舟にて下市に移らせ給う。下市に市左衛門という者あり。夢の告にて之を知り、驚きて下市山腹に堂を立てて大明神の鎮座となせり。今の錠者仁左衛門の祖先は大明神の錠守なりしという。 御殿屋敷跡
二光橋附近
足羽郡誌抜粋 下市 漆ヶ淵
下市より金屋に至る県道の出はりたる所の川は、日野・足羽両川の合流点にして、水淀みて淵をなすこと三〜四丈、岸に大なる岩あり、この上にて殿様、藩士等と魚釣りをなしせしという。
寺の跡
寄品大明神への上り口の麓には、昔泉水とおぼしき跡や石地蔵など残れるあり。太閣寺・光蓮寺などいう寺あり。また溜池の上流に屋敷跡とおぼしく石垣など残るあり。ここに「せんぷく寺」ありしという。
古墳
下市神社の境内に、古墳と思しき円き土山あり、土人曽て一部を堀りたるに灰の如きもの出て、その人遂に病に罹りて死す。その後掘るものなしという。

明里御蔵の門
東安居公民館
明里 明里御蔵
境の森 白山神社
これは福井藩の納米倉庫で、慶安二年(1649)に建設した。面積約三千坪で倉庫の数は三四棟、番号がつけられていた。九番、一七番、二八番が中でも大きく、間口三間に奥行一五間、六番、一九番は三間に五間、その他は三間に一○間の大きさであった。藩の御倉奉行がこれを管理し、蔵番一二人、口番頭二人交代勤務だ。領内の農民は毎年十月から十二月にかけてここへ年貢米を納めた。納米数は約六万俵といわれ、近きは陸路駄馬や荷車で、遠くは足羽川、日野川、九頭竜川およびその支川を利用して舟で運んだ。
御仕置場跡
藩政時代の刑罰のうち磔、獄門、火罪は赤坂や八重巻、六方河原で行ない、斬罪や死罪はこの御仕置場で行った。これらの刑に処せられると田地、家屋など財産一切は没収された。現在の湊保育園の附近で、犯法分屍塚があった。福井藩医が罪人の屍体を解剖し、その菩堤を弔う塚である。そしてここに阿弥陀如来の石像が安置してある。

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