郷の探歩会

ふるさと自慢 郷のカルタ
 

       亜鉛(あえん)(すみ)で 昭和(しょうわ)灯り(あか  )をつけし (とう)豊町(ぶちょう)                                        

 炭鉱の歴史は古く、明治初年より採炭が行われた。大正末期の一時採炭休止を経て、昭和15年田中氏が採掘権を取得し、昭和24年立岩氏との共同経営によって、本格的な採掘が始まり、昭和36年まで採炭されていた。      

 炭質/褐炭質の亜炭 発熱量は4,800カロリー 埋蔵量80万トン
 出炭/1ケ月550トン出炭 トラック2台で搬出
 規模/坑口 2ケ所 坑道 700〜800メートル 坑内照明具カンテラ人員等/地元民など    100人前後  5〜60戸の飯場  共同浴場 
 採炭中には、落盤事故もあったが、昭和20年7月19日の福井空襲の時は、防空壕として他町内からの避難者もあった。

                                                       

       岩座(いわくら)は 藩主(はんしゅ)腰かけたり(こし      ) 正八幡(しょうはちまん) 

 岩座とは 神の鎮座する所の呼び名であり、正八幡とは八幡町の八幡神社をさす。天正3年織田信長の兵火で消失後、福井藩祖秀康公が再興の聴聞の折、腰掛け、又、13代藩主松平治好公が参拝されたとき、椅子代わりに腰掛けたという岩(大石)がある。その岩が「腰掛の岩」と今でも呼ばれている。                                     

祭神  誉 田 別 尊(応神天皇) − 神社の基本の神

祭礼  本尊のお開扉の祭礼は、33年毎に5日間にわたり執り行われ、近年は、平成3年に執り行われた。(平成20年には、17年毎の半開扉が執り行われた)

由緒  大安寺仙区より移転を経て4ケ村(八幡、燈豊、荒谷、大年)の神社を合祀し、明治9年に郷社、その後村社となった。

 

                                           

       (うま)止め(ど )の 不動明王(ふどうみょうおう)(まつ)る 西荒井町(にしあらいちょう)                                    

 西荒井町の北端(通称滝の谷入り口)にある自然石に、1尺5寸(≒45cm)ほどの不動明王が彫られており、この不動明王の片方の手首がないように見える。なお、この付近には次のような伝説が残っている。むかし、侍が家来を従えてこの地に差し掛かったとき、突然、馬が動かなくなり、この侍は、大層怒って家来の手首を切り落としたという。それ以来、この場所を「馬止め」と言っている。

                                           

                                               

       絵馬(えま)奉納(ほうのう) (ゆめ)(らく)洞作(どうさく) 数多(かずおお)                                    

 「夢楽洞」は江戸時代中期から明治、大正にかけて福井の町で主に絵馬を製作した工房である。1700年代後半に活躍した初代の絵師から4、5代に渡り万司の号を引き継ぎ、絵馬を描き続けた。この夢楽洞万司の作品が本郷地区の神社にも多数奉納されて残って

いる。絵馬は、地域の有力者によって多くが奉納されたが、寛文期(1661年)頃からは、庶民の手によっても、京都寺社参り、伊勢参宮、出稼ぎ等から無事に帰郷できたことに対して、「村社会」へのお礼の意味が大きかったといわれている。

 

                                                 

       大滝(おおたき)冬季(とうき)分校(ぶんこう)校舎(こうしゃ)残る(のこ ) 中平町(なかだいらちょう)                                    

大 滝                                           

 中平町から奥平町の林道沿いに位置し、稲作期間中はやや水量が少なくなるが、落差20メートル、幅7メートル位あり、見ごたえがある滝である。また、滝の横には、養蚕が盛んな頃(昭和38年頃)に、蚕の餌である桑を天然冷蔵庫として活用したほら穴が今も残っている。                                           

分 校                                           

 中平冬季分校の開校は、資料としては保存されていない。ただ、木米、奥平、東平分校が明治35年頃に開校しているので、中平分校もその頃でないかと想定される。当時の中平分校は、冬季のみで1年生から4年生までが在籍し、中平町と清水平町の子供が通学、多い時には20名以上の児童で、賑わっていた。昭和の終わりになると子供も減少し、休校、開校を繰り返し、平成9年に廃校となった。しかし、建物は昔、稚蚕飼育所として町内が建てた施設なので今もそのまま残し、子供たちの作品も一部掲示されたまま今も残っている。

 

                                                 

       上郷(かみごう)の 学校(がっこう)跡地(あとち) (うま)走る(はし )                                      

 平成17年3月 上郷小学校が統合により閉校し、133年の歴史を閉じた跡地に「ほんごう馬の里」と称する乗馬クラブが平成  年に開設され、休日には親子の乗馬体験の姿も見られる。敷地内には閉校記念碑が建立され、馬柵の囲りの桜並木が、学校の面影を残している。

                                                 

                                                

       郷土(きょうど)偉人(いじん) 栗原(くりはら)(はく)(れい)(おう)生誕地(せいたんち) 奥平(おくだいら)(ちょう)                                     

 明治5年8月越前国足羽県坂井郡本郷谷奥平村で、栗原家の3男として生まれた。地元の小学生時代から、大人と議論して堂々と張り合うなど、勉学に励んだ少年で、卒業後は、神戸、東京で修業、修学に努め、明治30年24歳の青年が、出版会社である「実業之日本社」を創立した。42歳の大正4年、生地での父母の墓碑除幕式に、福井藩主松平家の子孫ら3,000余名の参拝者を迎え挙行し、その盛大さは大きく報道された。大正8年、子供の頃の国見岳での祈願や信心深かった両親の影響もあったのか、実業之日本社を退職、京都の宗教団体「大本」へ入信、各地での講演等活躍したが64歳で没した。生誕地跡地の石碑、墓碑は、町内の住民によって守られている。

 

                                                 

       くぐり松 西郷(せいごう)林道(りんどう)に ()張り(は )                                    

 西郷林道の足谷町、奥平町間の道路脇に奇妙な形の松がある。幹周り約2.7メートルで、地面から3本の根が2メートル以上も出ていて、そこから1本の幹になっている。根の部分は、西安居地区への人馬の行き交いで、土が削られて大人も通れるくらいの形になり、くぐり松となったものと思われる。

 

                                                 

       (げん)(しん)の 墓標(ぼひょう)残る(のこ ) 大谷町(おおたにちょう)

                        

 江戸時代初期に建てられたものらしい自然石で作られた墓標があり、墓標には「華蔵閣玄真上人廟 康正元年(1455年)九月二二日」とある。朝倉時代末期の天文9年(1540年)から大谷町にあった成福寺は、その後元亀年間(1572年)に藤瀬に移転、承応4年(1655年)に波寄町の現在地に再度移転したと言われている。東本願寺所蔵の通記によると、成福寺の記録はないが、玄真上人が京都から越前に来て「大谷」の地名を懐かしく思い、寄宿して布教活動をしたと伝えられている。

 

                                                 

       孝行(こうこう)を 墓石(はかいし)残す(のこ  ) 猫瀬町(ねこせ ちょう)                                    

 墓石は、道路から10m位登った畑だったと想定される場所に建てられており、その昔、京のある寺の再興をめぐり、苦悩する親を助けるため身命を捧げた息子の孝行の逸話を聞いた古老が、名人の石工に彫刻させた墓石であると言い伝えられている。建立は、「おい繁る山間」「人馬のみ通行の狭い坂道」「遠い道のり」の場所であり、小数の集落民で大きな?谷石の墓石を、よくぞ人力のみにて運び込まれたものと、その苦労や経費が偲ばれる。

 

                                                       

       (ささ)()きや  (いま)(のこ)りし  (さと)(あじ)                                    

 竹には、殺菌効果があることから、皮や葉が古代の人から食物の保存包装によく使われていた。その中でも、笹の葉を使った笹巻き(ちまき)は、春の節句から梅雨期頃のお目出たい時等に作られ、親戚や隣近所に配られていた。1個作るのに笹の新葉5〜7枚を使い、もち粉、米粉、塩、砂糖等を混ぜてこねたダンゴ50〜70gを垂れ形に丸めて包んで出来上がり、家によって、笹の枚数、米、もち粉の割合等が違って、当然味も工夫されたものです。近年は、山も荒れ笹の葉が採取しにくいこともあり、作る人も少なくなったが、数名の方が伝承の一品を残そうとして頑張っている。

 

                                                 

       七堂(しちどう)伽藍(がらん) 遺跡(いせき)(りゅう)興寺(こうじ) 八幡町(やわたちょう)                                      

 龍興寺は永享初年(1430年頃)安居代官藤原清長により創建され、天正2年(1574年)一向一揆の放火のため廃寺となるまで、約130〜40年間繁栄した曹洞宗の寺で、最盛期には七堂伽藍を誇った名刹と言われていた。元文期(1736年)頃に書かれた「越藩拾遺録」や今庄町宅良の慈眼寺保存の古文書によると、この寺の開祖は希明であり、天真禅師の直弟子であった。また、福井市玉井町の心月寺は、龍興寺の末寺であると書かれている。朝倉始末記によると、永禄4年(1561年)4月6日、朝倉義景は1万余人の軍勢を連れて三里浜で犬追物を見物したとき、龍興寺で一泊したと書かれている。

現在、寺跡に残っている石塔の読むことのできる銘文には

五輪塔には「永正一七年(1520年)六月五日  永仲宗長」

石像仏の背銘には 「天文八年(1539年)巳亥八月○旨求敬白」と彫りこまれている。

                                                 

                                                 

       スコップ三味線(しゃみせん) おらが本郷(ほんごう) (まち)おこし                                     

 スコップ三味線七瀬すこっぱーずは、平成19年4月青森県五所川原市より放映された家元奏者館岡屏風山の演奏をきっかけに、団塊の世代を中心に設立されたパーフォーマンス集団である。スコップを三味線に、栓抜きを撥に見立てての演奏で地域の宣伝隊として県内一円のイベントを始め、施設訪問を主に公演活動も平成26年1月には約350回を超え、本郷地区のすこっぷ三味線として知れ渡っている。また、地域の目抜き通りに手作りの高さ6メートルのモニュメント建立や、スコップ本来の用途を活用して独居老人宅の雪かき等、地区の広報と福祉活動にも活躍している

 

 

       (せい)(かい)(あん) 勝家(かついえ)戒名(かいみょう)刻まれ(きざ   )し 荒谷(あらたに)(ちょう)                                  

 荒谷町に「誓海谷」という字名があり、そこには寺跡があり「誓海庵」の跡地と考えられ、付近に柴田勝家の供養塔がある。供養塔には「永春寺二二代文政三辰(1820年)建立」と記されている。 永春寺は、一乗谷朝倉家の3代当主貞景の2男頼景が北の庄に建立した寺で、上野町の永源寺の記録によると「北の庄の永春寺第五世道芸禅師が退隠後、本郷荒谷の誓海庵に閑居しており、………」と記されている。また、誓海谷入り口にあった北野家には、「柴田勝家公御寄付之御山江余人立入候事堅無用之事」と記した古文書があると言われていた。

 

 

       そびえ()つ 上郷(かみごう)下郷(しもごう)(あわ)せし 本郷幼(ほんごうよう)小学校(しょうがっこう)                                    

 明治5年 荒井小学校として開設され、以後木米小学校、河内小学校を合併したり、東平・奥平分教場、中平・木米冬季分教場の設置等を経た上郷小学校。明治6年 荒谷小学校として開設され、以後川口小学校を合併した下郷小学校。両校とも、200名近くの児童が在籍した時もあったが、児童数の減少や施設の老朽化から、平成17年3月閉校した。同年4月園児5名、児童45名及び校長以下14名の教職員で統合された本郷幼・小学校が開校した。新設の学校は、事業費約13億1,300万円を投じ、大年町の高台が整備され、校地面積13,729uに、時楼型の塔屋を備えた3階立ての校舎、体育館、プールが建ち並んでいる。また7,000u余のグランドでは、ソフトボールチームの元気な声が響いている。

 

 

       高城(たかじょう)と (した)われし城山(しろやま) 大年(おおとし)(ちょう)                                 

 松平文庫の「城跡考」では、大歳高城について「細川越中守 本郷大年村ヨリ六町計南方山上ニ二十間計四方堀切形有之自福井三里計」と記されている。細川越中守は、朝倉氏の武将の細川出羽守義償と言われ、延元4年(1339年)から興国元年(1340年)にかけて、足利高経の本拠であった黒丸城の援護拠点として、大歳城にこもり、三国湊城の脇屋義助と高須城の畑時能の進出を牽制したものである。また、なかなかの智将で、水源地を押さえられたとき「いかにも飲料水が豊富にあるかのように見せかけるため、馬に米を振りかけ水に見せた」という伝説も残っている。

 

 

       ()区民(くみん)と 地域(ちいき)をつなぐ 本郷(ほんごう)公民館(こうみんかん)                                  

 当地区は、西郷トンネルの開通等道路も整備されて、また団地造成による人口減少に歯止めもかかり、福祉施設、農林業体験施設などが出来て、いまや福井市のリゾート地としても脚光を浴びている。この様な中にあって、公民館の役割である住みよい地域づくりの為の学びの機会を設定し、各機関・団体との連携により、地域との輪と和を広げている。

昭和33年 1月 川西町公民館本郷支館として本郷農協に併設

昭和42年 5月 福井市との合併により福井市本郷公民館となる

昭和44年 4月 本郷住民センターが竣工し、農協、市連絡所、森林組合が併設される

昭和59年 4月 独立公民館として現在地に移転新築する

 

                                                       

       (つた)えよう  伝承(でんしょう)料理(りょうり)  ()(まご)                                    

 当地区での伝統料理として、地元の作物や山菜等を使い、先人の知恵と工夫から、「煮しめ」「なます」「豆汁」「おから」「すこ」等がその家、その町内でつくられていた。これらの料理は、昭和40年代までは町内に集会場もなく、各集落で主に浄土真宗の寺院(お手継ぎ)毎に仲間(門信徒)の家を持巡りで会場として、信者が集まり、お勤めやお説教を毎月(ほとんどが28日)開いた、いわゆる「お講様」で参加者(お参り者)にふるまい、会食後の残りは、参加者各自が持ち帰り、お説教の内容や、料理の味等を話題にしながら家族揃って食していた。

 

 

       ()をかけて 特産(とくさん)イチジク ジャムづくり                                   

 当地区の特産イチジクは、平成12年福井市園芸センターの指導を受け、栽培を開始した。栽培当初は、8月下旬から果物としての販売のみであったが、平成15年完熟イチジクを皮のまま、まるごと使い、果実100%の風味を活かした素材重視の、手作りのジャムやケーキを生み出し、年間を通じて福井市のスーパー等で販売され、果物としてのイチジクとともに安全安心な地産地消品として好評である。

 

                                                 

       トンネルや 繋ぐ(つな )市街(しがいち) 柿谷(かきだに)(ちょう)                                      

 当地区と福井市市街地を近距離で繋ぐことは、地域住民の悲願であった。予定路線地である地区住民等が、関係機関への要望を重ね、県道「福井・本郷線」が完成(平成14年10月開通式)し、福井市中心市街地への時間・距離短縮が実現した。トンネルの開通は、地域住民に開放感や環境自慢が生じ、住宅団地の造成や道路整備等を促進させて、人や車の交流が活発となり、地域の活性化に多大な影響を与えている。

昭和52年  柿谷隋道期成同盟会発足

平成 6年  国の「交流ふれあいトンネル橋梁整備事業」の指定

平成 6年11月   工事着工                      

平成 8年      県道昇格

平成10年12月   627メートルの「西郷トンネル」完成

 

           

       (なな)(たに)を 合わせて(あ  )(なが)るる 清き(きよ )(なな)瀬川(せがわ)                                                                 

国見岳の麓、奥平町の突孔の水を源流とし、足谷川、中平川、京谷川、坂谷川、荒谷川、燈豊川、大谷川が合流し七瀬川となる。昭和初期頃までは、一王寺からは木材、大年や八幡からは生活物資が、福井や三国方面への運搬経路として活用されていた。なお、同川には、うなぎ、スッポン、ウグイや30センチ余の鯉が生息し、増水時には水田まで魚が溯上して子供から大人までがつかみ取りに挑戦したり、また竹薮の茂る淵では、カッパに化かされた逸話がある等、自然の多い川として親しまれていた。最近は、水害や護岸工事などによって昔の面影は少ないが、美林の繁る山林から滴る水は清く、アユの泳ぐ姿が見られる等、本郷の田畑を潤し、優秀な本郷米を生み出している恵みの川である。

 

                                                 

       日本(にほん)固有(こゆう)(しゅ)の (いま)(のこ)れし (やま)(さと)

                  

 七瀬の里に住む生きものは減ってはいるが、地域の人々に守られ、まだいろいろの種類が生息している。川にはあゆ、ウグイ、ふな、イワナ、モクズガニ、どじょう、めだか、たにし、かわにな、ヒメガムシ、マツモムシ、真しじみ、やご等田にはヒル、アカガエル、アオガエル、ヒキガエル、トノサマガエル(緑)、アメンボ、イチョウウキゴケ(環境省の絶滅危惧種)等山辺にはモリアオガエル、トノサマガエル(茶)、沢ガニ、トンボ(秋アカネ)、シオカラトンボ、オニヤンマ、糸トンボ、ホタル、せみ(にいにいぜみ、あぶらぜみ、ひぐらし)等

山野草はささゆり、かたくり、しょうじょうばかま、シャガ、藤、がくあじさいうの花、はぎ、くず、野菊、ひがん花等                                                                              

       ぬくもりと しさ(やさ   )育む(はぐく  ) 本郷(ほんごう)保育園(ほいくえん)

 

 本郷保育園は昭和30年5月4日近隣地区に先がけ、本郷村立として60名の定員で開園し、村外からの園児も受け入れた。その後、市町村合併により、川西村立、町立、昭和42年5月福井市立という歴史をたどる。同園では、ドングリ拾い等自然を活かした園外活動の重視、文化祭での太鼓演奏等地区行事活動への参加等を積極的に取り入れている。

 

 

       寝る(ね )(まえ)に ()用心(ようじん)で (むら)まもる                                      

 拍子木をカンカンと打ち鳴らし、「火の用心…マッチ一本火事のもと…」 夕方になると必ず子供たちが手分けして村を回った。最近は、時代の流れとともに子供も減り、社会情勢の変化で村社会の仕組みも変わってきてしまった。しかし、そのような中でも昔、大火事があったことが教訓になり、大人が今でもその伝統を守っている町内(河内町)がある。

 

 

       のどかなる 山里(やまざと)残る(のこ  ) 平ら(たい  )(まち)                                      

 当地区には、町名に「平」と呼ばれる地名が数多くある。「清水平町」「中平町」「奥平町」「東平町」の4町で、何れの町内も驚くほどの高地ではなく、緑深い山里ではあるが、日本海側を東北へ逃げた平家の歴史や、20戸程度で集落が構成され、田畑も整備されていること等から、平家の落人が住んでいたとの伝説が残されている。                                                 

                                                 

       白山(はくざん)を 望め(ぼう  )団地(だんち) ネオポリス(ねおぽりす)                                      

 当地区では、都市部の高度成長に伴い高齢化、過疎化が進んでいた。この状態打破を考慮し、地域住民が知恵を出し合い、燈豊町地籍の高台を開発して、平成11年5月住宅団地造成を着工した。平成13年の工事完成後は、高台を整備したことから北東には、日本三名山の白山を望めることや、福井市中心部までの交通の便利さ、市街地近辺より安価で購入できること等から、若者に人気があり、平成26年1月現在、70戸の地区最大の町内となり、元気な子供の声が響いている。

 

                                                

       ()祭り(まつ )の おだき祭り(まつ )や 河内町(こうちちょう)                                      

 河内町では昔から、秋の祭礼の夕「おだき祭り」という火の神事があり、、村の小高い山の広場に、「わら」や「豆がら」等農産物の燃やす物を持ち寄り、五穀豊穣のお礼を示す行事として残している。

 

                                                 

       ふる(さと)の (かつら)観音(かんのん)清水(しょうず) 清水(しみず)平町(だいらちょう)                                     

 寛永元年(1624年)当時福井ー鮎川街道として栄えた頃、福井藩主松平公御通行の折、当所でご休憩されたこの時、桂の根元より湧き出る水を召し上がられ、その美味に満足され、誠に名水であると仰せられ、「桂清水」と命名されたといわれている。

 

                                               

       (へび)伝説(でんせつ)の 明神堂(みょうじんどう)祀る(まつ ) 中町(なかまち)                                                                   

 中町と大年町の境で、旧道路脇にお堂がある。ここには、白蛇が祀ってあり、ご神体は10センチメートル位の小さなもので、これを明神堂という。この下から湧き出る水は、眼病によく効くと言われ、近隣の人から崇められている。

 

                                          

       (ほう)雲寺(うんじ) 道場(どうじょう)(あと)あり 東平町(ひがしだいらちょう)

                                                 

 法雲寺は、福井市大味町に現存する真宗大谷派に属する寺である。同寺には、皇室関係、戦国武将の文書等多数の貴重な宝物があると言われ、越前高田派本山熊坂専修寺とあるように、300年前までは真宗高田派の本山であった。1,686年現在地の大味町に移り現在に至っており、いつの時代にこの寺の道場があったかは判明しないが、東平町は、全戸が法雲寺の檀家である。

 

                                                 

       真綿(まわた)の 御書(ごしょ)賜る(たまわ  )る ()米町(よねちょう)

                                                 

 江戸時代、東本願寺創設の僧正教如上人が、越前など全国18ケ所に御坊(別院)を建立し、東本願寺教団の基礎を固めた。その折、信心深い木米町(柿谷町を含む)の人々は、真綿を10杷(束)献上したところ、僧正直筆の花押ある礼状を賜り、お宝として大切に保存している。また、信心深さは報恩講の仏事が町内全員参加で、脈々と続いている。

 

 

       見晴(みは)らせし 七つの(くに)や 国見(くにみ)(だけ)

                                                 

 国見と言われる地名は、むかし国を見渡せる土地に付けられた地名で、山頂には、一等三角点があり、越中、能登、加賀、越前、若狭、丹波、丹後の七つの国が見渡せると言われている。国見岳は、標高656メートルで、東京スカイツリーより22メートル高く、京の都へ烽火で知らせる拠点でもあった。また、昭和初期には農耕馬の放し飼いの場所であったが、その後の整備により、春は新緑、夏は夜の日本海の漁火、市街地の夜景、手に届くような星空、雨上がりの水墨画のような雲海、秋は紅葉と針葉樹の景色など、海や街を眺望する360度のパノラマは、自然の美しさを愛する人々の人気となっている。

                                                 

                                                 

       村娘(むらむすめ) お(さん)(かた)や 殿(との)生む(う )

 

荒谷村の岡喜左衛門の娘 「於三」が、福井藩第四代藩主松平光通の側室として、大奥に勤め、光通公の子を宿した。そして明暦2年(1656年)3月、御泉水邸(現在の養浩館)で、権蔵を出生した。国事叢記(こくじそうき)によると、荒谷村の岡家に奇寓していた権蔵が、18歳になったとき、延宝元年(1673年)ひそかに江戸に出奔した。そして4代将軍家綱にお目見えし、第4代藩主光通の実子として認知され、名を直賢と改めている。江戸に出た権蔵は、永年苦労をさせた母親於三を晩年江戸屋敷へ呼び寄せた。於三は、貞享5年(1688年)、権蔵は、元禄10年(1697年)に没し、岡家の屋敷跡付近には、「岡三昧」(岡家専用の火葬場)の跡もあった。

 

                                                 

       名声(めいせい)の  職人(しょくにん)()()  そばこねる

                                                 

 当地区では、昔から重要な穀物として、各町内でそばが栽培されていた。そばは、各自が石臼で製粉し、打つ、茹でる等を行い、年末の「年越しそば」として食べる家庭が多く見受けられた最近は、栽培穀物でなく、趣味でこのような風習を伝えるべく、毎年子供を中心に、大人も交えて、技術の伝承向上を図っている。

 

                                                 

       森木(もりき)(たに)  ゴルフ(じょう)へと  さくら(みち)

 

明治45年1月15日に制定されて、平成17年3月に閉校した「下郷小学校」の校歌冒頭で、郷は森木の山続き…… と歌われていたとおり、この地域は、森木谷と呼ばれる荒谷町の字名である。平成5年6月5日オープンした「フォレスト福井ゴルフ場」への道路両側に植栽された桜約100本が、満開時には市道西部1−406号線(平成19年3月27日に市道となる)を覆い、トンネルを形成して、ゴルファや「七瀬の郷」利用者等から絶賛されている。

 

                                              

       山間(やまあい)の  (けむり)たなびく  炭焼き(すみや  )小屋(ごや)                                  

 昭和30年代までは、地区の産業として、薪、炭が生産されており、各集落の山間には炭焼き小屋があった。炭焼き小屋は、傾斜地の土を掘り、直径5〜6メートル高さ130センチメートル位の土釜を設け、その上部は雨、雪を防ぐため「かや」や「杉皮」を用いた三角屋根で構成されていた。炭の材料としては、「なら」「くぬぎ」等の立木を1メートル位に切断し、土釜に立てて並べ、その上部には小木を置いて、いわゆる蒸し焼き状態として生産した。現在は、茶道や炭火焼の炭として活用される他、生産過程で発生する酢酸が自然の防虫・防臭剤である「木酢」としての利用があり、地区では少ないが今も生産されている。

 

                                                 

       ()浴びて(あ  ) 生き生き(い い )施設(しせつ) 七瀬(ななせ)(さと)

 

 温泉付きの福祉施設として、平成21年緑豊かな山間に、敷地面積約5,000uの「七瀬の郷」がオープンした。同施設には、地下1,500メートルから自噴する「燈豊温泉」があり、泉質はナトリュウム、カルシウム、リュウサン塩で、神経痛、筋肉痛、五十肩、冷え性に効能が優れていると言われ、県内外からの入所者に、大変喜ばれている

 

                                           

       養蚕(ようさん)の 唯一(ゆいいつ)飼育地(しいくち) 足谷町(あしたにちょう)

 

 当地区では、昭和30年代ごろまで「蚕」を飼育する農家が多くみられ、子供も「桑の葉」の採集、運搬や給餌等の手伝いをしていた。化学繊維の普及とともに、重労働である養蚕業従事者は年々減少してきたが、本物の生糸も見直され、当地区の杉本氏が家族一体となり紬生産に貴重である蚕「玉小石」を飼育し、福井県唯一の養蚕家として日本の伝統を守っている。

 

                                                

       来世(らいせ)に (つた)(のこ)すや (たくみ)(わざ)

                                                 

 当地区は、昔から藁や竹などを使った手工芸が盛んで、多くの名手を育んできた。農産品を入れる「てご」、足を保護する「ぞうり」、 雨よけの「みの」などの藁製品や、台所で使う「かご」、刃物を入れる「ナタ鞘」などの竹製品には、高い匠の技が生かされ、日常生活に潤いをもたらしてきた。最近は、ホームセンター等で化学製品を購入することが多いが、これら古来の品物は、最終処分方法も安易でかつ無害ということから、少しでも引継ぎたい品々である。

 

                                                 

       量多(りょうおお)し 美味(おい)しい名水(めいすい) あまた()  

                                                 

 当地区は標高数百メートルの山地が、地区全体の3分の1を占めている。その為、地区のあちこちで湧き水が見られる。以前はこれ等の水を飲料水として、家庭で使用していた。 主な名水としては

 

(1)突孔の水(奥平町)

   集落から二枚田幹線林道を5分程登った所にある。

   鉄分、マンガン等ミネラル分を多く含んでいて飲料水となっている。                                           

                                                
(2)足谷名水(足谷町)

集落の入口にある。市道脇の崖から、豊富に湧き出て、地区随一の名水である。                                             

                                                 

       瑠璃(るり)(いろ)の 追分(おいわけ)(いけ)や (やま)(うつ)

                                                 

 西郷林道の延長線、大芝山の頂上付近で、何時の頃かは不明であるが山の窪地を改良し、小川一本の入水もなく降雨を溜めた、周囲は約1.5キロ程の農業用堰き止め池が造られた。水清く満々と湛えられ、四季折々に周囲の雑木、灌木等が、水面に春は新緑、秋は紅葉等その色を写す。また、時折池の面に遊ぶ緋鯉や小さな魚群が見られる。

 

                                                 

       歴史(れきし)あり 顕彰(けんしょう)()残る(のこ ) 中河内町(なかこうちちょう)

                                                 

 明治10年頃、ささいな事から町内の和が乱れ、争いごとがあったと伝えられている。この争いごとの解決に功績のあった、剣大谷町の時澤氏を讃えるとともに、再びこのような争いはするなよとの思いから、町内の惣代、戸長や他13名の氏名が彫られた地附塚が、24段の石段とともに建立されており、当時の多額経費も推定される。

 

                                                 

       六地蔵(ろくじぞう) 地区(ちく)歴史(れきし)知る(し ) (いち)王寺町(おうじちょう)  

                                                 

 大市皇子の住める地に、建立されたと伝えられた古寺。天台、真言宗を経て一向一揆の折、七坊を有した寺も焼失する。六地蔵の年代は不詳であるが、古くは鎌倉初期以前の天台の寺に安置された、地獄、餓鬼、修羅、畜生、人間、天上の六道を誠悟りを伝える石仏である。寺焼失後、残る二坊も地域の宗旨も変わり消滅、寺院跡地の小堂に安置され現在に至る。 また附近の五輪塔は近くの丘の墓地に、人間大のものを含め多数の石墓あるも、昭和23年の大地震により倒壊、整地埋立の折運べるもののみ現地に疎開した。石墓は永正(1506年)―天正(1574年)年代のものが多く、この時代は朝倉時代であり、八幡町の龍興寺も天正2年一向一揆の放火により廃寺となっている。

 

                                                 

       わが故郷(ふるさと)の 谷間(たにま)(ひび)く (うぐいす)(こえ)

                                                 

 鶯は、地区に数多くある「周囲より標高の低い個所が細長く伸びた谷間」で巣作りして生息し、「春告げ鳥」と呼ばれるように、早春から地区内どの町内からも囀りが聞かれる。ただ、囀りはよく聞くことがあるが、その姿をみることは稀である。鶯の羽色は、暗緑茶色で、早春に鮮やかな黄緑色した小鳥が、椿の花等に見られるのは、メジロで鶯と間違えられる。                                                 

                                                

       本郷(ほんごう)「を」 みんなで(まも)る 笑い顔(わら がお)

                                                 

 当地区は、地質学的に見ると、1600万年前頃、国見層、荒谷層等の山ができ、その後洪水の繰り返しで、平野ができたといわれている。その後、永い歴史変遷を辿っているが、最近の高齢化、少子化時代にあって将来を担っている児童を育てるため、地区民との合同体育会を開催、地区全戸がPTA会員(正会員と準会員)等で学校行事に参加している。また、防犯隊本郷支隊、消防団本郷分団、交通安全協会本郷分会、青少年育成市民会議本郷分会等各関係団体が、自然豊かなふる里と、のびのびと笑顔の絶えない住民の安全・安心を守るため、日夜努力している。

 

鎌倉時代 山本郷19ヶ村(大安寺地区8ヶ村が里本郷と呼ばれていた)

明治22年4月 18ヶ村が合同し、本郷村

昭和30年3月 川西村に合併

昭和32年7月 川西町に町名変更

昭和42年5月 福井市に編入

                              

                                                 

ん   ほ「ん」ごうは おうれ「ん」ぜ「ん」まい野菜(やさい)宝庫(ほうこ)

                                                 

 当地区は、福井市の西部地区に位置して、山林に囲まれた農業中心の里山集落地である。春になると、鶯が鳴き里山の恵である「たけのこ」「わらび」「ぜんまい」「みずぶき」「たらの芽」「わさび」「ふきのとう」等の自然の恵みであふれ、食膳を潤している。また、「おうれん」「げんのしょうこ」「どくだみ」「よもぎ」等、薬草類も数多く自生しており、畑では「じゃがいも」「大根」「たまねぎ」「白菜」「キャベツ」等々、季節ごとに沢山の種類の野菜が採れる。                                             

                                                 

      「郷のカルタ」解説書                                                                                          

 私達の住んでいる本郷地区は、丹生山地の最北端部分にあたり、ほぼ南北にクサビ状の形をしており、その概算面積は、30平方キロメートルといわれている。福井市中心部からは約15キロメートルで、車なら30分位の自然環境にめぐまれた地域である。今回、地域見直しの一助になればと会員一同が、地域の歴史や特色を活かした「カルタ」を作成しました。

 今後ともこの「カルタ」が地域の人々の記憶に残る一品となることを願っています。

 なお、解説書作成にあたっては、「ふるさと本郷 歴史の散歩道」(中川正行氏)の著書を参考とさせて頂き、また写真についても賛同者から提供いただきましたことにお礼申し上げます。

 郷の探歩会


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