KenYaoの天文資料館


1999/5/17作製

コペルニクス


○生涯(1473-1543年)
  • 職 業:天文学者、司教区行政官
  • 出生地:ポーランドの商都トルニ
  • 活動地:ポーランド
○おもな著書

  • 「教訓・田園・恋の書簡集」翻訳1509年出版:7世紀ビザンツの学者の書簡例文集の翻訳
  • 「コメンタリオルス」1510年頃:自らの地動説理論の草稿を天文学者たちに書き送ったものの写本
  • 「貨幣鋳造の方法」1528年出版:司教地区の参事会員としての職責に時間を割いていた
  • 「天球回転論」1543年出版:地動説理論構築から約30年後ニュルンベルクで出版された


コペルニクスが生きた時代

彼が生まれる30年前に発明された印刷術は、まさに情報革命でした。それまで1冊ごとに手で書き写されていた本は、数が少なく、高価で、しばしは転記ミスもおきていたようです。

北ホーランドのトルニで生まれた彼は、司教の伯父ワッツルローデの援助を受け多くの本を買い、ポーランド最高の学校(クラクフ大学)へいくことができました。さらに当時ルネッサンスの中心地であったイタリアへ2回、計6年間留学し、教会法の学位を得て帰国している。ボローニャ大学留学時代に、天文学教授ドメニコ・マリア・デ・ノヴェラの助手として観測をしています。(ノヴェラ教授はプトレマイオスの天動説を不正確で疑問視していた。)

彼の天文の知識は、熱心な天体観測よりは多くの本から得たものです。印刷された本を使って研究した、最初の学者といえます。彼が熱心に研究したのは、プトレマイオスの天球論「アルマゲスト」で、コペルニクスが太陽中心論を考えはじめたのも、このプトレマイオスのモデルの不具合を訂正するためだったと考えられている。

当時フィレンツェで研究されていた新プラトン主義の太陽崇拝の影響、古代ギリシア:ピタゴラス派の地動説【→古代ギリシアの宇宙論】への関心はルネッサンス時代の知的風土であったことも考慮すべきでしょう。

「天球回転論」の出版

コペルニクスの地動説理論は1510年頃書いたと推測される草稿「コメンタリオルス」に現れる。クラフク地域の天文学者たちに書き送ったこの論文が話題になり、さらに書き写されて広がり、天文学者のあいだで知られるようになりました。

「地球が動き、太陽は静止している」との見解は、カトリックの総本山ローマにも届いていた。1533年教皇クレメンス7世の秘書官ヴィドマンシュタットの書籍中のメモが示している。1535年ヴィドマンシュタットはシェーンベルクの秘書官に転じ、1536年シェーンベルク枢機卿からコペルニクス宛てに、「宇宙の新理論」の著述と天文表を送るよう好意的な書簡が寄せられている。この時点では、地動説に対する教皇側からの圧力といったものはなかったことに注目すべきです。

ところで、コペルニクスの新しい天体暦は完成していたが、彼はこの枢機卿からの求めに応じた様子はない。彼が公表をためらった理由は、彼自身カトリックの参事会員であることから「宗教界からの非難への恐れ」であったと思われる。

1539年転機が訪れた。ヴィッテンブルクの若い天文学者レティクス(1514−1574)の2年間にわたる熱心なすすめで、1541年ようやく出版にむけての改訂作業がはじまった。1542年5月頃、レティクスは清書原稿を持ってニュルンベルクの印刷所に赴き、印刷が開始され校正を含む印刷責任者として従事する。ところが、レティクスはライプツィヒ大学への転職のため、10月からは知人の神学者オジアンダー(1498−1552)に後を託すことになった。

オジアンダーは、コペルニクスの著書冒頭に無署名序文(この仮説は天文計算のためのもので哲学信仰ではないとういことわり)を勝手に挿入したのであった。かくして「天球回転論」は1543年3月頃?ニュルンベルクより出版された。

病床にいた著者のもとに本が届けられたのは1543年5月24日で、同日コペルニクスはフロンボルグで亡くなったと伝えられている。


時代の風

コペルニクスの太陽中心説は現代の科学の基礎を作った偉業であるが、背景には彼の宗教哲学が存在している。彼の地動説がローマ教皇に伝わったとき、抑圧された形跡はない。

村上陽一郎(国際キリスト教大学)氏は、「コペルニクスの地動説は神学的哲学のなかに埋め込まれた理論といった立場を取らないと、その時代の風は見えてこない。この時代はいまだ、宗教や哲学から分離した科学者としての立場は存在していない。」という。


履歴

  • 1491年:クラクフ大学入学、数学・天文学に興味
  • 1495年:司教の伯父の推薦で、司教参事会の会員になる
  • 1497年:教会法勉強のためイタリアのボローニャ大学に留学
  • 1501年:一時帰国し、医学勉強を名目に再度イタリアへ戻る
  • 1503年:教会法博士の学位を得て帰国、リズバルクで伯父の秘書官として仕える
  • 1510年:フロンボルクに移り、参事会員として行政官の仕事に携わる
  • 1521年:ワーミア地区の筆頭行政官として隣国(チュートン騎士団)との戦争で指揮をとる
  • 1523年:ワーミア地区の総執務官となる(1525年終戦)
  • 1531年:ワーミア地区のパン価格規制スケジュールを立案
  • 1543年:死去(70才)



▼参考文献
  1. トーマス・クーン著「コペルニクス革命」1989(常石敬一訳)、講談社学術文庫
  2. ティモシー・フェリス著「銀河の時代」1992(野本陽代訳)、工作舎
  3. コペルニクス(高橋憲一訳・解説)「コペルニクス・天球回転論」1993、みすず書房
  4. 村上陽一郎著「新しい科学史の見方」NHK人間大学1997、NHK出版協会


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