1999/5/17作製 コペルニクス
○生涯(1473-1543年)北ホーランドのトルニで生まれた彼は、司教の伯父ワッツルローデの援助を受け多くの本を買い、ポーランド最高の学校(クラクフ大学)へいくことができました。さらに当時ルネッサンスの中心地であったイタリアへ2回、計6年間留学し、教会法の学位を得て帰国している。ボローニャ大学留学時代に、天文学教授ドメニコ・マリア・デ・ノヴェラの助手として観測をしています。(ノヴェラ教授はプトレマイオスの天動説を不正確で疑問視していた。) 彼の天文の知識は、熱心な天体観測よりは多くの本から得たものです。印刷された本を使って研究した、最初の学者といえます。彼が熱心に研究したのは、プトレマイオスの天球論「アルマゲスト」で、コペルニクスが太陽中心論を考えはじめたのも、このプトレマイオスのモデルの不具合を訂正するためだったと考えられている。 当時フィレンツェで研究されていた新プラトン主義の太陽崇拝の影響、古代ギリシア:ピタゴラス派の地動説【→古代ギリシアの宇宙論】への関心はルネッサンス時代の知的風土であったことも考慮すべきでしょう。 「地球が動き、太陽は静止している」との見解は、カトリックの総本山ローマにも届いていた。1533年教皇クレメンス7世の秘書官ヴィドマンシュタットの書籍中のメモが示している。1535年ヴィドマンシュタットはシェーンベルクの秘書官に転じ、1536年シェーンベルク枢機卿からコペルニクス宛てに、「宇宙の新理論」の著述と天文表を送るよう好意的な書簡が寄せられている。この時点では、地動説に対する教皇側からの圧力といったものはなかったことに注目すべきです。 ところで、コペルニクスの新しい天体暦は完成していたが、彼はこの枢機卿からの求めに応じた様子はない。彼が公表をためらった理由は、彼自身カトリックの参事会員であることから「宗教界からの非難への恐れ」であったと思われる。 1539年転機が訪れた。ヴィッテンブルクの若い天文学者レティクス(1514−1574)の2年間にわたる熱心なすすめで、1541年ようやく出版にむけての改訂作業がはじまった。1542年5月頃、レティクスは清書原稿を持ってニュルンベルクの印刷所に赴き、印刷が開始され校正を含む印刷責任者として従事する。ところが、レティクスはライプツィヒ大学への転職のため、10月からは知人の神学者オジアンダー(1498−1552)に後を託すことになった。 オジアンダーは、コペルニクスの著書冒頭に無署名序文(この仮説は天文計算のためのもので哲学信仰ではないとういことわり)を勝手に挿入したのであった。かくして「天球回転論」は1543年3月頃?ニュルンベルクより出版された。 病床にいた著者のもとに本が届けられたのは1543年5月24日で、同日コペルニクスはフロンボルグで亡くなったと伝えられている。 村上陽一郎(国際キリスト教大学)氏は、「コペルニクスの地動説は神学的哲学のなかに埋め込まれた理論といった立場を取らないと、その時代の風は見えてこない。この時代はいまだ、宗教や哲学から分離した科学者としての立場は存在していない。」という。 |