市ノ瀬町
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市ノ瀬町 - 畑時能と高須山(城山)
高須山に登ったことがありますか?。
標高438メートルのこの山は「城山」(じょうやま)とも呼ばれているように、650年ほど前の南北朝時代に南朝方の畑時能という武将がここに城を築き、北朝軍と戦ったところです。
畑時能は南朝方の武将新田義貞に仕えた武将で、相撲の達人として知られ、数々の戦いで功績をあげていたといわれています。主君の義貞が藤島の戦いで戦死したあとも畑時能は高須城にたてこもり、27騎と300人余りの兵で数騎の北朝相手にゲリラ戦を展開して戦ったといわれれています。
高須城付近の攻防戦で高須山のふもとの市ノ瀬も戦いにまきこまれたといわれ、現在でも、志木城(しきじょう)・矢矧(やはぎ)城(矢ケ城)・落矢(おちや)・木落山(きおちやま)・河内(こうち)(濃血か)・善十歩(陣中布か)・城之前などのいくさに関係あると思われる地名が残っこています。
300名をこえる時能の軍勢が一年半も戦ったので兵糧(ひょうろう)も欠乏したと思われますが、近在の人々が米や塩を届けたともいわれています。
しかし畑時能は多くの兵を失い敗色濃い状況になると高須城から脱出し、16人の兵と伊知地(いじち)(現在は勝山市)へ逃れました。そして1341年、鷲ケ岳(伊知地山)で斯波高経(しばたかつね)軍と激戦のすえ戦死しました。
平成7年10月には高須町・市ノ瀬町の人びとと畑時能の末裔(まつえい)(子孫)の人びとが高須町に集まり、慰霊祭と「畑時能公越前高須サミット」が催され、当時をしのびつつ意見交換が行われました。