石畠町
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石畠町 - 「棗」のいわれと棗左京亮館跡
わたしたちのふるさと、棗、この呼び名はどのような由来をもっているのでしょうか。
現在から640年ほど前の延文2年(1357)の記録に棗の名がでているので、それ以前から棗の地名はあったということになります。このころの棗は 越前守斬波高津経(しばたかつね)の支配地でしたが、やがて斬波氏が没落すると、朝倉氏が棗一帯を支配しました。当時の棗区は現在よりも広く、現在の鷹巣地区の糸崎あたりまで棗であったといわれていますが、朝倉氏は棗などを拠点として戦国大名として力をたくわえたと考えられています。このように棗地区と朝倉氏は古来からのつながりをもっています。
棗山(柳原町から市ノ瀬町に入るととろの東側の小高い丘、夏目山とも書く)のふもとに左京亮が崇敬(すうけい)していたといわれる守り神ー薬師の堂が後世の人によって再建されています。また、石畠町地区とその付近に「棗」「夏目」の姓を名乗る家が数軒残っていることのほかに、当時に思いをはせる遺物などはほとんど残っこていません。そのほか石畠町地区には、棗左京亮屋敷跡と伝えられているところがあります。