石新保町
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石新保町 - 大道和尚と月輪真成氏
大道和尚のことを知ってますか?
「三里浜に防砂林を作った人だな」とか、「鷹巣への道を整備して大道橋をかけた人だな」、「棗公民館に銅像が建てられているな」などと思い出すことでしょう。
大道和尚は、江戸時代の終わりの頃(1768年)、敦賀の唯願寺の三男として生まれました。京都の東本願寺で学問を修めたのち、「水雲子」(すいうんし)と名のって各地を巡って仏の教えを説き、困っている人々を救うために、道を作ったり、産業(紙すきなど)を興したりして歩きました。中でも偉大な業積としては、三里浜の大植林を計画したことと、福井から鮎川に通じる約30キロの道を整備したことがあげられます。
昔、三里浜は一面の砂丘地帯でした。夏は熱砂のために雨がふらず冬は潮風が砂を飛ばして畑を埋めて作物は育たず、付近の人々はふるさとを捨てて、加賀(石川県)へ移住したといわれています。大道和尚は、このありさまを見て、三里(12キロ)にわたる砂浜に大植林を計画し、村人を励まして、初めは乾燥に強い合歓木(ねむのき)を植え、少しずつ小さい松を植えるという巧みな方法で、砂漠を緑の松林にかえていきました。現在、豊かな耕地として、砂丘地のラッキョウ、スイカ、大根など全国に誇る産地になっているのは、大道和尚の人々を助けようとする精神から生まれたものです。
また、大道の橋は橋屋川(高須川)がはんらんするたびに鷹巣・鮎川の人々は路を断たれ、馬のしっぽにつかまって泳ぎながら渡るという難儀をしていました。橋が架かったことは、当時としては実に大きな恩沢だったことでしょう。大道和尚は1840年、三国町新保で73才で亡くなりました。
大道和尚の業績を広く紹介した人が月輪真成氏です。
真成氏は、願念寺の19世の住職で、慶応3年(1867)に生まれました。氏は、歴史に深い関心を持ち、自宅付近の遺跡分布調査を行い、石斧や土器などを採取し、学会に発表しています。大道和尚の業績の数々を昭和8年に発表しました。それから植林事業に尽力されました。
先人たちのこうした努力によって、今のふるさとがあることを忘れないでほしいものです。
棗公民館前に建てられている。現在の棗は大道和尚の眼にどのように映るだろうか。