福井市棗公民館

わがまち棗

川尻町


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川尻町 - 蓮如とゆかりの深い性光坊

 現在の川尻の寺は、「性光坊」と呼ばれています。性光坊は、越前の守護大名朝倉教景(のりかげ)の子といわれ、京都で得度(とくど)して川尻で小さな庵を結び、性光坊と名乗り、布教活動をしていました。
 文明3年(1471)、本願寺蓮如が越前に布教のため下向(げこう)し、吉崎(金津町)に本拠を構えた時には、性光坊は蓮如の所へ足を運んでは、仏教の教えを聞き、性光坊あての御文(おふみ)を何通も受けています。
 性光坊は、後に朝倉考景(たかかげ)(敏景)の二男を養子に迎え(二代目空了)蓮如の妹君の子を妻に迎えて以後八代目まで、川尻の地で布教に専念したと伝えられています。
 永禄4年(1561)、朝倉義景が、棗郷の両橋屋付近の浜で、「犬追物」を催しました。参加した武士は一千余騎といわれますが、川尻の性光坊は犬追物の奉行の朝倉景連(かげつら)の本陣となり、周辺の武士は民家に宿営をし、その時の出立(いでたち)のきらびやかさは目をみはるものがあり、一万人を超える見物人で賑わったそうです。「犬追物」とは、騎馬で犬を追いかけ、射おとす武芸のことです。鎌倉時代には盛んに行われ、義景時代の「犬追物」の奉行をつとめた人が、前述の朝倉玄番助景連です。
 演習が終わってから、盛大な酒盛りをして、その時使った盃(素焼きで「かわらき」という)を砂浜に埋めたと伝えられ、今でも両橋屋町には、土器塚・土器谷という地名が残っています。

そう太くん

 

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