両橋屋町
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両橋屋町 - なぜ両橋屋なの?
明治10年(1877)両橋屋という地名が正式に決まるまで、この地には,「大橋屋村」と「小橋屋村」の2つの村がありました。
朝倉義景が織田信長に滅ぼされた天正元年(1573)に、義影方の残党であった小橋屋村の人たちは、信長の追及をさけて、夜暗に乗じて小船三艘で、日本海へ出て北へ逃げました。その一艘は越後(新潟県西蒲原郡巻町越前浜)に流れ着きました。
その後この村はしだいに繁栄し、現在は二百数十戸の大集落となりました。この村では慶長三年、豊臣秀吉が行った「小橋屋村太閤検地長」を今でも大切に保管しています。
またここの住民は、自分たちの先祖が越前朝倉氏の残党であるこを大きな誇りとしています。現在では、棗の両橋屋の人と、越後の小橋屋の人がたがいに訪問し合い交流を深めています。
明治の初めごろまで、小橋屋村の地籍が残っていましたが、大橋屋とまぎらわしとのことで、明治8年、当時の郡役所に合併の願いを出し、2年後に許可が出て、両橋屋という地名に改めたそうです。