円山東村のあらまし

 私たちの住む円山地区は、明治22年(1889)に市町村制が実施されて以来、福井県吉田郡円山東村と定められた。東方9kmに標高547mの霊峰吉野ケ嶽(一名蔵王山)が美しい稜線を見せている。峰から落ちくる吉野の流れは荒川となり、当村を潤して大河足羽川に合流する。荒川は、10kmに満たない流れだが、豊饒の村を育ててくれた母なる川である。

地理的概要



昭和20年円山小学校下図

 円山東村は、吉田郡の平坦部を占めていて、東南は荒川をもって同保村と境をなし、東北は東藤島村に接し、北は円山西村に違なっている。西隣は直くに福井市清川町及び日之出町に隣接している。南は荒川を隔てて足羽郡和国村と相対している。この位置関係は、昭和16年4月に福井市に編入合併するまで変わらなかった。ただ、16年の編入合併時まで同じ村のうちであった下四ツ居と山ノ前・志比口・米松の村落が日之出地区に移った。
 円山東村は越前平野の東部を占めていて、土地の高低が殆んどなく、一面の水田地帯である。円山西村との境をなす丸山の西南部の平岡山が小丘を見せているのみである。吉野水系の荒川と九頭竜川によつて、地味は肥決である。その荒川の治水・改修の工事は円山東村の課題として代々住民が背負ってきた。

 主な道路は、県道勝山(街)道が村内の北境を走り、丸山を除いて東西に通っている。郡道の志比道は福井市東部から本村の北部を横断して下中・重立へ通じている。村道の今泉道は福井市志比口から平岡山の麓を通り今泉へ達している。一方、村道の四ツ居道は志比日と志比道を運結していた。この2つの村道は明治36年の改修によつて円山東村の動脈としての役割を呆たしてきた。
荒川は円山東村東部と南部を潤している。度重なる洪水の被害もさることながら貴重な舟運の便を提供してきた。福井市中央部と直結している好条件を活用して舟運による大量輸送に貢献してきた。また、生活にも密着し、村民の憩いの場としての役害」も大きかった。

行政沿革
 


円山東村は、足羽郡に属していた下四ツ居・米松・北四ツ居・四ツ居渡と、吉田郡に属していた河増・東今泉・北今泉と、吉田郡ではあるが東藤島に属していた下中によって形成された。その間行政の異動は多少行われてきたが、村の西部は4個の優れた井戸に支えられていたので、4大字はみな「井」の字を付けていた。いつの間にか「井」は「居」に変わっていた。その理由は不詳である。明治維新後、敦賀県と呼ばれていた頃は第10区に入っていたが、その後の戸長時代には下四ツ居・米松・四ツ居渡・北四ツ居は和国村と連合し、河増・東今泉・北今泉は岡保村と連合していた時代もあった。また下中は東藤島村の上中と連合していたようである。明治22年5月に市町村制が実施された際に行政区域が確定した。以来今日まで120年間円山東村は住民生活向上と同胞の道を歩んできたのである。昭和16年4月に福井市へ編入合併し、その後国道8号線。さくら通りの開通によって、地区は市街化が進み躍進の一途を歩んでいる。

教育・学校


円山小学校

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村役場は、当初は北四ツ居に開設したが、明治22年6月に平岡山麓へ移設することになった。明治37年(1904)2月に正式に役場庁舎と認められ、円山東村制が本格的に始動した。学制頒布の際、北今泉に今泉小学を設けた。つづいて、明治9年に下四ツ居に四ツ居小学校を開設した。これは単級であり校舎は不完全であったが、明治22年下四ツ居から米松に移転し、以後米松小学校と改称した。
 その後、地方自治と教育意欲が次第に高まり、今泉小学ならびに米松小学校の2校ともに2学級編成となった。それに伴って校舎も増改築を重ねていった。明治41年(1908)義務教育年限延長策により、就学児童が増え、教育内容・教育設備ともに充実発展することとなった。
4月に両校を合併して北四ツ居(現在地)に円山尋常小学校が開設された。校舎が新築され、当時250人の児童が通学した。
 円山東村は、今泉小学校と米松小学校からの長い人づくりの歴史の結果、社会教育の意欲が根付いていたようで、村の教育集会は早くから組織的に活動していた。円山東村教育会は、学齢児童保護団と青年団がその中核であった。村農会はこれを後援し、在郷軍人会はこれに協力を惜しまなかった。
 教育を立村の第一義と位置づけてきたが、円山尋常小学校の施設設備の活用は最大限に行われると共に、今泉小学の母胎である西誓寺の存在は極めて重要であった。

社寺

 
西誓寺(北今泉)現在

 真宗本願寺派西誓寺は北今泉にある。西誓寺は元来十一面観音を祀る白山信仰の寺であったと言われる。永正17年4 月1 日に蓮如上人が当地方へ来錫の時に、その弟子となった僧侶専乗が開祖となった。その子は永禄8年に出家し、慶長6年3月に本願寺主から永乗の名を与えられた。高治3年8月本願寺より阿弥陀如来立像を賜り、寺名を西誓寺と称した。歴代住職は学徳にすぐれ、教化訓導に尽くした。特に11世乗該は高通なる師風を具え、住民の敬慕が篤かった。
 青蓮寺は真宗本願寺派で、大字河増にあった。文化12年5月より道場になったが、明治11年7月に寺号公称が認められている。
 浄土宗善光院隆松寺は平岡山山腹にあり、然空善林の開祖であった。本尊阿弥陀如来の木像がある。境内桜花美しく近隣に名を知られていた。土地区画整理により、現在地は少し東へ動いたが、小鳩幼稚園と共に人の訪れが絶えない。


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