一乗の風景 of 一乗公民館

一乗公民館一乗公民館

〒910-2157 福井市西新町1-31
Tel/Fax 0776-43-2001

 
一乗の風景

 一乗地区には、国の特別史跡・特別名勝・重要文化財の三重指定を受けた「一乗谷朝倉氏遺跡」があり、福井市のメイン観光地となっています。
 春には薄墨桜や糸桜が咲き誇り、夏は一乗滝で涼を求める人も多く、秋は色とりどりの紅葉、冬は木々が一面に真綿様の雪景色となって白銀に染まります。
 緑豊かな里山の風景と、歴史風土が一体となり、美しい景観を形成している一乗地区。四季折々の魅力を写真でお伝えします。

_MG_8591.JPG朝倉氏遺跡:唐門
_MG_0596-1.JPG夜の唐門
_MG_1147.JPG諏訪館跡庭園(特別名勝)
_MG_1657.JPG諏訪館跡庭園(特別名勝)
_MG_9258.JPG復原町並
_MG_6446.JPG復原町並

春 満開の桜と朝倉氏遺跡

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 深緑の中の朝倉氏遺跡

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名称未設定1.JPG万灯夜


_MG_9220-1.JPG 万灯夜

 紅葉で色づいた遺跡の風景

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 雪に包まれ幻想的な雰囲気に

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遺跡の周辺の見どころ

_MG_2625.JPG盛源寺(西新町)


_MG_2632.JPG盛源寺の石仏


_MG_2605.JPG一乗滝(浄教寺町)
_MG_7069.JPG 一乗谷全景 1
1003.JPG一乗谷全景 2
_MG_7054.JPG一乗谷全景 3

 
水害記録

おごけ祭り

福井市浄教寺町に伝わる女性の祭りです。
「おごけ」とは、麻を糸のようにより合わせてつなぐために使っていた丸い桶のことです。昭和30年代頃まで、各家庭で女性は冬の仕事に麻糸で麻布を織って利用してきました。
そこで、機織も一段落し、屋内での作業から屋外の本格的な農作業が始まる区切りとして、3月15日頃にこの桶に感謝の気持を表し、冬の寒い時期の仕事の苦労をねぎらったことから始まったといわれています。
この祭では、大きな「ぼたもち」を作って女性と子どもたちで一時を楽しく過ごしています。
祭の名称は、この桶(おごけ)からつけられています。

犬のこと祭り

福井市浄教寺町に伝わる男性の祭りです。
むかし、武士たちが弓の練習のための的に犬を使ったとのことです。その際に死んだ犬の霊を供養するため、春の外仕事が始まる前の男の行事として2月下旬頃に行われてきています。男性のみで、あんをまぶした大きな「お餅」を作り、お供えしています。

火祭り

福井市城戸の内町に伝わる男性の祭りです。
むかしは藁で作った家が多かったことから、火事が起こると村全体に広がり大火事になってしまいました。そこで、二度と大火事が起こらないように、毎年3月に村の人たちが藁を持ち寄って小家を作り、その中で一時を過ごし、その後それを燃やして火の神にお祈りをします。

したんじょう

福井市鹿俣町に伝わる祭りで、福井県の無形民族文化財に指定されています。
毎年5月5日の「こどもの日」に鹿俣町の子どもたちで行われていましたが、近年の少子化で担い手が少なくなってきたことから、現在は一乗地区全体の幼・小・中学の子どもを中心に行われています。
この祭りは、戦国の時代に「イノシシ」が出て、村の田畑を荒らし回るので、村人が困って朝倉のお殿様にイノシシを退治を頼み、武士たちが村にある寺にイノシシを追い込んで退治したことに由来しています。
若木や柴(マンサク科の1種)で作ったイノシシを、武士に扮した子どもたちが「したんじょう、したんじょう」と連呼しながらひいて町内を練り歩き、浄善寺の境内で刀で攻めたて、暴れまわるイノシシを最後には殿様役が太刀で退治します。
「したんじょう」とは、「したにー、したにー」と言う掛け声が、いつのまにか「したんじょう、したんじょう」に変わってきたといわれています。 

 
水害記録


 2004年(平成16年)7月18日の福井豪雨により、一乗地区全体は壊滅的な被害を受けましたが、多くの皆様のご支援とご協力により復興をとげることができました。
 当時の公民館長である竹澤輝治氏の手記と、地区の皆さまからご提供いただいた写真により、この豪雨の記録をここに残します。

振り返ってみて

一乗公民館館長(当時) 竹澤輝治 

 一乗地区は「福井豪雨」という歴史に残る今までに見たこともなく経験したことのない集中豪雨の被害を被りました。
午前5時頃から一乗谷川、鹿俣川とも増水が始まり午前7時20分より氾濫し午前8時20分過ぎには豪雨の真っ只中に入りました。周りは薄暗く叩き付けるような雨で見通しがきかず不気味でした。川に沿った道路の一部はあちらこちらで削り取られました。やがて濁流は波打って県道を乗り越え川となり水かさが増すに従って激流となっていきました。山の谷川も増水氾濫して新しい谷川があちらこちらに出来、滝が生まれました。濁流は山肌を削り岩を動かし、大木を根こそぎにして一乗谷川へと流れていく間に幹の皮が剥がれて白木となりました。田圃の稲穂は見えず土手は幾多のナイヤガラとなり下っていきます。その規模は東西300mの幅があったでしょうか。
 「凄い、こんな光景は見られない」、流木が橋に堰き止められ石や砂利は川を埋めてその両側が川となり濁流は波打って家屋を襲い、家の中を流れて次の家へと流れ下っていきます。そのうちに家の基礎をえぐり濁流の中に浮き上げられて流された家も出てきました。また、一階が濁流の餌食になりすべての家財、仏壇が流されてしまった民家もありました。当時は狂暴した濁流の恐怖のあまり、目の前の自分の家とか自家用車とかのこととか考える前にその場から安全な場所を求めて移動することで精一杯であったようです。
 時間にして3時間ぐらいで、100年から200年に一回ぐらいという大災害となりました。もし被災当時が夜間であったならと思いますと背筋が寒くなる想いです。死者が出なかったことが本当に幸いでした。
加えて当日は日曜日のため多くの地区民が家にいたことも有り難いことでした。豪雨は午前10時頃には止みました。
 午前10時50分ころ小学校グラウンドに設置されている防災警報機から公民館、小学校に避難して下さいとの放送が流れました。その時には公民館も小学校も一階部分が濁流に呑まれて避難出来る状態ではありませんでした。公民館の前のケアハウス駐車場から普通乗用車が小学校の校庭まで流されるほどの激流でした。私の携帯電話は午前11時過ぎにやっと防災課に通じました。公民館も小学校も避難できる状態ではないことを
伝えましたら先方からは、「皆さんは何処へ避難しているのでしょうか?」と聞かれたことからでも分かりますように、一乗地区の被災状況は分かっていなかったようでした。
 公民館は南側の一乗谷川が増水氾濫し激流は波打って県道を浸食し、また県道は1.5mぐらいの深さの激流となり南側の窓、正面玄関のドアから流れ込み一階館内を呑みつくしました。和室の畳、料理室の調理台、事務室の机・備品・キャビネット、図書室の図書・資料等は踊り狂ったような散乱状態でした。
 雨が止んで暫くすると引き初めましたがその後には約1mの土砂が残された状態でした。公民館の東側は一乗谷川の濁流氾濫のため大きくえぐり取られ2mの浄化槽が剥き出しとなりました。同じく小学校一階及び校庭は大きな被害を被りました。
 このような状況の中でどこから手をつけてよいやら途方に暮れておりましたところ、自衛隊、県内外のボランティア、県職員、市職員、市公連、中高生の皆様の温かい励ましと復旧作業の支援を頂きました。小学校、公民館、県道、民家等々、生活区域の隅々まで見違えるほど綺麗になりました。皆様の温かい奉仕の精神に触れ胸中は熱い想いで一杯となりました。

 再び10月20日の台風23号は、公民館の南側の県道が福井豪雨の時に寸断され土嚢で応急手当が為されてありましたが、その土嚢が押し流されて更に県道が削り取られて完全に崩壊しました。その激流の勢いは公民館東側の基礎の下を削り取り、物置や剥き出しとなっていた浄化槽を押し流してしまいました。その周辺はすっかり土砂に埋もれてしまいました。

 福井豪雨での大被害ですが、一乗谷川上流の浄教寺町では山あいが深いため激流の流れは速く、川の水の押す力も物凄く大きかったため被害が多大でした。城戸ノ内町では一乗谷川の折れ曲がるところ周辺の民家が被害を被りました。足羽川と一乗谷川の合流地点である安波賀町は越美北線の線路が土を盛り上げて出来ているため民家がダムに使ったような状態となりました。また一乗谷川が足羽川の流れに直角に合流しているため、より流れの小さな一乗谷川が逆流し水かさが大きく増して川が溢れた状態となり民家を襲いました。安波賀中島町は足羽川の濁流が堤防を乗り越えて流れ込み、また安波賀町からも濁流となって民家が大きな被害を被りました。同町内にあります県立朝倉氏遺跡資料館も大いなる被害を被りました。