SPECIAL TITLE

(Behind the Fairy Tale)
 こちらの“緑の風”で働かないか、と兄に誘われ、タイチは十数年ぶりに王都へ戻った。

 家には、まだ顔を出していない。それどころか、帰ったことすら伝えてはいない。
 自分がこちらで働けるように奔走してくれたのだろう兄を想うと、居たたまれない気持ちがこみ上げる。
 兄の手前、王都に戻っていることだけでも連絡すべきだったのかもしれないが、あの家の者たちが自分の帰還に好意的な感情を抱くとは思えなかった。
 それに、数年前に治療院の院長となった兄が、その立場を十二分に活かして四方に手を回していたことに、家の者が気付かなかったはずが無い。
 当然のように歓迎もなければ、妨害も接触も無かった。つまりは、そういうことなのだろう。

 ――取るに足りない存在。

 そう思われていることを分かった上で舞い戻って来たのだから、それなりの覚悟も気概もあるが、同時に完全に外界を遮断することのできない弱い自分への諦めもある。

 タイチの暗澹たる思索は、忙しげに叩かれる勝手口の扉の音で止められた。
1st contact --- 3.
「――痛い痛い痛いって!! 右が痛すぎる!! 絶対肉まで行ってる!!」
「いや全然まったく行ってないです皮一枚です。大丈夫ですよー、全部浅い傷です」

 とは言え、薄皮を浅く切った程度が痛覚の一番刺激する傷なので、痛がるのも無理はない。
 タイチは、手早く絡まりついた上着を引き剥がし、消毒液の瓶を豪快に一本、背中に向けて丸ごとひっくり返した。
 傍から見れば雑な手際に見えただろうが、どのみち彼の上着は使い物にならないだろうし、応急処置は迅速さが命。
 あまりに突飛な処置に、怪我人の男、しばらく悶絶して動かない。

「――〜っ!! ……だから、マジで痛いって!! つーか、服!! アンタ雑すぎっしょ!!」
「あーすみません。でも、終わりました」
「え?」

 きょとんとした涙目で、背中側を窺いつつ触ろうとする男の手を軽く叩いてやる。

「あ、まだ湿布貼っただけなんで。包帯巻き終わるまでもうちょっと待って下さいね」
「……へーい」
「大袈裟な男でゴメンねぇ、先生」

 処置が一段落着いたところで、鍛冶師――ヤマグチが、笑いをこらえながらタイチに話しかける。
 半刻ほど前、“緑の風”の治療院を訪れ、怪我人を手当てして欲しいと頼みに来た男だ。
 先程から不安そうに治療の様子を見守っていたが、重傷ではないと分かり気が楽になったのだろう。
 鍛冶場の作業台の上に腰掛けて、暢気に怪我人を茶化している。

「いやもう。不審者極まりないもんだから、てっきり鉱石目当ての泥棒か何かかと……」
「だから泥棒じゃないってば! 魔獣から逃げてたら偶然ここの灯りが見えて、ちょっと避難させてもらおうかと思って……大体、アンタには手紙も見せたでしょうが」
「それにしたって、何でまた逃げ込んだ先が、都合よくウチの鍛冶場だよ」
「そんなんオレが聞きてぇよ。本当なら武具屋の方に訪ねるつもりだったんだからさぁ……まぁ、おかげで手間省けたけど」

 手当ても早々に言い合いを始めてしまった二人を他所に、タイチは黙々と応急処置を進めている。
 この二人、てっきり兄弟か親しい知人なのだと思っていたが、実は全く違い、お互いに今夜が初対面だったそうなのだ。
 タイチは、自他ともに認める人見知りな性分なのである。時間とは比例しない、距離の詰め方が分からない。

 しかし、居辛くなった空気を中和することはできる。助け舟代わりに、一つ話題を放ってみる。

「この辺りの魔獣というと……リンクス、でしょうか?」
「“リンクス”? それどんなの?」

 大人しく包帯を巻かれながら、怪我人の男が問い返す。
 聞けば、彼は外国からバルトにやってきたばかりの旅人だそうで、この周辺の地理・動植物には明るくないらしい。

 王都周辺に広がるノッサ平原、とりわけ街の近辺には、“リンクス”という大型の猫のような魔獣が生息している。
 治療院にも度々、この魔獣に襲われた旅人や住人が運び込まれてくるため、王都が注意を促しているくらいだ。
 魔獣と言っても猫であることには変わりなく、性格は意外にも臆病で、万一、襲われても死に至るような怪我を負うことはないのが幸いである。

「ふぅん。こっちのノッカーラットみたいなもんか」

 ちなみに、“ノッカーラット”は山岳地帯に生息する大型の鼠である。
 リンクスのように人を襲うことは滅多に無いが、鉱脈を荒らすため、海向こうのニーテナでは害獣と捉えられている。

「へー。ニーテナにはそんな魔獣もいんのか。鉱山が多いんだな。さすが鍛冶師の聖地」
「いやいやそれほどでもぉ」
「いや別にお前を褒めたわけじゃないんだけど」
「……」

 妖精さんが駆け抜けた後、ヤマグチは何事も無かったかのように話を続ける。

「……で、リンクスだったの?」
「んんー? や、後ろから襲われたし。よっくは覚えてないんだけど……その、リンクスって、どのくらいの大きさ? どんな感じ?」

 男の畳み掛けるような質問に、タイチはヤマグチの方へ目をやった。
 タイチが王都に足を踏み入れたのは、かれこれ十数年ぶりである。
 この数年で、草原の生態系が少々変化したのかもしれないと思ったのだ。

 タイチの視線を受けて、ヤマグチは膝下の体高、腕を肩幅より広げた体長を手で示してやる。
 空中に作った透明な猫のサイズは、タイチが思い描いたものと同じ程だった。
 だが、男は大げさに首を横に振った。

「じゃー全然違うよ! そんな小さくなかったもん。少なくとも膝上くらいの大きさはあったよ」
「はぁ? 本当かよ?」
「本当だって!! 月が明るかったからさぁ、大体の大きさは分かったの!」

 広大な草原には多様な動植物と魔獣とが住み着いており、少し足を延ばせば背丈をゆうに超える生物にも出くわす機会があるだろう。
 しかし、人家に近寄ってまで危害を加えるような凶悪な魔獣はほとんどいない。一応、共存の線引きが成されているのだ。
 であれば、平原のど真ん中を開墾して王都を築こうなどと、昔の人は考えまい。

「そんなサイズの魔獣、この辺にいるかぁ……?」
「傷を見ましたけど、爪のある四足の魔獣であることは確かですね。でも、確かに、リンクスみたいな小型の魔獣ではないかもしれません」

 訝しむヤマグチに、タイチは治療に当たった者としての意見を述べる。
 傷痕は、無数の細い線のように背中に走っていた。
 爪で引っ掻かれた痕だと判断すると、線の間隔がやや広い。概算すればリンクスの三、四倍は大きな体長の魔獣になる。
 それほどの大きな魔獣に襲われた割に、傷が全て浅かったことが不思議ではあるのだが、
 命に別状なかったことはタイチにとって唯の歓迎すべき点であり、医師の自分がこれ以上詮索すべき事情ではない。
 巻き終わった包帯を仮留めして、救急箱を片付けにかかる。

「魔獣なら、詰め所に報告した方が良いと思いますけど……」
「えー、それは面倒くさいなぁ」
「ちょ……面倒くさいってアンタ」

 得体の知れない魔獣に襲われた身として、ヤマグチの冷たい反応に複雑な顔をした男だったが、しかしヤマグチの気持ちも分からないでもないのだ。
 詰め所への嘆願を出すにも色々と手続きがあるので、それを嫌がったのだろう。
 民間人らしい素朴な発言に、タイチは苦笑する。

「今は応急処置だけですし……陽が昇ったら改めて治療院に来ていただけますか? 魔獣の報告も代行できると思いますよ。兄も出勤していると思いますから」
「お、そうなんだ。じゃー明日、……ん、兄? あれ? ……もしかして、院長の弟さん?」
「え? あ、いや……」

 しまった、と内心思っていた。
 治療院の院長――ナガノとの血縁関係を、自分から話すつもりはなかった。
 職場に初めて訪れた時も、院長の弟だということは伏せて紹介してもらったというのに。
 しかし、ヤマグチは屈託の無い笑顔をこちらに向けて、タイチの両肩をがっしりと掴む。

「ああ、そうなのか! アナタがその弟さんね! いやー、話はちょくちょく聞いてたんだよ。近々、弟が転勤してくるって喜んでたからさ」
「あ、はぁ……兄とは……親しいんですか」
「飲み仲間なんだよ〜! つっても、ほぼ俺だけが飲んでるんだけどね」

 「改めてよろしく!」と固い握手を交わし、タイチは目を瞬かせる。
 職人気質から来るものなのだろうか、気さくでおおらか。タイチの周りにはいないタイプであった。
 最後に、兄を巻き込んでの歓迎会(という名目の飲み会)の算段まで取り付けられ、さすがに苦笑する。

「こんな夜中に迷惑事持ち込んじゃってごめんな。ほら、お前もお礼言っとけ」
「……ありがとうございましたぁ」
「いえ……お大事に」
 満月が真上をとうに過ぎて傾きかけている。
 急患の処置を終え、タイチは治療院への帰途に着いている。

 明るい道すがら、幾度か腕を回したり、首を曲げてみたりしている。
 王都に越してきて数日。
 さすがに、久しぶりの当直はきついと感じてしまった。続ければ身体も馴れては来るのだろうが。
 そういえば、仕事以外のことで兄以外の誰かと会話したのも、久々だったように思う。
 いたって普通の会話をしただけなのに、不思議と心が軽くなっているような気がする。色々と力みすぎていたのだ。

 そんなことをつらつらと考えながら、ふと、月灯りに照らされた路地に影が増えたような気がして、タイチは何気なく目線を上げた。

 屋根伝いに、黒い装束の人影が飛ぶように走っていくのである。
 着地の瞬間の音がまるでしない。夜に羽ばたく凶鳥のような姿だ。

 初見ならば驚きの光景だが、治療院勤めのタイチには、その独特の動き方に覚えがあった。
 おそらく、アサシンギルドに属するシノビであろう。
 アサシンは、ヨロズヤと同じく依頼を請け負って報酬を得ることを生業とするが、
 ヨロズヤと違い、主に魔獣やレイス、ベノムの討伐や、隠密の情報収集などを受け持つ。
 彼誰時とは言え、街中を堂々と飛翔しているのは珍しい。
 彼誰時に、街中をうろついているタイチも相当に怪しいということにはなるが、“緑の風”の医務服を身に着けているので救急の勤務中と捉えることはできるはずだ。

 件のシノビは高屋根の塔の上で、一瞬こちらの視線を気にしたようだが、すぐに飛び去って行ってしまった。
 その場に留まり、しばらくシノビの走り去った方向を眺めていたが、夜闇に変化はない。
 高ランクのシノビであれば、一般人に全く気付かれることなく隠密歩行ができる上に、相手を一撃のうちに昏倒させてしまうような術も持っているというから、おそらく、それほど高ランクでは無いか、もしくは別に見られても問題ないと判断したのだろう。

 そう結論付けて、大通りを一歩踏み出したところで、タイチは、何かの気配に再び立ち止まった。

 路地裏が覗く細い小道が横に伸びており、細い風が吹き込んでいる。
 木材の黴た臭いと、土の混じったような鉄の臭いが空気に混ざってかすかに流れてくる。

 ――知っている臭いだ。

 タイチは自らの勘と経験を信じ、帰路を逸れた。
 注意深く、空気の淀む方向をを確認しながら一歩ずつ歩く。
 いつの間にか、住宅街や市場界隈を通り過ぎていた。歩の向かう先が、街の外れに近づいている。
 街外れの付近で正体不明の魔獣に襲われたという、あの怪我人が話していた事件がふと脳裏を過ぎったが、すぐに消え失せた。
 好奇心が勝ったのだ。

 覚えのある臭いを追って、歩き出してから数分。
 タイチの足は、その気配を帯びる最終地点らしきところで止まった。
 視線を変えれば、目の前に草原が広がってもおかしくないほどの街の際。
 民家が途絶えて数件分の間隔のあとに、古びて今にも朽ちそうな一軒家があった。
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