|
ルート ”伝説と地域の偉人を訪ねて” (4.6Kコース) |
|
浅水駅⇒(3.4K)増永五左衛門翁碑⇒(1.1K)お藤ケ池⇒(100M)禅林寺 |
|
増永五左衛門翁碑 |
|
|
|
福井県の主要産業である 「めがね枠」産業の発祥の地」がこの福井市麻生津地区である。
明治38年 (1905年)足羽郡麻生津村生野(現・福井市生野町)の名主であった増永五左衛門翁が、明治38年大阪および東京から眼鏡技術者を招き、工場を建設して村内の20余名に眼鏡作りを伝習させたのが始まりである。
幾多の困難を乗り越えながら高級品の開発を進め、大正初期には高品質を認められ、日本一の 「めがね枠」産地として国内はもとより海外にも販路を拡大し、その関連業種等も含めて今日の福 井県の地場産業として大きく成長するようになった。
増永五左衛門翁は昭和13年1月に 逝去、その年の12月には県下眼鏡業者により「増永五左衛門翁碑」が生野町に建設されその偉業を今日に伝えている。 |
| お藤ケ池 |
|
|
|
禅林寺の入り口にある天満神社の鳥居をくぐると、広場の隅に大きく立派な石碑があり、お藤ケ池と刻まれている。ところが、当の池は小さく、周囲から枝を伸ばした木々の枝に今にもすっぽり覆われてしまいそうなのだ。
そんな、忘れられたような池にも土地のお年寄りたちが語りついできた伝説があるのだった。
昔、むかし、徳尾村の庄屋に世にも美しい娘が三人いた。ある年、日照り続きで今にも稲が枯れそうで大変困っていた。「わしの田圃に水をいっぱいにしてくれたら、娘をやるのになぁ」と独言を言った。翌朝、田を見回ると庄屋の田は全て水がいっぱい溜まっており、これは不思議なことだと思っていた。
夜になって、トントンと戸を叩く者があり、見るとりりしい若者が立っていた。若者は水の代わりに娘を貰いにきたと言う。庄屋は泣く泣くお藤という娘を与えると、若者はお藤を連れて池に姿を消した。若者は大蛇の化身だという。 |
|
禅林寺 |
|
|
|
600余年前、白沢永幸居士(びゃくたくえいこうじ)が、観音信仰あつき名僧・普済善救禅師(ふざいぜんきゅうぜんし)を招いて禅林寺を開いた。
ご本尊には、十一面観世音菩薩が奉安され、観音の里として、深く静かな信仰をあつめてきた。 |
|
甘露水 |
|
|
|
「甘露泉」は禅師により命名されたといわれます。水源には三十三観音様がまつられ、600年もの間枯れることなくこんこんと湧き出しています。福井県からは「ふくいのおいしい水」に指定されていて、地域の人々ばかりでなく、車で甘露水を汲みにくる人もいます。 |
|
清原宣賢のお墓 |
|
|
|
福井県指定史跡である清原宣賢墓所として知られている。
清原宣賢(のぶかた)は、当代随一の国学者、儒学者と評された。
吉田神道家の吉田兼倶(かねとも)の子として文明7年(1475)に京に生まれ、清原宗賢の養子となり儒学者の道を歩む。後奈良天皇の侍読(教授)も務め、大永2年(1522)侍従、同6年には正三位となったが、享禄2年(1529)出家した
朝倉氏とは関係が深く、4代孝景の招請に応じて何回かにわたり越前に下向、晩年は一乗谷に居住し、ここで過ごした。清原宣賢は朝倉氏やその家臣に積極的に儒学や「日本書紀」などの古典を講義して、一乗谷文化に大いに貢献した。 |