次に、その青年に会った時、既に季節は夏だった。
いや、その夏も、もうすぐ終わろうとするころだった。
夢の中でリズムを取る、甲高い子供特有の声が耳に障って、目を開けた。
久々に、息苦しい朝だった。
時計の針は、9時を回っている。
夏は自主研究の期間だが、今時分、研究員たちは秋の発表に向けて追い込みにかかる。
オレがいくら勉学やら研究やらが嫌いでも、上の連中からの、締め切りというものがある。
そろそろ、研究室に出向かなければならないだろう。
起きようか、と迷いながら、寝返りをうつ。
明け方に見た夢が、薄皮になって頭にこびりついている。
ちらつく夢の断片が、未だ残ったまま、離れない。
不安な夢だった。
夏休みに、ばあちゃんの家の近くで遊んだ、子供のころの夢。
まるで水の中でもがいているような、胸を締める圧迫感。
けれどそれも、面倒くさくなってうった2度目の寝返りで、あっさりと散った。
冷房を切っておいたのは失敗だっただろうか、まだ意外に暑い。
明るい日差しの入り込むガラス戸を細く開け放つと、肌に涼しい風が流れ込む。
1DKの部屋は、7階にあった。
冷蔵庫から、シリアルの袋と、紙パックのオレンジジュースを取り出して、傾けながら目の覚めるのを待つ。
心地良い、夏の終わりの朝。
高いところはあまり好きではないけれど、この場所。
夜中の救急車のサイレンも、商店街の祭囃子も、聞こえないほど遠くは無く、それでいてうるさくは無い。
現実から少し離れたところに、自分の世界があるような、そんな気分。悪くない、と思った。
そんな浮遊感を打ち破ったのは、忙しない羽ばたきの音。
カラッポッポー。
……鳩?
「はぁ?」
思わず、オレンジジュースを噴きこぼすかと。
あまりにも近いところからの鳴き声に、夢見心地も飛んでしまった。
背丈ほどのガラス戸をそろそろと開ける。
テラスを確認できるほどの隙間から、外の手すりに目をやると、
カラッポー。
2度目の鳴き声で、存在を主張するかのように。
1羽の鳩がとまっていた。
青みがかった灰色の体と、鮮やかな蛍光ブルーの尾羽根が不思議な光沢を放つ、鳩。
くいんと首を廻して、びっくりまなこで、こちらを見返してきた。
(びっくりしたのはこっちの方だ、と鳩につっこみたくなった。)
「鳩……ね。鳩ぽっぽね」
そりゃ、ちょっとは高層の部類に入るマンションとは言え、ベランダで鳩を飼う気は、さらさら無いぞ。
引きつり気味の笑顔で、しばらく出て行きそうも無い鳩を、とりあえず眺める。
カラッポー。
カーテンをたなびかせてみたが、憎らしいことに、鳩は物怖じもしない。
都会の鳩は度胸が座ってるな、と妙に感心する。
そのうち、訪問鳩はベランダのサッシまで降りてきた。
近い位置にいる。
手を伸ばせば届く位置で、鳩はぺた、ぺたと円を描いている。
「……食うか? 食うかな? ほれ。来い」
漁っていたアルミ袋の底、シリアルのくずをベランダに投げてやる。
とこり、とこりと、鳩は近づいてくる。
警戒もせずに、シリアルのくずを突つき始めた鳩に、少し安心した。
居ついてもらっては困るが、食べ終わるのだけは待ってやる。
ついでに、単なる気まぐれに、手を伸ばしてみた。
「鳩ー、おーい鳩」
安全なところへ逃れようと、鳩は手すりの上へと羽ばたく。
行ってしまうのか。
単にそう思いつつも、伸ばした手を片付けないでいたら、再び軽い羽音と共に、鳩は舞い降りてきた。
そして、当然のように、オレの腕に、とまったのだ。
呆気にとられたまま、かろうじて腕を水平に保つ。
手乗り鳩。
今、オレすげぇ。
この感動をリーダーに伝えたいが、無念ケータイはカバンの中だった。
不思議なことに重みを増した爪先は、むきだしの肌の痛覚を刺激するほどでは無かった。
感慨深げに眺めていると、細かなうろこに覆われた鳩の脚に、ふと奇妙なものを見つける。
「何だこれ」
細い円筒形の金具だった。中から、丸めた紙切れのようなものが覗いている。
指先でつまんで、引っ張ってみた。
同時に、ああ、こんなの知っていると、頭の引き出しからも単語を引っ張ってくる。
薄く丸まった、紙切れ1枚。するりと金属の筒を抜けた。
「伝書鳩、か」
とすると、これは手紙なのか。
1人納得して、あらぬ方向を見やる鳩と、指先の紙切れを交互に確かめる。
もちろん、オレは手紙をすぐに、元に戻すべきだったのだ。
それは他人宛ての手紙。プライバシーの問題。
でも。
困ったことに、好奇心が勝ってしまった。
理性と良識を、今だけタンスに押し込んでおいて、腕に乗っかったまま動かない鳩を横目に、薄い紙切れを広げてみる。
紙は名刺ほどの大きさになった。
青い水性ペンで書かれた、短い文章だった。
ハッピーバースデーとか、メリークリスマスだとか、そんな調子で1行並ぶように。
小奇麗に文字が配列されていたが、だが文章の内容は、晴れやかなものとはおおよそ、かけ離れていた。
「……何だこれ」
<コロサナイデ。コロサナイデ。コロサナイデ。オレヲコロサナイデ>
カタカナばかりの文字の羅列。
肩の上から、血と一緒に力も抜けていくようだった。
独り言には慣れたはずなのに、音読するのを憚られるほどに、不吉な一文。
――殺さないで、俺を殺さないで。
もう一度、頭の中で読む。
この手紙の主は、本当にそう訴えているのだろうか。助けを求めているのだろうか、まさか。
馬鹿げている、とは思わなかった。どうしてか、思えなかった。
カラッポ。
突然、鳩が一声、低く鳴いた。
盗み見を咎められたような気がして、オレはびくりと首をひっこめる。
鳩がくいと向けたくちばしの先に、何か、いつもとは違うような、違和感のある風景が……
「おはよーございますっ」
いきなり、元気の良い朝の挨拶が飛んできた。
後退した左足のかかとが、アロエの植木鉢にごんと当たる。
鳩の次は、人間が。
あまりに驚きすぎて、悲鳴も文句も出てこない。
さっきまで鳩がとまっていたテラスの手すりに、あろうことか今度は、人がいたのだ。
両足は外に向かって宙ぶらりんの状態で、それで何気も無しに、腰掛けている。
侵入者は、オレと同い年かくらいの、青年だった。人懐っこい笑み、その満面の笑顔。
その表情を見た瞬間、何ヶ月も前の、あのささやかな春の出来事が、苦も無く思い出される。
――いつぞやの、鉄棒青年。
「……おはよう、ッス」
固まった表情のまま、挨拶を返しておいた。
いや、確かにあのときの青年ならば、手すり伝いに、隣の部屋から忍び込むくらい造作も無いだろうが。
ここはマンションの、7階なのだ。2mの鉄棒とはワケが違う。
「……そこ、危なくないか?」
「うん、落ちたらね」
青年は肩をすくめた。幸いなことに、自殺願望があるようには見えない。
「あー、どっち側に落ちるかにも、よるね」
何か、いずれにしても、大差無さそうな口ぶりである。
侵入者のくせに無礼な、そんな考え、とうの昔に消えていったにちがいない。
「……いや、どうせなら、こっち側の方が良いと思うけど」
「そうッスね」
素直にうなずき、青年は手すりの上で器用にも向きを変える。
落っこちるなよ、とひやひやしているオレを余所に、青年はぴょいとベランダに立った。
が、割と大柄な固まりが降ってきたのに、オレの腕でくつろいでいた鳩は相当、驚いたらしい。
ばっさばっさと翼をはためかせ、不恰好に空に飛び上がって、
体勢を整えた手すりの上から、一目散に逃げ去ってしまった。
「ああっ! あー……ごめんなさい。おどかしたかなぁ……あの鳩、おにーさんのペット?」
「いや。ちがう、けど……」
図体に合わず、あわあわと。けれど、どこか呑気そうに、青年は、今や黒い点粒になってしまった鳩を見送っている。
同じように、鳩の飛んでいく様を追いながら、オレは途方に暮れていた。
右手の指先には、あの小さな手紙がまだ、ひっそりと取り残されている。
いや、その夏も、もうすぐ終わろうとするころだった。
2.
……それ、まーわせ、まわせ、大波、小波……夢の中でリズムを取る、甲高い子供特有の声が耳に障って、目を開けた。
久々に、息苦しい朝だった。
時計の針は、9時を回っている。
夏は自主研究の期間だが、今時分、研究員たちは秋の発表に向けて追い込みにかかる。
オレがいくら勉学やら研究やらが嫌いでも、上の連中からの、締め切りというものがある。
そろそろ、研究室に出向かなければならないだろう。
起きようか、と迷いながら、寝返りをうつ。
明け方に見た夢が、薄皮になって頭にこびりついている。
ちらつく夢の断片が、未だ残ったまま、離れない。
不安な夢だった。
夏休みに、ばあちゃんの家の近くで遊んだ、子供のころの夢。
まるで水の中でもがいているような、胸を締める圧迫感。
けれどそれも、面倒くさくなってうった2度目の寝返りで、あっさりと散った。
冷房を切っておいたのは失敗だっただろうか、まだ意外に暑い。
明るい日差しの入り込むガラス戸を細く開け放つと、肌に涼しい風が流れ込む。
1DKの部屋は、7階にあった。
冷蔵庫から、シリアルの袋と、紙パックのオレンジジュースを取り出して、傾けながら目の覚めるのを待つ。
心地良い、夏の終わりの朝。
高いところはあまり好きではないけれど、この場所。
夜中の救急車のサイレンも、商店街の祭囃子も、聞こえないほど遠くは無く、それでいてうるさくは無い。
現実から少し離れたところに、自分の世界があるような、そんな気分。悪くない、と思った。
そんな浮遊感を打ち破ったのは、忙しない羽ばたきの音。
カラッポッポー。
……鳩?
「はぁ?」
思わず、オレンジジュースを噴きこぼすかと。
あまりにも近いところからの鳴き声に、夢見心地も飛んでしまった。
背丈ほどのガラス戸をそろそろと開ける。
テラスを確認できるほどの隙間から、外の手すりに目をやると、
カラッポー。
2度目の鳴き声で、存在を主張するかのように。
1羽の鳩がとまっていた。
青みがかった灰色の体と、鮮やかな蛍光ブルーの尾羽根が不思議な光沢を放つ、鳩。
くいんと首を廻して、びっくりまなこで、こちらを見返してきた。
(びっくりしたのはこっちの方だ、と鳩につっこみたくなった。)
「鳩……ね。鳩ぽっぽね」
そりゃ、ちょっとは高層の部類に入るマンションとは言え、ベランダで鳩を飼う気は、さらさら無いぞ。
引きつり気味の笑顔で、しばらく出て行きそうも無い鳩を、とりあえず眺める。
カラッポー。
カーテンをたなびかせてみたが、憎らしいことに、鳩は物怖じもしない。
都会の鳩は度胸が座ってるな、と妙に感心する。
そのうち、訪問鳩はベランダのサッシまで降りてきた。
近い位置にいる。
手を伸ばせば届く位置で、鳩はぺた、ぺたと円を描いている。
「……食うか? 食うかな? ほれ。来い」
漁っていたアルミ袋の底、シリアルのくずをベランダに投げてやる。
とこり、とこりと、鳩は近づいてくる。
警戒もせずに、シリアルのくずを突つき始めた鳩に、少し安心した。
居ついてもらっては困るが、食べ終わるのだけは待ってやる。
ついでに、単なる気まぐれに、手を伸ばしてみた。
「鳩ー、おーい鳩」
安全なところへ逃れようと、鳩は手すりの上へと羽ばたく。
行ってしまうのか。
単にそう思いつつも、伸ばした手を片付けないでいたら、再び軽い羽音と共に、鳩は舞い降りてきた。
そして、当然のように、オレの腕に、とまったのだ。
呆気にとられたまま、かろうじて腕を水平に保つ。
手乗り鳩。
今、オレすげぇ。
この感動をリーダーに伝えたいが、無念ケータイはカバンの中だった。
不思議なことに重みを増した爪先は、むきだしの肌の痛覚を刺激するほどでは無かった。
感慨深げに眺めていると、細かなうろこに覆われた鳩の脚に、ふと奇妙なものを見つける。
「何だこれ」
細い円筒形の金具だった。中から、丸めた紙切れのようなものが覗いている。
指先でつまんで、引っ張ってみた。
同時に、ああ、こんなの知っていると、頭の引き出しからも単語を引っ張ってくる。
薄く丸まった、紙切れ1枚。するりと金属の筒を抜けた。
「伝書鳩、か」
とすると、これは手紙なのか。
1人納得して、あらぬ方向を見やる鳩と、指先の紙切れを交互に確かめる。
もちろん、オレは手紙をすぐに、元に戻すべきだったのだ。
それは他人宛ての手紙。プライバシーの問題。
でも。
困ったことに、好奇心が勝ってしまった。
理性と良識を、今だけタンスに押し込んでおいて、腕に乗っかったまま動かない鳩を横目に、薄い紙切れを広げてみる。
紙は名刺ほどの大きさになった。
青い水性ペンで書かれた、短い文章だった。
ハッピーバースデーとか、メリークリスマスだとか、そんな調子で1行並ぶように。
小奇麗に文字が配列されていたが、だが文章の内容は、晴れやかなものとはおおよそ、かけ離れていた。
「……何だこれ」
<コロサナイデ。コロサナイデ。コロサナイデ。オレヲコロサナイデ>
カタカナばかりの文字の羅列。
肩の上から、血と一緒に力も抜けていくようだった。
独り言には慣れたはずなのに、音読するのを憚られるほどに、不吉な一文。
――殺さないで、俺を殺さないで。
もう一度、頭の中で読む。
この手紙の主は、本当にそう訴えているのだろうか。助けを求めているのだろうか、まさか。
馬鹿げている、とは思わなかった。どうしてか、思えなかった。
カラッポ。
突然、鳩が一声、低く鳴いた。
盗み見を咎められたような気がして、オレはびくりと首をひっこめる。
鳩がくいと向けたくちばしの先に、何か、いつもとは違うような、違和感のある風景が……
「おはよーございますっ」
いきなり、元気の良い朝の挨拶が飛んできた。
後退した左足のかかとが、アロエの植木鉢にごんと当たる。
鳩の次は、人間が。
あまりに驚きすぎて、悲鳴も文句も出てこない。
さっきまで鳩がとまっていたテラスの手すりに、あろうことか今度は、人がいたのだ。
両足は外に向かって宙ぶらりんの状態で、それで何気も無しに、腰掛けている。
侵入者は、オレと同い年かくらいの、青年だった。人懐っこい笑み、その満面の笑顔。
その表情を見た瞬間、何ヶ月も前の、あのささやかな春の出来事が、苦も無く思い出される。
――いつぞやの、鉄棒青年。
「……おはよう、ッス」
固まった表情のまま、挨拶を返しておいた。
いや、確かにあのときの青年ならば、手すり伝いに、隣の部屋から忍び込むくらい造作も無いだろうが。
ここはマンションの、7階なのだ。2mの鉄棒とはワケが違う。
「……そこ、危なくないか?」
「うん、落ちたらね」
青年は肩をすくめた。幸いなことに、自殺願望があるようには見えない。
「あー、どっち側に落ちるかにも、よるね」
何か、いずれにしても、大差無さそうな口ぶりである。
侵入者のくせに無礼な、そんな考え、とうの昔に消えていったにちがいない。
「……いや、どうせなら、こっち側の方が良いと思うけど」
「そうッスね」
素直にうなずき、青年は手すりの上で器用にも向きを変える。
落っこちるなよ、とひやひやしているオレを余所に、青年はぴょいとベランダに立った。
が、割と大柄な固まりが降ってきたのに、オレの腕でくつろいでいた鳩は相当、驚いたらしい。
ばっさばっさと翼をはためかせ、不恰好に空に飛び上がって、
体勢を整えた手すりの上から、一目散に逃げ去ってしまった。
「ああっ! あー……ごめんなさい。おどかしたかなぁ……あの鳩、おにーさんのペット?」
「いや。ちがう、けど……」
図体に合わず、あわあわと。けれど、どこか呑気そうに、青年は、今や黒い点粒になってしまった鳩を見送っている。
同じように、鳩の飛んでいく様を追いながら、オレは途方に暮れていた。
右手の指先には、あの小さな手紙がまだ、ひっそりと取り残されている。