この電子化の御時世に、彼らは直筆の手紙に封をして、自前郵送で寄越した。
不意と縁側で声を掛けられて、長瀬は相当驚いた。完全に無防備だった。
気が付けば、長瀬の視界入って、もう数歩のところで腰を落ち着けようとしている、齢40……否失礼、30とちょっとの現役農作業アイドルバンドグループのリーダー兼ギタリスト(この場合、“現役”は一体何処にかかる単語なのだろうか、判別は極めて難しい)、城島である。
本日、長瀬は、村役場の縁側の、一番風通しの良い場所に陣取っていた。
残暑遠のきかけてすぐの、村での収録。
各方面からは今や、敬意を込めて農作業系の異名を頭に添付されるようになったわけだが、その功績の一部分発端となった経緯の村である。
秋晴れ、と言っても昨今の御時世、
夏真っ盛りと見紛う程の眩しい太陽は、自然照明にしてはやや強すぎる。
丁度良い光量を求めた結果、役場端の軒下で、外庭に背を向けた格好で小さくうずくまるという、妙な図の長瀬が完成したのである。
さて現在、その長瀬は、眉根をギリギリと寄せて、難しい体勢で胡坐をかいて、同グループのドラマーに匹敵する猫背で、鉛筆を耳に挟んで、1枚の便箋とガン飛ばし合っている状態なのだった。
いわゆる無限にらめっこである。
「受験生みたいやな」
少し離れた位置に、城島から遠慮がちな湯呑みが差し出される。
長瀬は顔を上げると、笑ってうなずき、便箋を風に遊ばせて見せた。
途端に、城島が吹き出す。
「何や、白紙やん」
「へへ」
ひらひらと空気に泳ぐのは、何の変哲もない、書き損じすら無い、ごく普通の便箋であった。
刷り模様は施されず、白地に罫線が引かれただけの、ごくシンプルなもの。
長瀬の当初の予定では、収録の合間の小休止数分、これとあれとそれを手紙に書こう、と心に決めて鉛筆を削ったはずなのに、
何故だか洗い立てのワイシャツのごとくきれいサッパリとしている紙1枚。
全くの想定外であった。
歌を作るように、会話を楽しむように、なんてノリに乗ってはいかないものらしい。
便箋とじっと向かい合うこと、小1時間。文面が全く思い浮かばなかったのだ。
書きたいことはたくさんあるはずなのに、書けない。
もう時間もない。そろそろ、収録も再開する頃合だろう。
結果論として、国語と言うものはこんなにも難しかったわけである。
ついに、長瀬は諦め混じりな溜め息を吐いてしまった。
「村のこと、手紙に書こうと思ってたんスけどー……思いつかないんですもん、内容」
「何でもええんちゃう?」
「なんでもって。何でもって、たとえばなに?」
「ううん……」
ふむふむとしばらく唸って、城島は湯呑みを縁側に休ませる。
「今日はきゅうりが収穫できました」
「おおーそうだ!」
「山からはまだセミの声が聴こえます」
「うんうん」
「かぼちゃはもう少しかかりそうです」
「そうそう」
「うさぎがやってきました」
「あー出た! いるんだよねー山にも。可愛かったー」
嬉々として相槌を打つ長瀬だが、便箋は、ひたすら白紙のままだ。
「……書かんの?」
「え!?」
指摘された長瀬は慌てて縮こまり、鉛筆を戦闘態勢に持ち替える。
が、そこで止まって、また数秒。
鉛筆は文字を書き出さない。
「ど……どうやって書けばいいんスか」
「今、言うたやん」
「あの……も1回……」
「あー、ダメダメ。リーダー、長瀬に手紙なんて無理だよ」
囲炉裏端の方から、松岡が呆れ顔で近づいてくる。
「こいつ、書こうと思ったことと実際書いてること違うんだぜ? 表示に偽り有り、だよな」
「違いますよっ。何か……書こうかなーって思った瞬間には、別の書きたいことがぶわっと出てきちゃって、前のと混ざる……というか忘れる」
「忘れるのかよ。お前は鳥か何かか」
「そう言うなら、マボも何か書いてよ」
長瀬がずい、と差し出したのは、鉛筆の1ダースケースであった。
煙草を1本譲る感覚で出された大量の鉛筆を前に、まるで反射的に伸ばした指を、寸止めした松岡である。
「今時、鉛筆って……しかもこれ1ダース。買いすぎだろいくら何でも。何本ヘシ折る気だよ」
「1本だけって売ってなかったの」
松岡のコンマ5秒で考え抜かれた連続つっこみは、だが、長瀬の即答と、悶々とした溜め息とに流されてしまった。
「何かさー、手紙の上手い書き方って無いんスかね?」
BGMのひぐらしが、ぴたり鳴き止んだ。
松岡は、質問に答えなかった。
急激に沈黙の降りた縁側、城島が何事かと顔を向けると、
長瀬と松岡の2人は双方当てが無かったようで、最後の砦が気付いてくれるのを待っていたのだ。
「……ん? もしかして、僕に聞いてるんか?」
「うん」
「他に誰がいんのよ」
こういうの得意そうだし、とたぶん厄介ごとを押し付けた松岡は、けれど、事の成り行きにはそれなりに興味があるようだった。
城島の隣に並んで座り直す。
日当たりの良い縁側に3人。
「手紙かぁ。手紙なぁ……」
ぽつりぽつりと、城島が言葉を探すいとま、
縁側から見える風景を、3人は自然と目に焼き付けようとしている。
1年のうちで最も地味な季節の変わり目は、暦の上での秋口であり、夏の終わりだった。
ここ数年、少しずつ変化してはいつの日も変わらない、水車の回るやけに懐古的な景色。
まだ青々とした南向きの山の斜面に落ちる、静かなセミの声。
村にいると、確かに流れている現実世界の時間が、ほんの気持ちだけ緩やかになる。
ひぐらしが、計ったかのようにBGMを再生し始める。
しばらく考えていた城島が、ごく平凡な意見、の前置きでもって口を開いた。
「んーせやったら、今から村、1周散歩してみたらどうや? 便箋持って」
「便箋持って? 便箋、持ったままで?」
「んで、見えたもん片っ端から、順番に、絵日記みたいに書いたらええわ。簡単やろ?」
「片っ端から書く! おー分かりやすい! すげぇリーダー!」
「て言うか、単純ていうか……アンタ考えるの放棄したでしょ」
城島は、アメリカンコミックの表記そのままにハハハと笑いながら、松岡の毒を小川のせせらぎのように受け流したのだった。
「ええやん。そんな御堅い送り先でも無いんやろ?」
ついでに逃げの矛先を逸らすのに託けて、城島が話題を広げる。
いや、けれどそういえば確かに、と城島の台詞に思い当たった松岡が案の定首を傾げた。
まず、一番最初に聞いておくべきポイントだったかもしれない。
「そういや……その手紙、誰に送んの?」
松岡がわずかに躊躇して尋ねる。
気楽に聞ける送り先なのかどうか、余分な想像をしてしまったせいなのだが、意気揚々と立ち上がった長瀬は、待ってました、とばかりに振り向き様2人に対して笑顔で答えた。
「“太一くん!”」
よし、今なら書ける――オレは書ける!!
そんな台詞を顔面いっぱいで表現しながら、長瀬は縁側下のサンダルを引っ掛けて、爽やか燦々秋晴れの下を、便箋1枚持って、超全力で走り出したのだった。
さりとて、城島は以前、黙々と煎茶を啜り続けている。
郵便手紙って、そんなに身近な相手に贈るものだっただろうか。
確か来週初めにも、バラエティ番組の収録でメンバー5人、顔を合わせるはずだと思ったが。
何だか色々と腑に落ちなかったが、横を見るとどうやら松岡も靄々としているようで、けれど、意図せずアイドルスマイル全快な長瀬が存外に楽しそうなので、まぁいいかと、とりあえず両名、納得するに至った。
明るい縁側に残ったのは、飾り気のない封筒と、便箋もう1枚と、転がる総勢12本の鉛筆。
鉛筆。
「あいつ……鉛筆、忘れて行きやがったよ」
あれでは、結局、書けず終いに戻ってくること確実だろう。
松岡は「バカだねー」を2回繰り返したあと、居間へ戻ろうと腰を上げた。
いや、立ち上がり膝を折りたたんだところで、止まった。
居間へ向かおうともせず、その中途で、そわそわとしている。
城島は、落ち着きのない松岡の姿を、煎茶の湯気の向こうに見ている。
鉛筆を忘れて走り出して行った男、まだ戻ってこない。
「……あーバカ。本当バカ……長瀬ッ、お前鉛筆忘れてどうするー!」
ついに生来の心配性気質に飲まれた松岡が、鉛筆を1本乱暴に掴んで、長瀬の後を追いかけて行った。
2分経過。
そろそろ松岡も追い着いた頃だろう。
長瀬に鉛筆を投げつけて(訳:忘れ物を届けてやって)、彼を引きずっているか、もしくは引きずられている(訳:二人して里山を散策している)に違いない。
それからあと30分は戻って来ないので、収録再開の頃にスタッフが大慌てで探しに行くだろう。
それでもって、便箋は、絶対に白紙のままだ、きっと。
今日の勘は冴えている。
城島が1人、小さな優越感に浸っていると、畑の方から山口がやってくる。
「あん? 長瀬どこ行きやがった? もうすぐ収録再開……つーか、そういや、さっき松岡、すげェ速さで走ってったけど……何それ」
「…………うん、長瀬が手紙にハマったようやな」
「いや、違う。その遠い目のこと」
「そうかこの電子化の時代に手紙かー……長瀬も大人になったなぁ」
「ああ、老い先短いアナタの今後の指針についてだな」
「何でやねん。先は長いわ」
そんな当たり障りの有りそうで無い会話をしながら、山口も縁側に腰掛ける。
丁度、近場に置いてあった白い便箋が目に入ったらしい。手に取って眺めている。
「何だ、白紙じゃねーか。手紙でも書いてるのか?」
「長瀬が、太一に出すそうやで」
「はあ。へぇ……」
やはり、山口も微妙につっかえがあったようだが、詮索することなく便箋を元の位置に戻した。
「お茶持ってこよか」
と、数分後、城島が煎茶を取りに行って再び戻ってくると、件の縁側は、近いうちに見覚えのある光景になっていた。
山口はいつのまにか、先ほどの長瀬と似たような格好で便箋と向かい合っていたのだ。
長瀬と違う点はと言うと、既に白紙だった便箋には、2、3文字が書き始められていたことくらいか。
煎茶の湯呑みを置きあぐねて、城島はその光景に見入っている。
「手紙、書くん?」
城島の呼びかけに、はたと気がついた山口の動きが止まる。
気付かれた、何故だかそんなバツの悪そうな顔をしていた。
どうやら、手紙を書くことに集中する人間は、周りが見えなくなるものらしい。
「あ、いや……白紙ってのも、何だなぁ、と思って」
「ずるいわぁ。僕にも何か書かせてな」
「太一に書くんだろ? えーと、そうだなぁ……」
行頭の1文をようやく書き終わって、山口から鉛筆をバトンタッチされる。
城島は、さらに1文を書き加えた。
これで2行埋まったが、便箋は、あと13行ほど残っている。
実に、13行も残っている。
城島は、鉛筆を止めた。
「……意外と埋まらんもんやね」
「書くこと、結構あると思ったんだけどな」
「何あったっけ」
「村での出来事でしょ? 今日は収穫で……きゅうり、ピーマンと……かぼちゃはまだまだだよな……」
結局、長瀬と同じような状況になってしまった。
「……最近、村行ってないんだよねー」
「太一くん、その発言さぁ……明らかに可笑しいとか思わない?
何かオレらの職業の対岸にあるとか思わない?」
相方の笑いを含んだ声が、ふわふわと(よりリアルに形容するとドサドサと)、2人だけの楽屋に降り積もっている。
かく言うお前もタキシード着込んでプロより上手いグルメ紹介に愛想振りまいてるじゃねぇか、と長い長いつっこみが思い浮かんだが、長かったので止めておいた。
太一は、番組の収録で、とあるテレビ局の楽屋に控えていた。
5人揃っての収録の時はあんなに窮屈な楽屋も、1人だと持て余すほどに広く感じる。
と、おそらく同じことを思っているのだろう相方が、隣部屋から先ほど転がり込んできた。
基本的に団体行動が常の自分たちが、どちらかに固まろうとする習性である。
せっかく御好意でもって個別で与えられている楽屋なのだから、広々と使っても良いものだが、逆に妙に落ち着かないのでは、本末転倒な気もしないでもない。
大部屋で雑魚寝スタイルのような楽屋の方が、いっそ清々しいだろうか。
村には楽屋なんてないなぁ、と思い立ち、冒頭のつぶやきに至った次第だ。
仕事を貰えることは素直に嬉しい。
村へ行く回数が反比例するのは、当然で仕方ないにしても、やはり寂しいのだ。
それも仕事の一つであるという理屈以前に、ホームに戻ろうとする帰巣本能に匹敵する。
相方の言う通り、仕事と一括りに捉えるには、少し可笑しいのかもしれない。
寝そべった視線の先は、空ではなくて白壁の天井だった。
「だってー……この間なんてさー、俺だけなんだよ」
「ああ、他の奴らは行ってるの?」
「悔しいんだもーん」
「そう思うなら仕事減らせばいいのに……てゆかオレに分けて頂戴」
「うん」
「嘘」
「うん」
あまり内容の無い会話になっていた。
「ああ……そういや、だ」
太一は思い出したように起き上がると、実際今しがた思い出した、1通の手紙を取り出す。
家を出る直前に気がついたために、忙しくて未開封だった。
相方が、匍匐前進で近づいて来る。
「ん? どーしたのそれ。何かのダイレクトメール……じゃないね手紙?」
「家に届いてたんだよ」
「ええ? 誰から?」
あまりに味気ない封筒だったので、傍目に果たし状のようにも見えたのだろう。
急に背筋を正して起き上がった相方に、太一は苦笑する。
「いや、そんな真面目なもんじゃないと思う。だって、ほら」
と、封筒の差出人欄を見せてやった。
住所が書かれていなかった。
代わりにいつぞやの歌謡名曲のような捨て台詞と共に、
4人、という数詞と、村、という特定のない固有名詞とが書かれてあった。
別に、暗号文などではない。
残暑見舞い、とでかでか墨字で男臭く書き殴られた表書きを見たら、まさか深刻な内容では、と一瞬でも勘繰った自分が馬鹿らしくなるほどだ。
相方も気付いた。
「あれ? もしかしてこれ、アナタのとこのメンバーからなの?」
「アホだろ。小学生みたい」
「えーいーじゃん。面白ぇ。中身は? 中身は何?」
相方が興味津々でせっつくので、太一は封筒を開けてみた。
三つ折の便箋が1枚だけ入っている。
ああ、封筒に仕掛けはないのか、と妙なところで安堵した。
逆さにして無造作に揺すると、はらりと白紙の便箋が舞い落ちてきた。
「……?」
さすがに不思議に思いつつも、拾い上げる。
なにひとつ記されていない、真っ只白紙の便箋、かと思いきや。
よくよく見ると、上から最初の数行だけ、ちゃんと文字が書き込まれていた。
一応のところ、手紙のようだった。
横から細目が、何事かと、細目で覗き込んでくる。
「なんだ。ほとんど白紙じゃん。書き忘れ?」
「ん。んん? あー……あれ?」
初めこそ本当に書き忘れだと思っていたのだが
(あの4人のことだ、1枚入れ忘れたとかいう単純ミスも、ごく普通に起こしそうだ)、最初の4行を目で追って、すぐに違うことに気付いた。
それは、何だかんだで愛し愛され方を心得るメンバーという存在への、伝わることを期待して封した、短くて長い手紙だ。
かすかに残る村の気配。
大勢の人と、4人と、5人の時間。
「あー……村だぁ」
水面に言葉が浮かび上がる。
「かぼちゃはもうちょっとかかるのかぁ。きゅうり取ったんだ、いーなぁ……」
「なに、農作物座談会?」
「や。ざまあみろ、ってさ」
太一は、ついに笑い出してしまった。
相方が、はあと意味解らない風に首を傾げたので、8割白紙の便箋を放ってやる。
“夏はまだまだ続きそうです。”
“縁側は暑いです。今は休憩時間です。”
“きゅうりとれました。ピーマンとれました。かぼちゃはもうちょっとです。”
“うさぎとせみと、水車小屋。”
畏まった文体のくせして、そこで、たった4行の手紙は終わっているのだ。
余白は埋まらなかったらしい。
中途半端に11行だけ残された白い便箋。
伝われ。
余白部分にそう願掛けして、彼らはポストに投函した。
目に付いたものを書き留めるだけでは、納得出来なかったのだ。
本当に伝えたいのは、その日起きた出来事でも、その日見た風景でもなく、その日あった空間だ。
翻訳すると、たぶん、つまりこういうことだった。
――“だから、早く来い。”
「読書感想文だったら、マイナス10点ね」
「あっはは! 何これ!? アイツら、らしいわ!」
「ああもう。小学生の作文じゃねーんだから、もうちょっとマシな文章書けっての」
もはや揚げ足取りすらも、自分で笑えてしまうくらいに温かい。
ああもう、と同じで意味の違う溜め息を、知らず知らずのうちに吐いていた。
そうだった。
少なくとも自分たちは、こういうグループだったのだ。
「覚えとけあいつら」
感謝、などとありきたりな言葉では足り無すぎた。
この表現しきれない気持ちを詰め込んで、無地の手紙で返してやりたかった。
伝わるだろうか、なんて疑問系で終わらせるのでは後味が悪い。
伝われ。
相方に気付かれるのが照れ臭くて、太一は、用事のない小銭入れをポケットにつっこんだ。
「ってか、明日、会うんだけど収録。どうする? 俺、返信とかした方がいいのかな?」
「何それ! もう10年来の同窓会の誘いみたいな! 何それ! 文通じゃん!!」
せかせかと自販機に避難しようとする後ろ姿、皮肉混じった最後の悪あがきに向けて、大声で笑い転げてやる。
ひとしきり楽屋内をコロコロと回ってから、最後にようやく落ち着いた卓の傍で、煎茶をじじくさく啜って、そして、去り際の彼に一言投げかけておいた。
「でもね。そういうの、たまに、めちゃくちゃうらやましいのよね、オレら」
飛梅にひぐらし
「手紙かぁ?」不意と縁側で声を掛けられて、長瀬は相当驚いた。完全に無防備だった。
気が付けば、長瀬の視界入って、もう数歩のところで腰を落ち着けようとしている、齢40……否失礼、30とちょっとの現役農作業アイドルバンドグループのリーダー兼ギタリスト(この場合、“現役”は一体何処にかかる単語なのだろうか、判別は極めて難しい)、城島である。
本日、長瀬は、村役場の縁側の、一番風通しの良い場所に陣取っていた。
残暑遠のきかけてすぐの、村での収録。
各方面からは今や、敬意を込めて農作業系の異名を頭に添付されるようになったわけだが、その功績の一部分発端となった経緯の村である。
秋晴れ、と言っても昨今の御時世、
夏真っ盛りと見紛う程の眩しい太陽は、自然照明にしてはやや強すぎる。
丁度良い光量を求めた結果、役場端の軒下で、外庭に背を向けた格好で小さくうずくまるという、妙な図の長瀬が完成したのである。
さて現在、その長瀬は、眉根をギリギリと寄せて、難しい体勢で胡坐をかいて、同グループのドラマーに匹敵する猫背で、鉛筆を耳に挟んで、1枚の便箋とガン飛ばし合っている状態なのだった。
いわゆる無限にらめっこである。
「受験生みたいやな」
少し離れた位置に、城島から遠慮がちな湯呑みが差し出される。
長瀬は顔を上げると、笑ってうなずき、便箋を風に遊ばせて見せた。
途端に、城島が吹き出す。
「何や、白紙やん」
「へへ」
ひらひらと空気に泳ぐのは、何の変哲もない、書き損じすら無い、ごく普通の便箋であった。
刷り模様は施されず、白地に罫線が引かれただけの、ごくシンプルなもの。
長瀬の当初の予定では、収録の合間の小休止数分、これとあれとそれを手紙に書こう、と心に決めて鉛筆を削ったはずなのに、
何故だか洗い立てのワイシャツのごとくきれいサッパリとしている紙1枚。
全くの想定外であった。
歌を作るように、会話を楽しむように、なんてノリに乗ってはいかないものらしい。
便箋とじっと向かい合うこと、小1時間。文面が全く思い浮かばなかったのだ。
書きたいことはたくさんあるはずなのに、書けない。
もう時間もない。そろそろ、収録も再開する頃合だろう。
結果論として、国語と言うものはこんなにも難しかったわけである。
ついに、長瀬は諦め混じりな溜め息を吐いてしまった。
「村のこと、手紙に書こうと思ってたんスけどー……思いつかないんですもん、内容」
「何でもええんちゃう?」
「なんでもって。何でもって、たとえばなに?」
「ううん……」
ふむふむとしばらく唸って、城島は湯呑みを縁側に休ませる。
「今日はきゅうりが収穫できました」
「おおーそうだ!」
「山からはまだセミの声が聴こえます」
「うんうん」
「かぼちゃはもう少しかかりそうです」
「そうそう」
「うさぎがやってきました」
「あー出た! いるんだよねー山にも。可愛かったー」
嬉々として相槌を打つ長瀬だが、便箋は、ひたすら白紙のままだ。
「……書かんの?」
「え!?」
指摘された長瀬は慌てて縮こまり、鉛筆を戦闘態勢に持ち替える。
が、そこで止まって、また数秒。
鉛筆は文字を書き出さない。
「ど……どうやって書けばいいんスか」
「今、言うたやん」
「あの……も1回……」
「あー、ダメダメ。リーダー、長瀬に手紙なんて無理だよ」
囲炉裏端の方から、松岡が呆れ顔で近づいてくる。
「こいつ、書こうと思ったことと実際書いてること違うんだぜ? 表示に偽り有り、だよな」
「違いますよっ。何か……書こうかなーって思った瞬間には、別の書きたいことがぶわっと出てきちゃって、前のと混ざる……というか忘れる」
「忘れるのかよ。お前は鳥か何かか」
「そう言うなら、マボも何か書いてよ」
長瀬がずい、と差し出したのは、鉛筆の1ダースケースであった。
煙草を1本譲る感覚で出された大量の鉛筆を前に、まるで反射的に伸ばした指を、寸止めした松岡である。
「今時、鉛筆って……しかもこれ1ダース。買いすぎだろいくら何でも。何本ヘシ折る気だよ」
「1本だけって売ってなかったの」
松岡のコンマ5秒で考え抜かれた連続つっこみは、だが、長瀬の即答と、悶々とした溜め息とに流されてしまった。
「何かさー、手紙の上手い書き方って無いんスかね?」
BGMのひぐらしが、ぴたり鳴き止んだ。
松岡は、質問に答えなかった。
急激に沈黙の降りた縁側、城島が何事かと顔を向けると、
長瀬と松岡の2人は双方当てが無かったようで、最後の砦が気付いてくれるのを待っていたのだ。
「……ん? もしかして、僕に聞いてるんか?」
「うん」
「他に誰がいんのよ」
こういうの得意そうだし、とたぶん厄介ごとを押し付けた松岡は、けれど、事の成り行きにはそれなりに興味があるようだった。
城島の隣に並んで座り直す。
日当たりの良い縁側に3人。
「手紙かぁ。手紙なぁ……」
ぽつりぽつりと、城島が言葉を探すいとま、
縁側から見える風景を、3人は自然と目に焼き付けようとしている。
1年のうちで最も地味な季節の変わり目は、暦の上での秋口であり、夏の終わりだった。
ここ数年、少しずつ変化してはいつの日も変わらない、水車の回るやけに懐古的な景色。
まだ青々とした南向きの山の斜面に落ちる、静かなセミの声。
村にいると、確かに流れている現実世界の時間が、ほんの気持ちだけ緩やかになる。
ひぐらしが、計ったかのようにBGMを再生し始める。
しばらく考えていた城島が、ごく平凡な意見、の前置きでもって口を開いた。
「んーせやったら、今から村、1周散歩してみたらどうや? 便箋持って」
「便箋持って? 便箋、持ったままで?」
「んで、見えたもん片っ端から、順番に、絵日記みたいに書いたらええわ。簡単やろ?」
「片っ端から書く! おー分かりやすい! すげぇリーダー!」
「て言うか、単純ていうか……アンタ考えるの放棄したでしょ」
城島は、アメリカンコミックの表記そのままにハハハと笑いながら、松岡の毒を小川のせせらぎのように受け流したのだった。
「ええやん。そんな御堅い送り先でも無いんやろ?」
ついでに逃げの矛先を逸らすのに託けて、城島が話題を広げる。
いや、けれどそういえば確かに、と城島の台詞に思い当たった松岡が案の定首を傾げた。
まず、一番最初に聞いておくべきポイントだったかもしれない。
「そういや……その手紙、誰に送んの?」
松岡がわずかに躊躇して尋ねる。
気楽に聞ける送り先なのかどうか、余分な想像をしてしまったせいなのだが、意気揚々と立ち上がった長瀬は、待ってました、とばかりに振り向き様2人に対して笑顔で答えた。
「“太一くん!”」
よし、今なら書ける――オレは書ける!!
そんな台詞を顔面いっぱいで表現しながら、長瀬は縁側下のサンダルを引っ掛けて、爽やか燦々秋晴れの下を、便箋1枚持って、超全力で走り出したのだった。
さりとて、城島は以前、黙々と煎茶を啜り続けている。
郵便手紙って、そんなに身近な相手に贈るものだっただろうか。
確か来週初めにも、バラエティ番組の収録でメンバー5人、顔を合わせるはずだと思ったが。
何だか色々と腑に落ちなかったが、横を見るとどうやら松岡も靄々としているようで、けれど、意図せずアイドルスマイル全快な長瀬が存外に楽しそうなので、まぁいいかと、とりあえず両名、納得するに至った。
明るい縁側に残ったのは、飾り気のない封筒と、便箋もう1枚と、転がる総勢12本の鉛筆。
鉛筆。
「あいつ……鉛筆、忘れて行きやがったよ」
あれでは、結局、書けず終いに戻ってくること確実だろう。
松岡は「バカだねー」を2回繰り返したあと、居間へ戻ろうと腰を上げた。
いや、立ち上がり膝を折りたたんだところで、止まった。
居間へ向かおうともせず、その中途で、そわそわとしている。
城島は、落ち着きのない松岡の姿を、煎茶の湯気の向こうに見ている。
鉛筆を忘れて走り出して行った男、まだ戻ってこない。
「……あーバカ。本当バカ……長瀬ッ、お前鉛筆忘れてどうするー!」
ついに生来の心配性気質に飲まれた松岡が、鉛筆を1本乱暴に掴んで、長瀬の後を追いかけて行った。
2分経過。
そろそろ松岡も追い着いた頃だろう。
長瀬に鉛筆を投げつけて(訳:忘れ物を届けてやって)、彼を引きずっているか、もしくは引きずられている(訳:二人して里山を散策している)に違いない。
それからあと30分は戻って来ないので、収録再開の頃にスタッフが大慌てで探しに行くだろう。
それでもって、便箋は、絶対に白紙のままだ、きっと。
今日の勘は冴えている。
城島が1人、小さな優越感に浸っていると、畑の方から山口がやってくる。
「あん? 長瀬どこ行きやがった? もうすぐ収録再開……つーか、そういや、さっき松岡、すげェ速さで走ってったけど……何それ」
「…………うん、長瀬が手紙にハマったようやな」
「いや、違う。その遠い目のこと」
「そうかこの電子化の時代に手紙かー……長瀬も大人になったなぁ」
「ああ、老い先短いアナタの今後の指針についてだな」
「何でやねん。先は長いわ」
そんな当たり障りの有りそうで無い会話をしながら、山口も縁側に腰掛ける。
丁度、近場に置いてあった白い便箋が目に入ったらしい。手に取って眺めている。
「何だ、白紙じゃねーか。手紙でも書いてるのか?」
「長瀬が、太一に出すそうやで」
「はあ。へぇ……」
やはり、山口も微妙につっかえがあったようだが、詮索することなく便箋を元の位置に戻した。
「お茶持ってこよか」
と、数分後、城島が煎茶を取りに行って再び戻ってくると、件の縁側は、近いうちに見覚えのある光景になっていた。
山口はいつのまにか、先ほどの長瀬と似たような格好で便箋と向かい合っていたのだ。
長瀬と違う点はと言うと、既に白紙だった便箋には、2、3文字が書き始められていたことくらいか。
煎茶の湯呑みを置きあぐねて、城島はその光景に見入っている。
「手紙、書くん?」
城島の呼びかけに、はたと気がついた山口の動きが止まる。
気付かれた、何故だかそんなバツの悪そうな顔をしていた。
どうやら、手紙を書くことに集中する人間は、周りが見えなくなるものらしい。
「あ、いや……白紙ってのも、何だなぁ、と思って」
「ずるいわぁ。僕にも何か書かせてな」
「太一に書くんだろ? えーと、そうだなぁ……」
行頭の1文をようやく書き終わって、山口から鉛筆をバトンタッチされる。
城島は、さらに1文を書き加えた。
これで2行埋まったが、便箋は、あと13行ほど残っている。
実に、13行も残っている。
城島は、鉛筆を止めた。
「……意外と埋まらんもんやね」
「書くこと、結構あると思ったんだけどな」
「何あったっけ」
「村での出来事でしょ? 今日は収穫で……きゅうり、ピーマンと……かぼちゃはまだまだだよな……」
結局、長瀬と同じような状況になってしまった。
「……最近、村行ってないんだよねー」
「太一くん、その発言さぁ……明らかに可笑しいとか思わない?
何かオレらの職業の対岸にあるとか思わない?」
相方の笑いを含んだ声が、ふわふわと(よりリアルに形容するとドサドサと)、2人だけの楽屋に降り積もっている。
かく言うお前もタキシード着込んでプロより上手いグルメ紹介に愛想振りまいてるじゃねぇか、と長い長いつっこみが思い浮かんだが、長かったので止めておいた。
太一は、番組の収録で、とあるテレビ局の楽屋に控えていた。
5人揃っての収録の時はあんなに窮屈な楽屋も、1人だと持て余すほどに広く感じる。
と、おそらく同じことを思っているのだろう相方が、隣部屋から先ほど転がり込んできた。
基本的に団体行動が常の自分たちが、どちらかに固まろうとする習性である。
せっかく御好意でもって個別で与えられている楽屋なのだから、広々と使っても良いものだが、逆に妙に落ち着かないのでは、本末転倒な気もしないでもない。
大部屋で雑魚寝スタイルのような楽屋の方が、いっそ清々しいだろうか。
村には楽屋なんてないなぁ、と思い立ち、冒頭のつぶやきに至った次第だ。
仕事を貰えることは素直に嬉しい。
村へ行く回数が反比例するのは、当然で仕方ないにしても、やはり寂しいのだ。
それも仕事の一つであるという理屈以前に、ホームに戻ろうとする帰巣本能に匹敵する。
相方の言う通り、仕事と一括りに捉えるには、少し可笑しいのかもしれない。
寝そべった視線の先は、空ではなくて白壁の天井だった。
「だってー……この間なんてさー、俺だけなんだよ」
「ああ、他の奴らは行ってるの?」
「悔しいんだもーん」
「そう思うなら仕事減らせばいいのに……てゆかオレに分けて頂戴」
「うん」
「嘘」
「うん」
あまり内容の無い会話になっていた。
「ああ……そういや、だ」
太一は思い出したように起き上がると、実際今しがた思い出した、1通の手紙を取り出す。
家を出る直前に気がついたために、忙しくて未開封だった。
相方が、匍匐前進で近づいて来る。
「ん? どーしたのそれ。何かのダイレクトメール……じゃないね手紙?」
「家に届いてたんだよ」
「ええ? 誰から?」
あまりに味気ない封筒だったので、傍目に果たし状のようにも見えたのだろう。
急に背筋を正して起き上がった相方に、太一は苦笑する。
「いや、そんな真面目なもんじゃないと思う。だって、ほら」
と、封筒の差出人欄を見せてやった。
住所が書かれていなかった。
代わりにいつぞやの歌謡名曲のような捨て台詞と共に、
4人、という数詞と、村、という特定のない固有名詞とが書かれてあった。
別に、暗号文などではない。
残暑見舞い、とでかでか墨字で男臭く書き殴られた表書きを見たら、まさか深刻な内容では、と一瞬でも勘繰った自分が馬鹿らしくなるほどだ。
相方も気付いた。
「あれ? もしかしてこれ、アナタのとこのメンバーからなの?」
「アホだろ。小学生みたい」
「えーいーじゃん。面白ぇ。中身は? 中身は何?」
相方が興味津々でせっつくので、太一は封筒を開けてみた。
三つ折の便箋が1枚だけ入っている。
ああ、封筒に仕掛けはないのか、と妙なところで安堵した。
逆さにして無造作に揺すると、はらりと白紙の便箋が舞い落ちてきた。
「……?」
さすがに不思議に思いつつも、拾い上げる。
なにひとつ記されていない、真っ只白紙の便箋、かと思いきや。
よくよく見ると、上から最初の数行だけ、ちゃんと文字が書き込まれていた。
一応のところ、手紙のようだった。
横から細目が、何事かと、細目で覗き込んでくる。
「なんだ。ほとんど白紙じゃん。書き忘れ?」
「ん。んん? あー……あれ?」
初めこそ本当に書き忘れだと思っていたのだが
(あの4人のことだ、1枚入れ忘れたとかいう単純ミスも、ごく普通に起こしそうだ)、最初の4行を目で追って、すぐに違うことに気付いた。
それは、何だかんだで愛し愛され方を心得るメンバーという存在への、伝わることを期待して封した、短くて長い手紙だ。
かすかに残る村の気配。
大勢の人と、4人と、5人の時間。
「あー……村だぁ」
水面に言葉が浮かび上がる。
「かぼちゃはもうちょっとかかるのかぁ。きゅうり取ったんだ、いーなぁ……」
「なに、農作物座談会?」
「や。ざまあみろ、ってさ」
太一は、ついに笑い出してしまった。
相方が、はあと意味解らない風に首を傾げたので、8割白紙の便箋を放ってやる。
“夏はまだまだ続きそうです。”
“縁側は暑いです。今は休憩時間です。”
“きゅうりとれました。ピーマンとれました。かぼちゃはもうちょっとです。”
“うさぎとせみと、水車小屋。”
畏まった文体のくせして、そこで、たった4行の手紙は終わっているのだ。
余白は埋まらなかったらしい。
中途半端に11行だけ残された白い便箋。
伝われ。
余白部分にそう願掛けして、彼らはポストに投函した。
目に付いたものを書き留めるだけでは、納得出来なかったのだ。
本当に伝えたいのは、その日起きた出来事でも、その日見た風景でもなく、その日あった空間だ。
翻訳すると、たぶん、つまりこういうことだった。
――“だから、早く来い。”
「読書感想文だったら、マイナス10点ね」
「あっはは! 何これ!? アイツら、らしいわ!」
「ああもう。小学生の作文じゃねーんだから、もうちょっとマシな文章書けっての」
もはや揚げ足取りすらも、自分で笑えてしまうくらいに温かい。
ああもう、と同じで意味の違う溜め息を、知らず知らずのうちに吐いていた。
そうだった。
少なくとも自分たちは、こういうグループだったのだ。
「覚えとけあいつら」
感謝、などとありきたりな言葉では足り無すぎた。
この表現しきれない気持ちを詰め込んで、無地の手紙で返してやりたかった。
伝わるだろうか、なんて疑問系で終わらせるのでは後味が悪い。
伝われ。
相方に気付かれるのが照れ臭くて、太一は、用事のない小銭入れをポケットにつっこんだ。
「ってか、明日、会うんだけど収録。どうする? 俺、返信とかした方がいいのかな?」
「何それ! もう10年来の同窓会の誘いみたいな! 何それ! 文通じゃん!!」
せかせかと自販機に避難しようとする後ろ姿、皮肉混じった最後の悪あがきに向けて、大声で笑い転げてやる。
ひとしきり楽屋内をコロコロと回ってから、最後にようやく落ち着いた卓の傍で、煎茶をじじくさく啜って、そして、去り際の彼に一言投げかけておいた。
「でもね。そういうの、たまに、めちゃくちゃうらやましいのよね、オレら」
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