その青年を最初に見たのは、太一くんがニューヨークに行ってしまう少し前のこと。
研究発表を終えたばかりのオレと、同じ研究室の先輩・太一くんと、リーダー・こと室長の茂くん。
どこにでもあるような小さな公園の中を、3人、ぷらぷらと歩いていた。
春に、太一くんはニューヨークへ出向することになっていた。
この研究室にかつて在籍していた、もう1人の先輩・山口くんは、去年の終わりに一足早く旅立っていた。
山口くんは、昔は兄ぃと呼んで慣れ親しんだ、オレの従兄でもある。
ニューヨークで暮らす彼のつてを、頼るのだそうだ。
オレは太一くんに並んで歩き、その後ろに少し遅れて、リーダーがのんびりと続く。
リーダーは誰にでも優しいし、何にでも柔らかい。
生物学の博士としては、向いていないのじゃないかと、もどかしくなるほどに。
「茂くんにとってはねぇ、人間も犬も猫も、ヘビもトンボもペンギンも桜の木も。もう全部同じなの。愛すべき動物のうちの、1種類にすぎないんだろうね」
何だか拗ねたように、けれども身内を自慢するような誇らしさをちらりと見せて、太一くんは笑う。
いつも笑っているわけではないのに、嬉しそうな顔だけが印象にあるせいか、彼の笑顔はまるで玩具を選ぶ子供のようで。
そのくせ、くっきりとした輪郭を描く瞳は、ときどき驚くほど大人びて見える。
オレより3つも年上なのに、小鳥のように気まぐれで、中身も外見も遊び道具にあふれていて。
けれど、本音、オレは憧れていた。
リーダーの方はと言うと、オレのようにあからさまな信頼を太一くんにぶつけることは無い。
意識して、距離を保っているようでもあった。
それでいて、いつも最後に、太一くんの側にいた。
この人は、穏やかな空に似ていると思う。
リーダーは、山口くんと、よく研究と称して旅行に出かけていた。
どこか南の島の、7色の鳥の羽、砂漠の名も無い植物、そういった宝物をひとつ持ち帰っては、2人して、そのたびに“とっておきの話”を作り出す。子供だましだと、頭では解っているはず。
ところが、リーダーと山口くんの“とっておきの話”を聞いているオレは、無関心さを装いつつ、しきりに瞬きしているのだと、あるとき太一くんに指摘された。
その通りなのだろう。
たぶん、リーダーと太一くんと、今は遠く離れた空の下の山口くんとは、とても良く似た心の奥底を共有していて、言葉にしないでも伝わるわずかなものがあって。
だからオレには少しだけ、3人が眩しかったのだ。
春の、出来事だった。
「松岡、おい、松岡……あーマボってば!」
「へ? 何、太一くん」
本当に暖かくて良い陽気だったから、呆けていたのは事実。
太一くんは、楽しみ混じりで不機嫌そうに、肩を落として見せる。
「あのさぁ、マボ……俺がいなくなったら研究室支えられるのは、お前だけなんだぞ? 大丈夫か?」
「……ちょっと、リーダーは? いるでしょー、もう1人そこに。ポケーとした人が」
「あれはダメ。数になんない」
「そんな言わんといてや……中間管理職も大変なんやから」
ひょこりと後ろから、リーダーの声が飛んでくる。
小さな公園には、ブランコと鉄棒、すべり台と砂場がある。
思い思いに遊ぶ小さな子供が、4、5人。
彼らの一部に走る、奇妙な緊張感。
その原因にいち早く気付いたのは、リーダーだった。
リーダーはいつでも、真っ先に色々なことに気がつく。
ふと立ち止まった彼の視線の先に、ブランコで遊ぶ少女がいる。
キイ、キイというブランコをこぐ音に混じって、少女はつぶやく。
「変なの」
1番背の高い鉄棒に、器用に腰掛ける青年が1人。
年のころは読み取れないが、まず子供という年齢では無いだろう。
不思議だった。まず一番高い鉄棒に腰掛けること自体、不思議だった。
ブランコの少女の視線はまっすぐに、その青年に向けられている。
「変なの」
青年は野球帽を目深に被っているためか、目線も、表情すらも読めない。
黙ったまま、ぴくりとも動かない。
ある意味、肝の座った子供かもしれない。
得体の知れない青年に、平気で罵言を吐けるのだから。
「変なの」
無邪気で、ひどく意地の悪い声が響く。
からかいの言葉が、徐々に悪意に変わろうとする矢先、太一くんがブランコの鎖を止めた。
キ、と無理に止まったブランコに、少女がびくりと顔を上げる。
「オトナをからかうな」
「こらこら……キツイこと言うなや」
横やりから制しておきながら、リーダーは不意に少女に近づいた。
「なぁ? どうして、そんなこと言えるの? おじちゃんに、教えてくれん?」
静かに、薄紅の桜を思わせる優しい声で言って、にこりと笑う。
リーダーの言葉は、どんな詰問よりも、子供に重かっただろう。
よほど、そちらの方がキツイ。
理由なんてなかったのだ。
子供特有の悪意と好奇、その伝染。
気まずい雰囲気を敏感に察した子供が、声を上げて泣き出した。
リーダーが刹那、困惑する直前。
空間の真中を、小気味良い口笛の音が通りすぎる。
皆の視線が、口笛の主、鉄棒の青年に集中した瞬間、
彼は、被っていた野球帽を空高く放り上げた。
目で追う野球帽が、スローモーションのように旋回する。
青年は両足だけを鉄棒に引っ掛けて、真っ逆さまにぶら下がったかと思うと、勢いで1回転。
見事に地面に降り立った。
帽子が落ちてくる。
片手でキャッチした青年は、1番背の高い鉄棒が見合うほどの長身に、鼻筋の通った顔立ち。
ついさっきまで泣いていた子供も、あんぐりと口を開けたまま、その曲芸に見入るしかない。
鉄棒青年はにっこり、満面の笑みを浮かべて、帽子を持つ手を胸に掲げ、
芝居掛かった仕種で丁寧に一礼した。
深く被りなおした野球帽に、見えない目元は微笑んだまま。
青年は悠々と去って行った。
背の高い後姿は、公園に春の風がなだれこむのに気を取られた隙に、見えなくなっていた。
キイ、とブランコが揺れ始める。
「……変なヤツ」
ぽつりと、オレがそうつぶやくと、笑いをこらえていた太一くんが、ついに吹き出したようだった。
フリージング・サマー
気持ちの良い春の日だった。研究発表を終えたばかりのオレと、同じ研究室の先輩・太一くんと、リーダー・こと室長の茂くん。
どこにでもあるような小さな公園の中を、3人、ぷらぷらと歩いていた。
春に、太一くんはニューヨークへ出向することになっていた。
この研究室にかつて在籍していた、もう1人の先輩・山口くんは、去年の終わりに一足早く旅立っていた。
山口くんは、昔は兄ぃと呼んで慣れ親しんだ、オレの従兄でもある。
ニューヨークで暮らす彼のつてを、頼るのだそうだ。
オレは太一くんに並んで歩き、その後ろに少し遅れて、リーダーがのんびりと続く。
リーダーは誰にでも優しいし、何にでも柔らかい。
生物学の博士としては、向いていないのじゃないかと、もどかしくなるほどに。
「茂くんにとってはねぇ、人間も犬も猫も、ヘビもトンボもペンギンも桜の木も。もう全部同じなの。愛すべき動物のうちの、1種類にすぎないんだろうね」
何だか拗ねたように、けれども身内を自慢するような誇らしさをちらりと見せて、太一くんは笑う。
いつも笑っているわけではないのに、嬉しそうな顔だけが印象にあるせいか、彼の笑顔はまるで玩具を選ぶ子供のようで。
そのくせ、くっきりとした輪郭を描く瞳は、ときどき驚くほど大人びて見える。
オレより3つも年上なのに、小鳥のように気まぐれで、中身も外見も遊び道具にあふれていて。
けれど、本音、オレは憧れていた。
リーダーの方はと言うと、オレのようにあからさまな信頼を太一くんにぶつけることは無い。
意識して、距離を保っているようでもあった。
それでいて、いつも最後に、太一くんの側にいた。
この人は、穏やかな空に似ていると思う。
リーダーは、山口くんと、よく研究と称して旅行に出かけていた。
どこか南の島の、7色の鳥の羽、砂漠の名も無い植物、そういった宝物をひとつ持ち帰っては、2人して、そのたびに“とっておきの話”を作り出す。子供だましだと、頭では解っているはず。
ところが、リーダーと山口くんの“とっておきの話”を聞いているオレは、無関心さを装いつつ、しきりに瞬きしているのだと、あるとき太一くんに指摘された。
その通りなのだろう。
たぶん、リーダーと太一くんと、今は遠く離れた空の下の山口くんとは、とても良く似た心の奥底を共有していて、言葉にしないでも伝わるわずかなものがあって。
だからオレには少しだけ、3人が眩しかったのだ。
春の、出来事だった。
「松岡、おい、松岡……あーマボってば!」
「へ? 何、太一くん」
本当に暖かくて良い陽気だったから、呆けていたのは事実。
太一くんは、楽しみ混じりで不機嫌そうに、肩を落として見せる。
「あのさぁ、マボ……俺がいなくなったら研究室支えられるのは、お前だけなんだぞ? 大丈夫か?」
「……ちょっと、リーダーは? いるでしょー、もう1人そこに。ポケーとした人が」
「あれはダメ。数になんない」
「そんな言わんといてや……中間管理職も大変なんやから」
ひょこりと後ろから、リーダーの声が飛んでくる。
小さな公園には、ブランコと鉄棒、すべり台と砂場がある。
思い思いに遊ぶ小さな子供が、4、5人。
彼らの一部に走る、奇妙な緊張感。
その原因にいち早く気付いたのは、リーダーだった。
リーダーはいつでも、真っ先に色々なことに気がつく。
ふと立ち止まった彼の視線の先に、ブランコで遊ぶ少女がいる。
キイ、キイというブランコをこぐ音に混じって、少女はつぶやく。
「変なの」
1番背の高い鉄棒に、器用に腰掛ける青年が1人。
年のころは読み取れないが、まず子供という年齢では無いだろう。
不思議だった。まず一番高い鉄棒に腰掛けること自体、不思議だった。
ブランコの少女の視線はまっすぐに、その青年に向けられている。
「変なの」
青年は野球帽を目深に被っているためか、目線も、表情すらも読めない。
黙ったまま、ぴくりとも動かない。
ある意味、肝の座った子供かもしれない。
得体の知れない青年に、平気で罵言を吐けるのだから。
「変なの」
無邪気で、ひどく意地の悪い声が響く。
からかいの言葉が、徐々に悪意に変わろうとする矢先、太一くんがブランコの鎖を止めた。
キ、と無理に止まったブランコに、少女がびくりと顔を上げる。
「オトナをからかうな」
「こらこら……キツイこと言うなや」
横やりから制しておきながら、リーダーは不意に少女に近づいた。
「なぁ? どうして、そんなこと言えるの? おじちゃんに、教えてくれん?」
静かに、薄紅の桜を思わせる優しい声で言って、にこりと笑う。
リーダーの言葉は、どんな詰問よりも、子供に重かっただろう。
よほど、そちらの方がキツイ。
理由なんてなかったのだ。
子供特有の悪意と好奇、その伝染。
気まずい雰囲気を敏感に察した子供が、声を上げて泣き出した。
リーダーが刹那、困惑する直前。
空間の真中を、小気味良い口笛の音が通りすぎる。
皆の視線が、口笛の主、鉄棒の青年に集中した瞬間、
彼は、被っていた野球帽を空高く放り上げた。
目で追う野球帽が、スローモーションのように旋回する。
青年は両足だけを鉄棒に引っ掛けて、真っ逆さまにぶら下がったかと思うと、勢いで1回転。
見事に地面に降り立った。
帽子が落ちてくる。
片手でキャッチした青年は、1番背の高い鉄棒が見合うほどの長身に、鼻筋の通った顔立ち。
ついさっきまで泣いていた子供も、あんぐりと口を開けたまま、その曲芸に見入るしかない。
鉄棒青年はにっこり、満面の笑みを浮かべて、帽子を持つ手を胸に掲げ、
芝居掛かった仕種で丁寧に一礼した。
深く被りなおした野球帽に、見えない目元は微笑んだまま。
青年は悠々と去って行った。
背の高い後姿は、公園に春の風がなだれこむのに気を取られた隙に、見えなくなっていた。
キイ、とブランコが揺れ始める。
「……変なヤツ」
ぽつりと、オレがそうつぶやくと、笑いをこらえていた太一くんが、ついに吹き出したようだった。
→ NEXT 2.