日はとっぷりと暮れていた。
リーダーは、納骨先と、墓地の場所を書き留めたメモを残して、帰っていった。
テーブルの中央に、裏返しのまま置かれた、手帳の切れ端。
見れるわけがない。
食欲など無いに等しかったが、生活リズムさえ守れば、自分を保てるような気がしたのだ。
眠ってしまいたい。
何も考えずに、深く深く。今は眠ってしまいたい。
ベッドの上に無理やり寝込むと、どこか遠くで、電話のベルの音が聞こえる。
隣からかもしれない、あるいは上の階だろうか。
夏の夜は、近隣の物音が、とくに良く聞こえる。
……大波、小波、風吹きゃ回せ……
ばあちゃん家には、ゲーム機なんて無かったから、もっぱら遊び道具と言えば、そのへんに落ちた木の枝や、縄の切れ端だった。
子供ながらに自在に、無限に遊びを増やせた。
そうだ、あれは、大縄跳びの歌、だ。
何となくそのリズムが気に入ってしまって、兄ぃとぐるぐる、手が痛くなるまで縄を回したっけ。
昔を思い出すなんて走馬灯のようではないか。
自嘲ぎみに、もう一度寝返りをうつ。
それ、まーわせまわせ……大波、小波……
ぼんやりと漂う空気の中で、遠いどこかの電話のベルが、やがて諦めたように沈黙した。
無音の空間。
鋭い刃物で切り取られたかのような時間の中に、オレはまた、一人取り残されている。
一人? いや、違う。
ベッドの上から、かすかに身を起こす。
灯りの消えた室内の中に、水のように透明な気配をまとう、誰かがいた。
「……寝てるの、マボ?」
鉄棒青年。
もう不法侵入で訴えてやろうかと思った。
オレは背伸びするフリをして、毛布に潜り込む。
「寝てるよ。寝てるから、早く出てって」
「じゃあ、寝たままでいいから、オレの話を聞いて」
そう前置きしてから、青年の声はしばらく聞こえなくなった。
オレの返答が無いことを、承諾、と取ったのか、ぽとりぽとりと、暗い室内に声が落ちてくる。
「ねぇ、太一くんは……山口くんや、リーダーと一緒に、何で、あんなことをしたんだろうね」
暗闇に慣れた目を開けると、部屋の隅に青年がぽわんと立っていて、答えを待っていた。
オレのため……だったんだろうな。
ある日、突然ぷつりと断ち切られるよりは、だんだん遠ざかって行って見えなくなるような。
そんな離れかたの方が、オレも傷つかない。みんな、そう考えた。
心の中のつぶやきが聞こえているかのように、
青年はこくりとうなずいて、そして小さく首を横に振る。
そう、だけど、それだけじゃない。
「太一くんはね、怖かったんだ。自分が死んでしまうことじゃなくて、マボに忘れられてしまうことがね」
青年の気配が、水のように揺らめく。
「大切な誰かから忘れ去られる、っていうことは、太一くんにとって、殺されるのと同じことだったんだ。だから、あんな手紙を書いたんだよ。忘れないで、って。いつか、マボのところに手紙が届くことを、願って」
――コロサナイデ、オレヲコロサナイデ。
「オレが、太一くんのこと忘れたりするわけねーだろ」
思わず、叫んでいた。
部屋に対して独り言を言っているかのようだった。
あるいは、そんなはずが無いと、自分に言い聞かせるまじないごとだった。
「本当に、そう?」
暗闇の中で、青年がささやくように、小さくつぶやく。
「本当に、忘れてしまっているヒトはいない? 記憶の中で、殺してしまっているヒトはいない?」
「……いない」
「じゃあ聞くけど」
消え入りそうな声が、部屋の隅で動いたようだった。
「マボ、言ったよね。昔、おばあちゃんの家で、兄ぃと……山口くんと遊んだって。川で泳いだり、自分たちで遊び道具を作って。麻の縄で手が痛くても、大縄跳びで遊んでたって」
それ、まーわせまわせ、大波、小波、風吹きゃ回せ……
ばあちゃんに教わった、大縄跳びの歌。
青年は、またもオレの心内を読み通すように、歌の合間に声を挟む。
「ねぇ、マボ。あれは、“大縄跳び”の歌なんだよ?」
記憶の端々にある風景が、頭の中で再生している。
兄ぃと2人、回してた麻の大縄。
「それが、どうしたんだよ」
オレの声は、心細さに負けて宙に消える。
ややあって、かすかな声が、闇の中から返って来た。
本当にあの鉄棒青年なのかと疑うくらいに、今にも、消え入りそうだった。
「……2人では、大縄跳びは出来ないんだよ」
大縄の端の一方をオレが、もう一方を兄ぃが握って、ぐるぐる回していて。一応、男だからとか変な理由で、無理やりにリズムを速くして、回していたんだ。
そんなに速く回したら跳べないと、文句を言われた。
それで毎回喧嘩になって、いつも兄ぃが止めに入ってた。
……真ん中で跳んでいたのは、誰?
夜の静けさにこだまする、救急車のサイレンが嫌いだった。
水の中でもがくような、圧迫感を持つ夢をみるたびに、心が騒いだ。
夏の終わりが、嫌いだった。
『……可哀相に』
『昨日の台風で、水かさが増えていたから……』
『あんなに元気な子だったのに』
大人たちがざわめく界隈で、オレは小さく縮こまって、
『マボ、大丈夫だから……あいつは、大丈夫だから』
兄ぃが呪文のように繰り返す言葉も、ただただ、聞き流すしかなかった。
不吉な水音、遠ざかる救急車のサイレン、何かの糸が解れ落ちた心の針。
その後の記憶にあるのは、作り物のような入道雲と、青いペンキで塗りつぶした空ばかり。
空白の時間が落ちてくる。
あの子が戻ってくるのを、ずっと待っていたのに、代わりに白い木箱が届いた。
「弟が……いたんだ」
青年が、オレを“おにーさん”と呼ぶたびに、奇妙な苛立ちを覚えていた。
“マボ”と呼ばれたとき、昔馴染みのような奇妙な懐古を覚えていた。
「オレがちっちゃい時に、川で遊んでいて」
台風の後、だった。
暑さもそろそろ和らいでくるかの、夏の終わり。
川で、遊んでいたのだ。いつものように、はしゃいでいたのだ。
オレと、兄ぃと、弟の3人で。
少しだけ速い川の流れも、少しだけ増した水かさも、全部が、子供の好奇心をそそる遊び場にしか見えなかった。
「死んだんだ、川で溺れて……死んだんだ。何で忘れてたんだろ。何で、忘れてたんだろ」
熱に浮かされたように、オレは一人でしゃべり続けていた。
小さな、弟だった。
オレの後を一生懸命ついてくる、可愛いやんちゃな弟だった。
あのころ兄ぃと3人で、一緒に遊んで、笑って、ときどき喧嘩もして。
確かに、存在していたはずの、弟。
何度目かの夏、オレの目の前で、濁流に飲み込まれるまでは。
何て、呆気なかったのだろう。
弟が大好きだった。
そりゃあ、ときどきは喧嘩して、玩具も取り合って、叩きあってたけど。
とても大切に思っていた。
けれど、“忘れていた”という単純な事実の前では、思い出もすべて色褪せてしまう。
「ヒトの心は、脆いんだよ。自分で思っているより、ずっと」
暗闇の声が、なぐさめるように続ける。
ひどく淡く、虚空に漂う声で、オレの頭に静かに響いている。
「あまりにも辛いことがあると、心の安全装置が働いて……そのことだけを、消してしまう。綺麗、さっぱりとね」
ちょうど、留守番電話の、メッセージのように、ボタンひとつで消えてしまう。
辛い記憶も、嫌な出来事も、リセットされる。
そして、心は空っぽになる。
確かにあったはずの、楽しい記憶も道連れにして。
“俺を忘れないで。記憶から、消してしまわないで。”
太一くんが願っていたのは、ただ、そのことだけだった。
リーダーが、そして兄ぃが、太一くんに協力したのは、その気持ちが痛いほどに解っていたから。
過去に一度、オレがリセットボタンを押すところを、見てしまっていたから。
命が他人より早く終わってしまうのは、仕方の無いこと。けれど、忘れ去られることは――
ぼんやりと霞む眼の奥に、思い出の中の弟が、今鮮やかに甦る。
オレの胸の上を塞いでいた重苦しく冷たい氷が、少しずつ溶けて、流れていこうとしていた。
「……なぁ」
部屋の隅にいるはずの気配に向かって、思い出したように、オレはそう話しかけていた。
「お前、名前は?」
月明かりの射し込まない部屋で、青年が唇を動かした。
ぽつ、と答える。
今までで一番、小さな声だった。
その名前を音に出すと、闇の中で、彼がかすかに微笑むのが見えた。
リーダーは、納骨先と、墓地の場所を書き留めたメモを残して、帰っていった。
テーブルの中央に、裏返しのまま置かれた、手帳の切れ端。
見れるわけがない。
5.
簡単な夕食をすませて、シャワーだけを浴びた。食欲など無いに等しかったが、生活リズムさえ守れば、自分を保てるような気がしたのだ。
眠ってしまいたい。
何も考えずに、深く深く。今は眠ってしまいたい。
ベッドの上に無理やり寝込むと、どこか遠くで、電話のベルの音が聞こえる。
隣からかもしれない、あるいは上の階だろうか。
夏の夜は、近隣の物音が、とくに良く聞こえる。
……大波、小波、風吹きゃ回せ……
ばあちゃん家には、ゲーム機なんて無かったから、もっぱら遊び道具と言えば、そのへんに落ちた木の枝や、縄の切れ端だった。
子供ながらに自在に、無限に遊びを増やせた。
そうだ、あれは、大縄跳びの歌、だ。
何となくそのリズムが気に入ってしまって、兄ぃとぐるぐる、手が痛くなるまで縄を回したっけ。
昔を思い出すなんて走馬灯のようではないか。
自嘲ぎみに、もう一度寝返りをうつ。
それ、まーわせまわせ……大波、小波……
ぼんやりと漂う空気の中で、遠いどこかの電話のベルが、やがて諦めたように沈黙した。
無音の空間。
鋭い刃物で切り取られたかのような時間の中に、オレはまた、一人取り残されている。
一人? いや、違う。
ベッドの上から、かすかに身を起こす。
灯りの消えた室内の中に、水のように透明な気配をまとう、誰かがいた。
「……寝てるの、マボ?」
鉄棒青年。
もう不法侵入で訴えてやろうかと思った。
オレは背伸びするフリをして、毛布に潜り込む。
「寝てるよ。寝てるから、早く出てって」
「じゃあ、寝たままでいいから、オレの話を聞いて」
そう前置きしてから、青年の声はしばらく聞こえなくなった。
オレの返答が無いことを、承諾、と取ったのか、ぽとりぽとりと、暗い室内に声が落ちてくる。
「ねぇ、太一くんは……山口くんや、リーダーと一緒に、何で、あんなことをしたんだろうね」
暗闇に慣れた目を開けると、部屋の隅に青年がぽわんと立っていて、答えを待っていた。
オレのため……だったんだろうな。
ある日、突然ぷつりと断ち切られるよりは、だんだん遠ざかって行って見えなくなるような。
そんな離れかたの方が、オレも傷つかない。みんな、そう考えた。
心の中のつぶやきが聞こえているかのように、
青年はこくりとうなずいて、そして小さく首を横に振る。
そう、だけど、それだけじゃない。
「太一くんはね、怖かったんだ。自分が死んでしまうことじゃなくて、マボに忘れられてしまうことがね」
青年の気配が、水のように揺らめく。
「大切な誰かから忘れ去られる、っていうことは、太一くんにとって、殺されるのと同じことだったんだ。だから、あんな手紙を書いたんだよ。忘れないで、って。いつか、マボのところに手紙が届くことを、願って」
――コロサナイデ、オレヲコロサナイデ。
「オレが、太一くんのこと忘れたりするわけねーだろ」
思わず、叫んでいた。
部屋に対して独り言を言っているかのようだった。
あるいは、そんなはずが無いと、自分に言い聞かせるまじないごとだった。
「本当に、そう?」
暗闇の中で、青年がささやくように、小さくつぶやく。
「本当に、忘れてしまっているヒトはいない? 記憶の中で、殺してしまっているヒトはいない?」
「……いない」
「じゃあ聞くけど」
消え入りそうな声が、部屋の隅で動いたようだった。
「マボ、言ったよね。昔、おばあちゃんの家で、兄ぃと……山口くんと遊んだって。川で泳いだり、自分たちで遊び道具を作って。麻の縄で手が痛くても、大縄跳びで遊んでたって」
それ、まーわせまわせ、大波、小波、風吹きゃ回せ……
ばあちゃんに教わった、大縄跳びの歌。
青年は、またもオレの心内を読み通すように、歌の合間に声を挟む。
「ねぇ、マボ。あれは、“大縄跳び”の歌なんだよ?」
記憶の端々にある風景が、頭の中で再生している。
兄ぃと2人、回してた麻の大縄。
「それが、どうしたんだよ」
オレの声は、心細さに負けて宙に消える。
ややあって、かすかな声が、闇の中から返って来た。
本当にあの鉄棒青年なのかと疑うくらいに、今にも、消え入りそうだった。
「……2人では、大縄跳びは出来ないんだよ」
大縄の端の一方をオレが、もう一方を兄ぃが握って、ぐるぐる回していて。一応、男だからとか変な理由で、無理やりにリズムを速くして、回していたんだ。
そんなに速く回したら跳べないと、文句を言われた。
それで毎回喧嘩になって、いつも兄ぃが止めに入ってた。
……真ん中で跳んでいたのは、誰?
夜の静けさにこだまする、救急車のサイレンが嫌いだった。
水の中でもがくような、圧迫感を持つ夢をみるたびに、心が騒いだ。
夏の終わりが、嫌いだった。
『……可哀相に』
『昨日の台風で、水かさが増えていたから……』
『あんなに元気な子だったのに』
大人たちがざわめく界隈で、オレは小さく縮こまって、
『マボ、大丈夫だから……あいつは、大丈夫だから』
兄ぃが呪文のように繰り返す言葉も、ただただ、聞き流すしかなかった。
不吉な水音、遠ざかる救急車のサイレン、何かの糸が解れ落ちた心の針。
その後の記憶にあるのは、作り物のような入道雲と、青いペンキで塗りつぶした空ばかり。
空白の時間が落ちてくる。
あの子が戻ってくるのを、ずっと待っていたのに、代わりに白い木箱が届いた。
「弟が……いたんだ」
青年が、オレを“おにーさん”と呼ぶたびに、奇妙な苛立ちを覚えていた。
“マボ”と呼ばれたとき、昔馴染みのような奇妙な懐古を覚えていた。
「オレがちっちゃい時に、川で遊んでいて」
台風の後、だった。
暑さもそろそろ和らいでくるかの、夏の終わり。
川で、遊んでいたのだ。いつものように、はしゃいでいたのだ。
オレと、兄ぃと、弟の3人で。
少しだけ速い川の流れも、少しだけ増した水かさも、全部が、子供の好奇心をそそる遊び場にしか見えなかった。
「死んだんだ、川で溺れて……死んだんだ。何で忘れてたんだろ。何で、忘れてたんだろ」
熱に浮かされたように、オレは一人でしゃべり続けていた。
小さな、弟だった。
オレの後を一生懸命ついてくる、可愛いやんちゃな弟だった。
あのころ兄ぃと3人で、一緒に遊んで、笑って、ときどき喧嘩もして。
確かに、存在していたはずの、弟。
何度目かの夏、オレの目の前で、濁流に飲み込まれるまでは。
何て、呆気なかったのだろう。
弟が大好きだった。
そりゃあ、ときどきは喧嘩して、玩具も取り合って、叩きあってたけど。
とても大切に思っていた。
けれど、“忘れていた”という単純な事実の前では、思い出もすべて色褪せてしまう。
「ヒトの心は、脆いんだよ。自分で思っているより、ずっと」
暗闇の声が、なぐさめるように続ける。
ひどく淡く、虚空に漂う声で、オレの頭に静かに響いている。
「あまりにも辛いことがあると、心の安全装置が働いて……そのことだけを、消してしまう。綺麗、さっぱりとね」
ちょうど、留守番電話の、メッセージのように、ボタンひとつで消えてしまう。
辛い記憶も、嫌な出来事も、リセットされる。
そして、心は空っぽになる。
確かにあったはずの、楽しい記憶も道連れにして。
“俺を忘れないで。記憶から、消してしまわないで。”
太一くんが願っていたのは、ただ、そのことだけだった。
リーダーが、そして兄ぃが、太一くんに協力したのは、その気持ちが痛いほどに解っていたから。
過去に一度、オレがリセットボタンを押すところを、見てしまっていたから。
命が他人より早く終わってしまうのは、仕方の無いこと。けれど、忘れ去られることは――
ぼんやりと霞む眼の奥に、思い出の中の弟が、今鮮やかに甦る。
オレの胸の上を塞いでいた重苦しく冷たい氷が、少しずつ溶けて、流れていこうとしていた。
「……なぁ」
部屋の隅にいるはずの気配に向かって、思い出したように、オレはそう話しかけていた。
「お前、名前は?」
月明かりの射し込まない部屋で、青年が唇を動かした。
ぽつ、と答える。
今までで一番、小さな声だった。
その名前を音に出すと、闇の中で、彼がかすかに微笑むのが見えた。