SPECIAL TITLE

 日はとっぷりと暮れていた。
 リーダーは、納骨先と、墓地の場所を書き留めたメモを残して、帰っていった。
 テーブルの中央に、裏返しのまま置かれた、手帳の切れ端。
 見れるわけがない。
5.
 簡単な夕食をすませて、シャワーだけを浴びた。
 食欲など無いに等しかったが、生活リズムさえ守れば、自分を保てるような気がしたのだ。

 眠ってしまいたい。
 何も考えずに、深く深く。今は眠ってしまいたい。

 ベッドの上に無理やり寝込むと、どこか遠くで、電話のベルの音が聞こえる。
 隣からかもしれない、あるいは上の階だろうか。
 夏の夜は、近隣の物音が、とくに良く聞こえる。

 ……大波、小波、風吹きゃ回せ……

 ばあちゃん家には、ゲーム機なんて無かったから、もっぱら遊び道具と言えば、そのへんに落ちた木の枝や、縄の切れ端だった。
 子供ながらに自在に、無限に遊びを増やせた。

 そうだ、あれは、大縄跳びの歌、だ。
 何となくそのリズムが気に入ってしまって、兄ぃとぐるぐる、手が痛くなるまで縄を回したっけ。

 昔を思い出すなんて走馬灯のようではないか。
 自嘲ぎみに、もう一度寝返りをうつ。

 それ、まーわせまわせ……大波、小波……

 ぼんやりと漂う空気の中で、遠いどこかの電話のベルが、やがて諦めたように沈黙した。
 無音の空間。
 鋭い刃物で切り取られたかのような時間の中に、オレはまた、一人取り残されている。

 一人? いや、違う。
 ベッドの上から、かすかに身を起こす。
 灯りの消えた室内の中に、水のように透明な気配をまとう、誰かがいた。

「……寝てるの、マボ?」

 鉄棒青年。
 もう不法侵入で訴えてやろうかと思った。
 オレは背伸びするフリをして、毛布に潜り込む。

「寝てるよ。寝てるから、早く出てって」
「じゃあ、寝たままでいいから、オレの話を聞いて」

 そう前置きしてから、青年の声はしばらく聞こえなくなった。
 オレの返答が無いことを、承諾、と取ったのか、ぽとりぽとりと、暗い室内に声が落ちてくる。

「ねぇ、太一くんは……山口くんや、リーダーと一緒に、何で、あんなことをしたんだろうね」

 暗闇に慣れた目を開けると、部屋の隅に青年がぽわんと立っていて、答えを待っていた。

 オレのため……だったんだろうな。
 ある日、突然ぷつりと断ち切られるよりは、だんだん遠ざかって行って見えなくなるような。
 そんな離れかたの方が、オレも傷つかない。みんな、そう考えた。

 心の中のつぶやきが聞こえているかのように、
 青年はこくりとうなずいて、そして小さく首を横に振る。
 そう、だけど、それだけじゃない。

「太一くんはね、怖かったんだ。自分が死んでしまうことじゃなくて、マボに忘れられてしまうことがね」

 青年の気配が、水のように揺らめく。

「大切な誰かから忘れ去られる、っていうことは、太一くんにとって、殺されるのと同じことだったんだ。だから、あんな手紙を書いたんだよ。忘れないで、って。いつか、マボのところに手紙が届くことを、願って」

 ――コロサナイデ、オレヲコロサナイデ。

「オレが、太一くんのこと忘れたりするわけねーだろ」

 思わず、叫んでいた。
 部屋に対して独り言を言っているかのようだった。
 あるいは、そんなはずが無いと、自分に言い聞かせるまじないごとだった。

「本当に、そう?」

 暗闇の中で、青年がささやくように、小さくつぶやく。

「本当に、忘れてしまっているヒトはいない? 記憶の中で、殺してしまっているヒトはいない?」
「……いない」
「じゃあ聞くけど」

 消え入りそうな声が、部屋の隅で動いたようだった。

「マボ、言ったよね。昔、おばあちゃんの家で、兄ぃと……山口くんと遊んだって。川で泳いだり、自分たちで遊び道具を作って。麻の縄で手が痛くても、大縄跳びで遊んでたって」

 それ、まーわせまわせ、大波、小波、風吹きゃ回せ……

 ばあちゃんに教わった、大縄跳びの歌。
 青年は、またもオレの心内を読み通すように、歌の合間に声を挟む。

「ねぇ、マボ。あれは、“大縄跳び”の歌なんだよ?」

 記憶の端々にある風景が、頭の中で再生している。
 兄ぃと2人、回してた麻の大縄。

「それが、どうしたんだよ」

 オレの声は、心細さに負けて宙に消える。
 ややあって、かすかな声が、闇の中から返って来た。
 本当にあの鉄棒青年なのかと疑うくらいに、今にも、消え入りそうだった。

「……2人では、大縄跳びは出来ないんだよ」

 大縄の端の一方をオレが、もう一方を兄ぃが握って、ぐるぐる回していて。一応、男だからとか変な理由で、無理やりにリズムを速くして、回していたんだ。
 そんなに速く回したら跳べないと、文句を言われた。
 それで毎回喧嘩になって、いつも兄ぃが止めに入ってた。

 ……真ん中で跳んでいたのは、誰?

 夜の静けさにこだまする、救急車のサイレンが嫌いだった。
 水の中でもがくような、圧迫感を持つ夢をみるたびに、心が騒いだ。
 夏の終わりが、嫌いだった。


『……可哀相に』
『昨日の台風で、水かさが増えていたから……』
『あんなに元気な子だったのに』

 大人たちがざわめく界隈で、オレは小さく縮こまって、

『マボ、大丈夫だから……あいつは、大丈夫だから』

 兄ぃが呪文のように繰り返す言葉も、ただただ、聞き流すしかなかった。

 不吉な水音、遠ざかる救急車のサイレン、何かの糸が解れ落ちた心の針。
 その後の記憶にあるのは、作り物のような入道雲と、青いペンキで塗りつぶした空ばかり。
 空白の時間が落ちてくる。
 あの子が戻ってくるのを、ずっと待っていたのに、代わりに白い木箱が届いた。


「弟が……いたんだ」

 青年が、オレを“おにーさん”と呼ぶたびに、奇妙な苛立ちを覚えていた。
 “マボ”と呼ばれたとき、昔馴染みのような奇妙な懐古を覚えていた。

「オレがちっちゃい時に、川で遊んでいて」

 台風の後、だった。
 暑さもそろそろ和らいでくるかの、夏の終わり。
 川で、遊んでいたのだ。いつものように、はしゃいでいたのだ。
 オレと、兄ぃと、弟の3人で。
 少しだけ速い川の流れも、少しだけ増した水かさも、全部が、子供の好奇心をそそる遊び場にしか見えなかった。

「死んだんだ、川で溺れて……死んだんだ。何で忘れてたんだろ。何で、忘れてたんだろ」

 熱に浮かされたように、オレは一人でしゃべり続けていた。
 小さな、弟だった。
 オレの後を一生懸命ついてくる、可愛いやんちゃな弟だった。

 あのころ兄ぃと3人で、一緒に遊んで、笑って、ときどき喧嘩もして。
 確かに、存在していたはずの、弟。
 何度目かの夏、オレの目の前で、濁流に飲み込まれるまでは。

 何て、呆気なかったのだろう。

 弟が大好きだった。
 そりゃあ、ときどきは喧嘩して、玩具も取り合って、叩きあってたけど。
 とても大切に思っていた。
 けれど、“忘れていた”という単純な事実の前では、思い出もすべて色褪せてしまう。

「ヒトの心は、脆いんだよ。自分で思っているより、ずっと」

 暗闇の声が、なぐさめるように続ける。
 ひどく淡く、虚空に漂う声で、オレの頭に静かに響いている。

「あまりにも辛いことがあると、心の安全装置が働いて……そのことだけを、消してしまう。綺麗、さっぱりとね」

 ちょうど、留守番電話の、メッセージのように、ボタンひとつで消えてしまう。
 辛い記憶も、嫌な出来事も、リセットされる。
 そして、心は空っぽになる。
 確かにあったはずの、楽しい記憶も道連れにして。

 “俺を忘れないで。記憶から、消してしまわないで。”

 太一くんが願っていたのは、ただ、そのことだけだった。
 リーダーが、そして兄ぃが、太一くんに協力したのは、その気持ちが痛いほどに解っていたから。
 過去に一度、オレがリセットボタンを押すところを、見てしまっていたから。

 命が他人より早く終わってしまうのは、仕方の無いこと。けれど、忘れ去られることは――

 ぼんやりと霞む眼の奥に、思い出の中の弟が、今鮮やかに甦る。
 オレの胸の上を塞いでいた重苦しく冷たい氷が、少しずつ溶けて、流れていこうとしていた。

「……なぁ」

 部屋の隅にいるはずの気配に向かって、思い出したように、オレはそう話しかけていた。

「お前、名前は?」

 月明かりの射し込まない部屋で、青年が唇を動かした。
 ぽつ、と答える。
 今までで一番、小さな声だった。

 その名前を音に出すと、闇の中で、彼がかすかに微笑むのが見えた。
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