SPECIAL TITLE

 青く細い線で書かれた、たった1行の文章を、リーダーが遅く目で追っている。
 黒いソファーに座って、とりあえずと出された紅茶に少しも手を付けずに。

 何度か読み返すのを、オレは窓際に立ったまま、辛抱強く待つ。
 リーダーが顔を上げるのを、待つ。

「……何やのこれ? おまじない……いや悪戯にしては、物騒なこと書いてあるなぁ」

 リーダーは陽気に、そう言った。
 あるいは、そう言わざるを得なかった、のかもしれない。
 オレが次の言葉を探そうと、ふと目をやった窓の外は、夕闇の紅に染まり始めている。

「……鳩が、持って来た」

 ――伝書鳩。
 オレの言葉に、リーダーの表情が一瞬にして固まるのがわかった。
 ゆっくりと左右に揺れる目線が、何とも合わせられずに床に落ちる。

 ああ、間違い無い。
 たぶん、この人は、全て知っているのだ。
4.
 今朝方、迷い込んできた1羽の鳩。
 そして、不思議な鉄棒青年。
 思えば、それが全ての発端であり、奇しくも、全ての幕切れとなった。

「ねぇマボ、何で太一くんは、そんな手紙をマボのところに届けたんだろうね」

 冷蔵庫を閉めるのも忘れて、オレはゆっくりと体を向けた。
 あの伝書鳩の持って来た奇妙な手紙、その差出人は、『太一くん』だと。
 さも当然のように青年は言ってのけたのだ。

 もちろん、我に返ったオレは、すぐに笑い流した。

「何言って。あれは、ただの鳩だぜ? 迷い鳩。どっかの誰かから、どっかの誰かへ宛てた手紙。ま、悪戯だろうけどさ」
「マボ、全然わかってないみたいだね。あれは“伝書鳩”なんだよ?」

 教え子を諭すような口調だった。
 オレも、思わず声を荒げる。

「わかってるよ、そんくらい」
「わかってないよ」

 対して青年は、怒るような様子もなく、ふわりと傾げた首と、小さな吐息のあとに続ける。

「ねぇ、伝書鳩っていうのは、動物の帰巣本能を利用したものなんだよ。動物は、すごく正確な帰巣本能を持ってる、って聞いたことあるでしょ?」

 例えば、シャケ。魚の鮭。産卵のときに、自分が生まれた川に帰るという話。
 それくらい、ひとつ知識にある。

「それと一緒でー、鳩がどんなに遠いところで放されても、自分の生まれたところに帰ってくる……っていう帰巣本能を利用してるの。それが、“伝書鳩”。どこにでも届くワケじゃないんだよ」

 まるで生物学者を思わせる説明を、つらつらと、ごく自然に紡ぐ青年に、オレも立ち尽くしたまま、聞き入ってしまった。

「……つまり、さっきの鳩は、この部屋で生まれた鳩……ってこと、か?」
「んー、もう少し言うと、太一くんが、その飼い主だったってこと」

 オレンジジュースのコップを遊ばせながら、青年が、部屋を見やった。
 傷一つ無い、アイボリーホワイトの壁紙と、フローリング。

「このマンション、新築の分譲だからね。太一くんより前に、この部屋で鳩を卵から孵した人って……いないんじゃないかなぁ」

 反論の余地が無かった。
 そうする意味が無かったのだが、どうにかして揚げ足を取ろうと、躍起になっている自分がいる。

「だから、その手紙は、太一くんからマボに宛てたものなんだよ」

 青年が、オレの手にある手紙を指差す。

「……嘘だ。こんな変な手紙、太一くんが出すワケねーじゃんよ。変、ぜってー変だって。太一くんのはずが無ぇよ」

 何度も何度も否定の言葉を口にしてしまってから、オレはこの青年との、最初の出会いを思い出す。

 “変なの”
 小さな公園にこだました、あどけない少女の声。


 そう、なのだ。
 考えてみれば、最初から、色んなことが変だった。

 どうして、太一くんはいつも、オレがいないときにばかり電話をくれる?
 太一くんの電話の前に、必ず入っている1件の無言の留守番電話は、何を意味していた?
 山口くんと連名で出される、何枚もの、思いやりにあふれた絵葉書、数行のメッセージ。
 オレの元にいつ届いても、そう、『たとえ順番が入れ替わったとしても差し支えない』ような……
 どうして太一くんは、オレをこの部屋に住まわせたんだ?

 オレは、ここ数週間、“確かに実在する彼を、一度でも見聞きしたか”?


「ねぇマボ。これ知り合いに聞いた話なんだけどさぁ、知ってる?」

 とめどない問答を無作法に遮っておきながら、あまりにも優しい声で青年は続ける。

「カタカナって、病気の人間が、一番楽に書ける文字なんだよ」

 いつのまにか食べ終えた簡素な食卓に、ごちそうさまと手を合わせてから、それから、こうも言っていた。

「鳩は渡り鳥じゃないから、そんなに長い距離は飛べないんだよねぇ。んー、今はどっちかって言うと、伝書鳩レースって競技用に育てられるんだけど」

 頬杖ついた青年が、年不相応に見えた瞬間だった。
 オレより若いはずなのに、オレの後ろにあるものを、全て見通している。

「1番長いレースでも、1000kmくらいかなぁ……アメリカからは、帰ってこれないよね」

 それでは、伝書鳩は、一体どこから飛んで来た?
 太一くんの手紙を抱えて。
 リーダーはうつむいたまま、何も言おうとしない。

「ねぇ……何か言ってよ」

 促してみるが、じいっと身じろぎ一つせずに、手紙を見つめたまま、何も言ってこない。

「何でも良いから。太一くんのことじゃなくても……山口くんのことでも。兄ぃと、最近旅行したんでしょ? いなかったじゃん1週間。どこ行ってきたの? 南の島の話でも、砂漠の話でも、“とっておきの話”でも!……何でもいいからさ!!」

 焦ってくる。
 その理由に気付きたくないのに、もう気付いてしまったオレは、戻れないのだから。
 長い沈黙の末、やっと、リーダーは口を開いた。

「あの鳩」

 小さな手紙を机に、壊れ物を扱うように置いて、リーダーはもう一度息を吸う。

「大学の鳩舎から逃げ出したの、1週間ほど前やったかな」

 大学。オレたちの研究室の、あるところ。
 何て身近なところだったのか。

「きっと、松岡んとこに飛んでくる思うてたよ。ここに。生まれた場所に帰るやろってな」

 やはり、あの青年の言葉は、正しかったのだ。
 鳩は、まっすぐにここに。太一くんが卵から孵した鳩は、自分の生まれたこの場所に。
 オレの元に、飛んで来た。

 太一くんの手紙を、通信管にしのばせて。

 不安に押しつぶされそうだった。今朝方の夢のような、胸の圧迫感。
 オレはつとめて明るい声で、箱の隅っこに残る明かりを頼りに、手探りで聞く。

「ねぇ、リーダー。でも絵葉書は? 留守番電話にもメッセージ入ってたよ? 昨日の日付でさぁ?」
「……山口」

 か細い希望をすぐに打ち砕かないように、遠回りに、遠回しに。

「山口が、向こうから定期的に電話入れとったんや。録音テープにあらかじめ入れといた声をな」
「……へ、え?」
「絵葉書も、山口が向こうから投函してな。気付いとったか? メッセージ……日付、無かったやろ?」

 皮肉にも、見なくても口に出せるほど読んだのだ。
 冷静になって見返してみると、山口くんの物に比べて、現在情勢の浮いた彼のメッセージ。

「……なぁ松岡。僕らは、まずお前のことを考えたんや。研究室の仲間……僕や、山口や、それから太一本人がな。そうやなかったら僕らは、こんなことせえへんかった。それだけは、解ってやってな」

 柔らかい訛りのリーダーの声が、オレに座るよう、落ち着くように勧めている。
 座ろうにも、足が凍り付いていて無理だった。落ち着けるわけが無かった。
 この状況が、映画のワンシーンのように、高いところから切り取られている。

「昔から、体弱かったらしいんや。医者に言われたって。成人式迎えられんかもしれん、てな」
「は、嘘だ。太一くんなんて、オレより年上じゃねーかよ。医者が間違えてたんだよ」
「そうかもしれんな。医者が、間違えてたんかもしれん……せやけど、そんなことは、たいした問題でもない」

 苛立っていた。
 一瞬の苛立ちを、リーダーもオレも、迫りくる秋の風に流した。

「どんなに理不尽で、許されないようなことでもな、あらかじめ与えられた時間は……どうすることも出来んかった。今年の春から、太一、研究室を辞めたんや。知ってたか?」

 オレは目を合わせずに、首を横に振る。
 嘘だ嘘だ、と口で言いつつも、今では全部わかってしまっていた。何もかも。

「松岡に看取られるのが、一番嫌やって。はは……僕には泣くな、なんて注文付けるしな。頑固やなぁ」

 ぽつぽつと話すリーダーの声が、ほんの一瞬泣き出しそうに上ずった。


 太一くんは、きっと、オレが考えるよりもずっと長い時間、周到に準備していたのだ。
 彼が用意していたのは、録音テープに、何十枚もの絵葉書。そして、協力者。同じ研究室のリーダーと、遠いニューヨークにいる、オレの従兄、山口くん。

 ときどき、間隔を空けながら、預かった絵葉書を投函する。消印は勿論、ニューヨークのものだ。
 太一くんのメッセージだけがあらかじめ書き込まれたものに、自分の体験した時事を付け加えて。
 そしてたびたび、電話をかける。
 オレが留守であることを前もって確認してから、太一くんに渡されていた録音テープの声を吹き込む。
 昔から、面倒見の良い従兄を思い出して、オレはやるせない気持ちになる。

 せめて、可愛がっていた鳩をオレの元へと飛ばしたのは、太一くんだった、と思いたかった。
 いつかの春の日、公園で歩いていた、どこまでも楽しげな笑顔。
 子供じみた意地悪が好きで、そのくせ毒気を抜かれるような笑顔。

 最後の最後に、あの悪戯に、ひっかかった。


「……いつ」

 掠れ始めた声で、かろうじて聞けたのは、それだけだった。
 リーダーは一呼吸置いて、答える。

「6月の、あたま」

 3ヶ月、か。
 涙も出てこなかった。

 オレは3ヶ月もの間、太一くんの抜け殻の中で、一人暮らしていたのだ。
 葬式、初七日、最初の法要。
 みんな、とうの昔に終わってしまった。
 オレが、太一くんの部屋で、世界に取り残されている間に。

 怒りなんて、ちっとも沸いてこなかった。
 後悔するのも億劫になるほど、頭の各所がいろんなことを、好き勝手にしゃべりまくっている。
 全て見ないフリをして、何も聞こえないフリをして、何も感じないフリをして……

 空っぽ。

 遠くで、鳩が鳴いたような気がした。
 心を空っぽにさせたいという、オレの心を代弁した。
 オレは、そうして、凍りついた夏の中に自分から閉じ込もっていたのだろう。

 リーダーが冷めた紅茶を口元で傾ける気配を背に、オレはひとり、ぼんやりと、暮れていく空を眺めていた。
3. PREV ← → NEXT 5.