青く細い線で書かれた、たった1行の文章を、リーダーが遅く目で追っている。
黒いソファーに座って、とりあえずと出された紅茶に少しも手を付けずに。
何度か読み返すのを、オレは窓際に立ったまま、辛抱強く待つ。
リーダーが顔を上げるのを、待つ。
「……何やのこれ? おまじない……いや悪戯にしては、物騒なこと書いてあるなぁ」
リーダーは陽気に、そう言った。
あるいは、そう言わざるを得なかった、のかもしれない。
オレが次の言葉を探そうと、ふと目をやった窓の外は、夕闇の紅に染まり始めている。
「……鳩が、持って来た」
――伝書鳩。
オレの言葉に、リーダーの表情が一瞬にして固まるのがわかった。
ゆっくりと左右に揺れる目線が、何とも合わせられずに床に落ちる。
ああ、間違い無い。
たぶん、この人は、全て知っているのだ。
そして、不思議な鉄棒青年。
思えば、それが全ての発端であり、奇しくも、全ての幕切れとなった。
「ねぇマボ、何で太一くんは、そんな手紙をマボのところに届けたんだろうね」
冷蔵庫を閉めるのも忘れて、オレはゆっくりと体を向けた。
あの伝書鳩の持って来た奇妙な手紙、その差出人は、『太一くん』だと。
さも当然のように青年は言ってのけたのだ。
もちろん、我に返ったオレは、すぐに笑い流した。
「何言って。あれは、ただの鳩だぜ? 迷い鳩。どっかの誰かから、どっかの誰かへ宛てた手紙。ま、悪戯だろうけどさ」
「マボ、全然わかってないみたいだね。あれは“伝書鳩”なんだよ?」
教え子を諭すような口調だった。
オレも、思わず声を荒げる。
「わかってるよ、そんくらい」
「わかってないよ」
対して青年は、怒るような様子もなく、ふわりと傾げた首と、小さな吐息のあとに続ける。
「ねぇ、伝書鳩っていうのは、動物の帰巣本能を利用したものなんだよ。動物は、すごく正確な帰巣本能を持ってる、って聞いたことあるでしょ?」
例えば、シャケ。魚の鮭。産卵のときに、自分が生まれた川に帰るという話。
それくらい、ひとつ知識にある。
「それと一緒でー、鳩がどんなに遠いところで放されても、自分の生まれたところに帰ってくる……っていう帰巣本能を利用してるの。それが、“伝書鳩”。どこにでも届くワケじゃないんだよ」
まるで生物学者を思わせる説明を、つらつらと、ごく自然に紡ぐ青年に、オレも立ち尽くしたまま、聞き入ってしまった。
「……つまり、さっきの鳩は、この部屋で生まれた鳩……ってこと、か?」
「んー、もう少し言うと、太一くんが、その飼い主だったってこと」
オレンジジュースのコップを遊ばせながら、青年が、部屋を見やった。
傷一つ無い、アイボリーホワイトの壁紙と、フローリング。
「このマンション、新築の分譲だからね。太一くんより前に、この部屋で鳩を卵から孵した人って……いないんじゃないかなぁ」
反論の余地が無かった。
そうする意味が無かったのだが、どうにかして揚げ足を取ろうと、躍起になっている自分がいる。
「だから、その手紙は、太一くんからマボに宛てたものなんだよ」
青年が、オレの手にある手紙を指差す。
「……嘘だ。こんな変な手紙、太一くんが出すワケねーじゃんよ。変、ぜってー変だって。太一くんのはずが無ぇよ」
何度も何度も否定の言葉を口にしてしまってから、オレはこの青年との、最初の出会いを思い出す。
“変なの”
小さな公園にこだました、あどけない少女の声。
そう、なのだ。
考えてみれば、最初から、色んなことが変だった。
どうして、太一くんはいつも、オレがいないときにばかり電話をくれる?
太一くんの電話の前に、必ず入っている1件の無言の留守番電話は、何を意味していた?
山口くんと連名で出される、何枚もの、思いやりにあふれた絵葉書、数行のメッセージ。
オレの元にいつ届いても、そう、『たとえ順番が入れ替わったとしても差し支えない』ような……
どうして太一くんは、オレをこの部屋に住まわせたんだ?
オレは、ここ数週間、“確かに実在する彼を、一度でも見聞きしたか”?
「ねぇマボ。これ知り合いに聞いた話なんだけどさぁ、知ってる?」
とめどない問答を無作法に遮っておきながら、あまりにも優しい声で青年は続ける。
「カタカナって、病気の人間が、一番楽に書ける文字なんだよ」
いつのまにか食べ終えた簡素な食卓に、ごちそうさまと手を合わせてから、それから、こうも言っていた。
「鳩は渡り鳥じゃないから、そんなに長い距離は飛べないんだよねぇ。んー、今はどっちかって言うと、伝書鳩レースって競技用に育てられるんだけど」
頬杖ついた青年が、年不相応に見えた瞬間だった。
オレより若いはずなのに、オレの後ろにあるものを、全て見通している。
「1番長いレースでも、1000kmくらいかなぁ……アメリカからは、帰ってこれないよね」
それでは、伝書鳩は、一体どこから飛んで来た?
太一くんの手紙を抱えて。
リーダーはうつむいたまま、何も言おうとしない。
「ねぇ……何か言ってよ」
促してみるが、じいっと身じろぎ一つせずに、手紙を見つめたまま、何も言ってこない。
「何でも良いから。太一くんのことじゃなくても……山口くんのことでも。兄ぃと、最近旅行したんでしょ? いなかったじゃん1週間。どこ行ってきたの? 南の島の話でも、砂漠の話でも、“とっておきの話”でも!……何でもいいからさ!!」
焦ってくる。
その理由に気付きたくないのに、もう気付いてしまったオレは、戻れないのだから。
長い沈黙の末、やっと、リーダーは口を開いた。
「あの鳩」
小さな手紙を机に、壊れ物を扱うように置いて、リーダーはもう一度息を吸う。
「大学の鳩舎から逃げ出したの、1週間ほど前やったかな」
大学。オレたちの研究室の、あるところ。
何て身近なところだったのか。
「きっと、松岡んとこに飛んでくる思うてたよ。ここに。生まれた場所に帰るやろってな」
やはり、あの青年の言葉は、正しかったのだ。
鳩は、まっすぐにここに。太一くんが卵から孵した鳩は、自分の生まれたこの場所に。
オレの元に、飛んで来た。
太一くんの手紙を、通信管にしのばせて。
不安に押しつぶされそうだった。今朝方の夢のような、胸の圧迫感。
オレはつとめて明るい声で、箱の隅っこに残る明かりを頼りに、手探りで聞く。
「ねぇ、リーダー。でも絵葉書は? 留守番電話にもメッセージ入ってたよ? 昨日の日付でさぁ?」
「……山口」
か細い希望をすぐに打ち砕かないように、遠回りに、遠回しに。
「山口が、向こうから定期的に電話入れとったんや。録音テープにあらかじめ入れといた声をな」
「……へ、え?」
「絵葉書も、山口が向こうから投函してな。気付いとったか? メッセージ……日付、無かったやろ?」
皮肉にも、見なくても口に出せるほど読んだのだ。
冷静になって見返してみると、山口くんの物に比べて、現在情勢の浮いた彼のメッセージ。
「……なぁ松岡。僕らは、まずお前のことを考えたんや。研究室の仲間……僕や、山口や、それから太一本人がな。そうやなかったら僕らは、こんなことせえへんかった。それだけは、解ってやってな」
柔らかい訛りのリーダーの声が、オレに座るよう、落ち着くように勧めている。
座ろうにも、足が凍り付いていて無理だった。落ち着けるわけが無かった。
この状況が、映画のワンシーンのように、高いところから切り取られている。
「昔から、体弱かったらしいんや。医者に言われたって。成人式迎えられんかもしれん、てな」
「は、嘘だ。太一くんなんて、オレより年上じゃねーかよ。医者が間違えてたんだよ」
「そうかもしれんな。医者が、間違えてたんかもしれん……せやけど、そんなことは、たいした問題でもない」
苛立っていた。
一瞬の苛立ちを、リーダーもオレも、迫りくる秋の風に流した。
「どんなに理不尽で、許されないようなことでもな、あらかじめ与えられた時間は……どうすることも出来んかった。今年の春から、太一、研究室を辞めたんや。知ってたか?」
オレは目を合わせずに、首を横に振る。
嘘だ嘘だ、と口で言いつつも、今では全部わかってしまっていた。何もかも。
「松岡に看取られるのが、一番嫌やって。はは……僕には泣くな、なんて注文付けるしな。頑固やなぁ」
ぽつぽつと話すリーダーの声が、ほんの一瞬泣き出しそうに上ずった。
太一くんは、きっと、オレが考えるよりもずっと長い時間、周到に準備していたのだ。
彼が用意していたのは、録音テープに、何十枚もの絵葉書。そして、協力者。同じ研究室のリーダーと、遠いニューヨークにいる、オレの従兄、山口くん。
ときどき、間隔を空けながら、預かった絵葉書を投函する。消印は勿論、ニューヨークのものだ。
太一くんのメッセージだけがあらかじめ書き込まれたものに、自分の体験した時事を付け加えて。
そしてたびたび、電話をかける。
オレが留守であることを前もって確認してから、太一くんに渡されていた録音テープの声を吹き込む。
昔から、面倒見の良い従兄を思い出して、オレはやるせない気持ちになる。
せめて、可愛がっていた鳩をオレの元へと飛ばしたのは、太一くんだった、と思いたかった。
いつかの春の日、公園で歩いていた、どこまでも楽しげな笑顔。
子供じみた意地悪が好きで、そのくせ毒気を抜かれるような笑顔。
最後の最後に、あの悪戯に、ひっかかった。
「……いつ」
掠れ始めた声で、かろうじて聞けたのは、それだけだった。
リーダーは一呼吸置いて、答える。
「6月の、あたま」
3ヶ月、か。
涙も出てこなかった。
オレは3ヶ月もの間、太一くんの抜け殻の中で、一人暮らしていたのだ。
葬式、初七日、最初の法要。
みんな、とうの昔に終わってしまった。
オレが、太一くんの部屋で、世界に取り残されている間に。
怒りなんて、ちっとも沸いてこなかった。
後悔するのも億劫になるほど、頭の各所がいろんなことを、好き勝手にしゃべりまくっている。
全て見ないフリをして、何も聞こえないフリをして、何も感じないフリをして……
空っぽ。
遠くで、鳩が鳴いたような気がした。
心を空っぽにさせたいという、オレの心を代弁した。
オレは、そうして、凍りついた夏の中に自分から閉じ込もっていたのだろう。
リーダーが冷めた紅茶を口元で傾ける気配を背に、オレはひとり、ぼんやりと、暮れていく空を眺めていた。
黒いソファーに座って、とりあえずと出された紅茶に少しも手を付けずに。
何度か読み返すのを、オレは窓際に立ったまま、辛抱強く待つ。
リーダーが顔を上げるのを、待つ。
「……何やのこれ? おまじない……いや悪戯にしては、物騒なこと書いてあるなぁ」
リーダーは陽気に、そう言った。
あるいは、そう言わざるを得なかった、のかもしれない。
オレが次の言葉を探そうと、ふと目をやった窓の外は、夕闇の紅に染まり始めている。
「……鳩が、持って来た」
――伝書鳩。
オレの言葉に、リーダーの表情が一瞬にして固まるのがわかった。
ゆっくりと左右に揺れる目線が、何とも合わせられずに床に落ちる。
ああ、間違い無い。
たぶん、この人は、全て知っているのだ。
4.
今朝方、迷い込んできた1羽の鳩。そして、不思議な鉄棒青年。
思えば、それが全ての発端であり、奇しくも、全ての幕切れとなった。
「ねぇマボ、何で太一くんは、そんな手紙をマボのところに届けたんだろうね」
冷蔵庫を閉めるのも忘れて、オレはゆっくりと体を向けた。
あの伝書鳩の持って来た奇妙な手紙、その差出人は、『太一くん』だと。
さも当然のように青年は言ってのけたのだ。
もちろん、我に返ったオレは、すぐに笑い流した。
「何言って。あれは、ただの鳩だぜ? 迷い鳩。どっかの誰かから、どっかの誰かへ宛てた手紙。ま、悪戯だろうけどさ」
「マボ、全然わかってないみたいだね。あれは“伝書鳩”なんだよ?」
教え子を諭すような口調だった。
オレも、思わず声を荒げる。
「わかってるよ、そんくらい」
「わかってないよ」
対して青年は、怒るような様子もなく、ふわりと傾げた首と、小さな吐息のあとに続ける。
「ねぇ、伝書鳩っていうのは、動物の帰巣本能を利用したものなんだよ。動物は、すごく正確な帰巣本能を持ってる、って聞いたことあるでしょ?」
例えば、シャケ。魚の鮭。産卵のときに、自分が生まれた川に帰るという話。
それくらい、ひとつ知識にある。
「それと一緒でー、鳩がどんなに遠いところで放されても、自分の生まれたところに帰ってくる……っていう帰巣本能を利用してるの。それが、“伝書鳩”。どこにでも届くワケじゃないんだよ」
まるで生物学者を思わせる説明を、つらつらと、ごく自然に紡ぐ青年に、オレも立ち尽くしたまま、聞き入ってしまった。
「……つまり、さっきの鳩は、この部屋で生まれた鳩……ってこと、か?」
「んー、もう少し言うと、太一くんが、その飼い主だったってこと」
オレンジジュースのコップを遊ばせながら、青年が、部屋を見やった。
傷一つ無い、アイボリーホワイトの壁紙と、フローリング。
「このマンション、新築の分譲だからね。太一くんより前に、この部屋で鳩を卵から孵した人って……いないんじゃないかなぁ」
反論の余地が無かった。
そうする意味が無かったのだが、どうにかして揚げ足を取ろうと、躍起になっている自分がいる。
「だから、その手紙は、太一くんからマボに宛てたものなんだよ」
青年が、オレの手にある手紙を指差す。
「……嘘だ。こんな変な手紙、太一くんが出すワケねーじゃんよ。変、ぜってー変だって。太一くんのはずが無ぇよ」
何度も何度も否定の言葉を口にしてしまってから、オレはこの青年との、最初の出会いを思い出す。
“変なの”
小さな公園にこだました、あどけない少女の声。
そう、なのだ。
考えてみれば、最初から、色んなことが変だった。
どうして、太一くんはいつも、オレがいないときにばかり電話をくれる?
太一くんの電話の前に、必ず入っている1件の無言の留守番電話は、何を意味していた?
山口くんと連名で出される、何枚もの、思いやりにあふれた絵葉書、数行のメッセージ。
オレの元にいつ届いても、そう、『たとえ順番が入れ替わったとしても差し支えない』ような……
どうして太一くんは、オレをこの部屋に住まわせたんだ?
オレは、ここ数週間、“確かに実在する彼を、一度でも見聞きしたか”?
「ねぇマボ。これ知り合いに聞いた話なんだけどさぁ、知ってる?」
とめどない問答を無作法に遮っておきながら、あまりにも優しい声で青年は続ける。
「カタカナって、病気の人間が、一番楽に書ける文字なんだよ」
いつのまにか食べ終えた簡素な食卓に、ごちそうさまと手を合わせてから、それから、こうも言っていた。
「鳩は渡り鳥じゃないから、そんなに長い距離は飛べないんだよねぇ。んー、今はどっちかって言うと、伝書鳩レースって競技用に育てられるんだけど」
頬杖ついた青年が、年不相応に見えた瞬間だった。
オレより若いはずなのに、オレの後ろにあるものを、全て見通している。
「1番長いレースでも、1000kmくらいかなぁ……アメリカからは、帰ってこれないよね」
それでは、伝書鳩は、一体どこから飛んで来た?
太一くんの手紙を抱えて。
リーダーはうつむいたまま、何も言おうとしない。
「ねぇ……何か言ってよ」
促してみるが、じいっと身じろぎ一つせずに、手紙を見つめたまま、何も言ってこない。
「何でも良いから。太一くんのことじゃなくても……山口くんのことでも。兄ぃと、最近旅行したんでしょ? いなかったじゃん1週間。どこ行ってきたの? 南の島の話でも、砂漠の話でも、“とっておきの話”でも!……何でもいいからさ!!」
焦ってくる。
その理由に気付きたくないのに、もう気付いてしまったオレは、戻れないのだから。
長い沈黙の末、やっと、リーダーは口を開いた。
「あの鳩」
小さな手紙を机に、壊れ物を扱うように置いて、リーダーはもう一度息を吸う。
「大学の鳩舎から逃げ出したの、1週間ほど前やったかな」
大学。オレたちの研究室の、あるところ。
何て身近なところだったのか。
「きっと、松岡んとこに飛んでくる思うてたよ。ここに。生まれた場所に帰るやろってな」
やはり、あの青年の言葉は、正しかったのだ。
鳩は、まっすぐにここに。太一くんが卵から孵した鳩は、自分の生まれたこの場所に。
オレの元に、飛んで来た。
太一くんの手紙を、通信管にしのばせて。
不安に押しつぶされそうだった。今朝方の夢のような、胸の圧迫感。
オレはつとめて明るい声で、箱の隅っこに残る明かりを頼りに、手探りで聞く。
「ねぇ、リーダー。でも絵葉書は? 留守番電話にもメッセージ入ってたよ? 昨日の日付でさぁ?」
「……山口」
か細い希望をすぐに打ち砕かないように、遠回りに、遠回しに。
「山口が、向こうから定期的に電話入れとったんや。録音テープにあらかじめ入れといた声をな」
「……へ、え?」
「絵葉書も、山口が向こうから投函してな。気付いとったか? メッセージ……日付、無かったやろ?」
皮肉にも、見なくても口に出せるほど読んだのだ。
冷静になって見返してみると、山口くんの物に比べて、現在情勢の浮いた彼のメッセージ。
「……なぁ松岡。僕らは、まずお前のことを考えたんや。研究室の仲間……僕や、山口や、それから太一本人がな。そうやなかったら僕らは、こんなことせえへんかった。それだけは、解ってやってな」
柔らかい訛りのリーダーの声が、オレに座るよう、落ち着くように勧めている。
座ろうにも、足が凍り付いていて無理だった。落ち着けるわけが無かった。
この状況が、映画のワンシーンのように、高いところから切り取られている。
「昔から、体弱かったらしいんや。医者に言われたって。成人式迎えられんかもしれん、てな」
「は、嘘だ。太一くんなんて、オレより年上じゃねーかよ。医者が間違えてたんだよ」
「そうかもしれんな。医者が、間違えてたんかもしれん……せやけど、そんなことは、たいした問題でもない」
苛立っていた。
一瞬の苛立ちを、リーダーもオレも、迫りくる秋の風に流した。
「どんなに理不尽で、許されないようなことでもな、あらかじめ与えられた時間は……どうすることも出来んかった。今年の春から、太一、研究室を辞めたんや。知ってたか?」
オレは目を合わせずに、首を横に振る。
嘘だ嘘だ、と口で言いつつも、今では全部わかってしまっていた。何もかも。
「松岡に看取られるのが、一番嫌やって。はは……僕には泣くな、なんて注文付けるしな。頑固やなぁ」
ぽつぽつと話すリーダーの声が、ほんの一瞬泣き出しそうに上ずった。
太一くんは、きっと、オレが考えるよりもずっと長い時間、周到に準備していたのだ。
彼が用意していたのは、録音テープに、何十枚もの絵葉書。そして、協力者。同じ研究室のリーダーと、遠いニューヨークにいる、オレの従兄、山口くん。
ときどき、間隔を空けながら、預かった絵葉書を投函する。消印は勿論、ニューヨークのものだ。
太一くんのメッセージだけがあらかじめ書き込まれたものに、自分の体験した時事を付け加えて。
そしてたびたび、電話をかける。
オレが留守であることを前もって確認してから、太一くんに渡されていた録音テープの声を吹き込む。
昔から、面倒見の良い従兄を思い出して、オレはやるせない気持ちになる。
せめて、可愛がっていた鳩をオレの元へと飛ばしたのは、太一くんだった、と思いたかった。
いつかの春の日、公園で歩いていた、どこまでも楽しげな笑顔。
子供じみた意地悪が好きで、そのくせ毒気を抜かれるような笑顔。
最後の最後に、あの悪戯に、ひっかかった。
「……いつ」
掠れ始めた声で、かろうじて聞けたのは、それだけだった。
リーダーは一呼吸置いて、答える。
「6月の、あたま」
3ヶ月、か。
涙も出てこなかった。
オレは3ヶ月もの間、太一くんの抜け殻の中で、一人暮らしていたのだ。
葬式、初七日、最初の法要。
みんな、とうの昔に終わってしまった。
オレが、太一くんの部屋で、世界に取り残されている間に。
怒りなんて、ちっとも沸いてこなかった。
後悔するのも億劫になるほど、頭の各所がいろんなことを、好き勝手にしゃべりまくっている。
全て見ないフリをして、何も聞こえないフリをして、何も感じないフリをして……
空っぽ。
遠くで、鳩が鳴いたような気がした。
心を空っぽにさせたいという、オレの心を代弁した。
オレは、そうして、凍りついた夏の中に自分から閉じ込もっていたのだろう。
リーダーが冷めた紅茶を口元で傾ける気配を背に、オレはひとり、ぼんやりと、暮れていく空を眺めていた。