SHORT TITLE

立っているだけでむせ返るほどの、夏草の生い茂った道で、オレたちは別れた。
夏草
 -どっか行こうか

誘われては仕方なしに、車を用意した。
夏の太陽が焼きついた高温の車内、冷やすいとま、彼を見て時間を過ごす。
会話は無かった。一方的に話すことも無かった。
静かに、ただ燦然と輝くそのさまに、オレは何かを覚悟した。

 別れなければならないのか

駆り立てるような気持ちが、せめて、自分の内側から発生したものだと思いたかった。
洗濯残りの打ち水が、ボンネットで水蒸気となって彼の姿を煙らせる。
この瞬間にでも、消え失せてしまいそうに。

 -暑いな

確かに、うだるような暑さだった。
今夏一番ではないかというくらいに、暑い昼過ぎの時間帯。

オレは財布と免許証だけを持って、車を東に走らせた。
近くのインターから高速道路に乗る。
これと言って行く宛ては無かったが、何となく、太陽の昇るほうに向かいたかった。

助手席の彼と、やはり何も会話が無いままに、景色は流れていく。
高速のフェンス、合間に覗く明るい街の営み。
不思議と彼の存在が際だって見える。

途中、休憩に立ち寄ったドライブインで、麦茶と弁当を二つ組で買った。
日差しに負けて、急いで駐車場に戻る。
アイドリングしっ放しの冷えた車内、環境に悪いなと、少し眉をすぼめる。

 -エアコンかけすぎ

と、言われるのは当然、予想していたことだ。
少し、口の端が持ちあがる。
何も言い返さずに、設定温度を高くしてやると、彼が微笑んでくれたようだった。

日常を切り取っただけの延長線上にある、つたないやり取りだった。
それがありがたい反面、哀しかった。
しばらく、オレたちは一緒に暮らしていた。
何ヶ月、何年だったか。とにかく、一緒に生活していた。
ここ数日の思い出だけが鮮明に残る中で、
すぽりと抜け落ちた真ん中の記憶が、今になって恋悔しい。

オレが仕事から帰ってくると、彼は台所につっ立っていて、何をするでも無く待っていた。

 -おかえり

時間を持て余すくらいなら、夕食のひとつやふたつ、作ってくれてもいいものを。
そう思っても口には出せず(出す必要も無く)、肩をすくめるだけにして。
玄関先にカバンを放り置いて、そのまま台所に向かう。

ここ数ヶ月、彼のおかげで、料理の腕前は各段に上がった。
ぴったり二人分の食材を調達するのにも慣れた。

手際良く包丁とまな板を流しに置くと、彼は、やはり手伝うわけでも無く様子を見ている。

 -何作るの

別に言わずとも良かったのだが、

「鶏の照り焼き」

宣言しておいた方が、おいしく作れるような気もする。
そんな思惑も読まれたのだろう、彼は相向かいで小さく笑いをこらえている。
オレは大げさに仏頂面を作ると、再び食材の山と格闘を始める。

本当は、職場に残り物の弁当を持っていくことが、楽しくて仕方ないのだ。
そのとき、確かにオレは彼と生活していた、と頭が思い出してくれるから。

食卓に料理皿を並べ、缶ビールとコップを用意し終わっても、
簡単に調理の後片付けをしておかなくてはならないから、オレは再び台所に戻る。
彼は、しばらくの待ちぼうけを食う。

手持ち無沙汰な彼を見やって、オレは、テレビを点けてやった。
バラエティ番組の賑やかなBGMが、リビングに流れ出す。

 -どうした?

親切なオレが、珍しいとでも思ったのだろうか。
いつになく呆けていた彼が、途方も無く先を見通しているようで怖かった、
と、理由を言ったら、信じてくれるだろうか。

今にして思えば、オレはすでに、別れに気付いていたのかもしれない。
とうの昔に、知っていたのかもしれない。
平和な日常こそが、あまりにも奇跡的な存在であることに。

皿に盛りつけた二人分のおかず、二対の箸、開けられた二缶のビール。
長い数分だったろうに、彼が先に食事に手を付けることは絶対に無かった。

ただ、微笑んで待っていてくれた。
その日が、雲の低く垂れ込めた、灰色の空だったことを覚えている。
てんで微妙な曇り天気。
どうせなら、吹き抜けるほど真っ青な空にして欲しかったのに、見える思い出は、映画のワンシーンのように上手くはいかないものだ。

コートを着込んでいた。
空気が冷たく落ちていたから、たぶん、冬だったのだろう。

人並みを先導する彼が、黙って歩き始める。
止めようと思えば、止めることが出来たのかもしれない。
ただ、彼が道を違えず進んだことに嫉妬して、オレは立ち尽くしていた。

 下手な意地なんて張らずに、追いかけて、見送れば良かったんだ

そう気付いたところで、ようやっと痛む心が、目を乾かせるだけだった。

枯れ枝が音を立てて、足下を横切っていく。
数時間ほど経っただろうか、色の変化した空の端を横目に、オレはついに彼の道の、後を追う。
道の終にある掘建て小屋では、親しい数人の仲間たちが、肩を寄せ合っていた。

まだ、別れは言えない。
用意してあった小さなガラス瓶を、手の中で遊ばせる。

一人の初老の男性が気付き、柔い笑みで、オレを呼んでくれた。
並んで男性の仕種を真似ながら、ごく薄い和紙にすくう。
扱い慣れない竹箸が、有った形を崩してしまった。
崩して無くすことで、彼を消しているとしたら……

オレは、まだ認めない。
握り締めたガラス瓶を、内ポケットに仕舞いこむ。
祭壇に捧げられた百合の花も、空を立ち上る最後の煙をも、見えない振りをしたままで。

まだ、別れは言わない。
次に会った彼が、たとえ微細な砂であっても。
もう何時間、車を走らせただろうか。

道という道はとうに途絶えて、伸び放題の雑草がタイヤに絡み付いてくる。
どこかの、山の登り口だった。
黄昏時に、車は見知らぬ林道で止まった。
ぽつりぽつりと佇む民家に、人の気配は無い。
ここでいいよ、と言う声は、もう聞えては来なかった。

もっと、迷うだろうかと思っていた。

オレは、助手席の小さなガラス瓶を手に取った。
さらさらと、小さくさざめく白い海岸線の波。
こんな可愛らしいたとえをすれば、怒られるに決まっているのに。
星の砂じゃあるまいし、と言う声も、もう聞えては来なかった。

心を決めて、車を降りる。
彼に連れられて行くのではなく、彼の手を、オレ自身が引いて行く。
あと数分も経てば闇に埋もれてしまう林の先を、出来る限り分け入って行かなければ、簡単に揺らぐほど脆い決意だったのだ。

花時を過ぎた山百合がいくつか、眠りにつこうとしている草地だった。
これと言って、目立った景色の抑揚は無い。

 -ここでいいよ

そう言ってくれた気がした。
上頬の熱さが、足をもつらせる。もう、これ以上進むのは無理だった。
オレは昨日の出来事のように、一度目の別れを思い出す。

あの日、追いかけ損ねた幻を、胸に引きずりながら生きていたのだろうか。

 -ありがとう

ぽろぽろと、貼りついた虚飾が剥がれ落ちていく感覚。
後ろ手に引いてきたはずの彼が、いつのまにか前を行っていたことを、ようやく知る。

膝上まで迫る山百合が、黙って最後を惜しんでいた。

ガラス瓶の蓋は、自分の指で開けた。
最期にオレを勝たせるために、彼は辛抱強く待ってくれていた。

目線の位置から投げ落とした灰は、ただ垂直に煙った。
跡形も無い景色の果て、近いうちに秋風が持ち去ってくれるだろう。
空になったガラス瓶をポケットに閉じ込める。

 -さよなら

オレは背を向けて、車に戻る。
足早に、彼のいない空間を連れて。

「さよなら」

むせ返るほどの青葉の匂い、かすかに山を下りる木霊の鳴き声。
その日、蒼と夏草の生い茂った道で、オレたちは別れた。


彼が見送ってくれる姿が、初めて流した涙で霞んだ。

end.
梁瀬和男氏『夏の草』のイメージです。“飲み物を断る”シーンが入らなかった……(反省)