何もかもが煮詰まってしまった、ある一日。
松岡は立ち止まった。
呼ばれたような気がしたのではなく、ただ何となく、少し思考回路の線が引っかかって足がもつれただけのこと。
すぐに、その理由を知ることができた。
「松岡」
スクランブル交差点のど真ん中で、ぱたりと目が合った人物に、松岡の顔はほころんでいく。
「太一くんじゃん」
行き交う大勢の人波を断ち割るように、太一はするすると近づいて来る。
やがて松岡の前に到着したところで、人波が徐々に空いて行く。
「ひさしぶり」
先に声をかけたのは、松岡だ。
「うん、しばらくぶり」
続いて相槌を返したのは、太一だ。
松岡は、胸ポケットに入っているはずの煙草を指先で探している。
「最近、時間帯合わないじゃん?」
「うん。有給消化中なの」
「おーダメサラリーマン」
「ひでぇな」
松岡は一人癖のように肩をすくめた。
まだ煙草は見つからない。
「年末までには、まだ店来るでしょ」
「行くよ。どーせ仕事ですよー。まぁ、お得意さまですから?」
「わーすごい心こもってない」
「松岡、お前は? シフト」
早くも、歩行者信号の青が明滅し始める。
松岡はジャケットの右ポケットに手をつっこんだ。
指先がシガーケースに触る。
一瞬だけ、尋ねられたシフトのこと、それに、現在の時空間を愉しむ自分のことを考える。
松岡は煙草を諦めた。
「詰まってる。もう一ヶ月はほとんど休み無いもん。ピチピチ」
「全身タイツ並に?」
「んや、鮮魚並みに」
「楽しそうじゃん」
「そう見える?」
「すげぇ見える」
そう言い抜かれては、反論のしようも無い。松岡は眉尻を下げて笑う。
声が出せないほどに、満足だ。
「今なら何時来てもオレ担当。なんならサービスするし」
「ふぅん。じゃあ、夕方でも会えるな」
「ん? 今日の夕方? 何で?」
「んー。何でって? それを聞くか、お前が?」
いかにも隠し事をしています的な表情で笑った太一を、松岡が覗き込む。
「何よ」
「いやいや。どうせなら明日にしようと思って。居るでしょ?」
「居る、けど……何の用事? 今言えないこと?」
「いや、あーやっぱダメだわ! ……松岡!」
急ぎ足で通り過ぎる数人のスーツにも、松岡の視線はぶれなかった。
歩行者信号はすっかり赤に変わっている。
時間が惜しい。
少しずつ歩道に近づいていく太一の頭が、松岡に対して斜め45度に曲がった。
「おめでとうございます!」
前後で遮断された、いきなりの謝辞に松岡は呆ける。
「へ?」
「辞めるんでしょ、今の店」
松岡、目を丸くする。
この様子を見て、にっこりと満面の笑みを浮かべた太一である。
「“開店”、おめでとう」
目が泳ぐ。松岡は吹くように笑った。
内緒にしておこうと思っていたのに、とっくに勘付かれていたとは。
「……フライングじゃねーか」
「来月だっけ? 独立祝い、考えとくね」
「期待はしないよ」
「期待すんなよ」
矢継ぎ早に飛び交った会話は、急ぐ人波に押される速さか。
「ぜってーお前の店行くから。バー・マツオカでしょ」
「バっ……そんな名前じゃねぇよ!」
二人の横を、幾人かが駆け足で通り過ぎていく。
自動車用の信号が、もう青に変わろうとするところ。車のクラクションが鳴った。
松岡は向かいの歩道に走る。
太一は、反対側の歩道に。
慌てた様子を作ってはいたものの、その実、不思議と落ち着いていた。
動き出した自動車の騒音の向こうから、松岡の背中に、太一の声が飛んでくる。
「予約客一号だからな!」
歩道に辿り着いたところで、ようやく振り向けた。
応えて、松岡が手を振る。
同じ分だけ離れた位置で、太一は軽く手を挙げると、そのまま小走りで去っていった。
境界を隔てる自動車の数が増える。
都会の混沌とした波に、その後姿があっという間に紛れて途絶えた。
思考の時間が動き出す。
彼の痕跡をしばらく目で追いながら、松岡はぼんやりと視線を戻した。
そこはやはり騒がしく、何ら変化の無いコンクリートジャングルの風景。
とても短い邂逅だ。
何万、何億の地球時間に比べれば、人の営みなどほんの刹那。
それは、今後高確率で続くことを祈りたい人生の長さに比べたとしても、ほんの刹那。
もしかしたら君の顔も声も、忙しさに押しやられて忘れてしまうことだってあるのかもしれない。
そんなロマンティックにして物騒なことを考えながら、松岡は舗道を歩き出す。
思い出し笑いをごまかすように、ゆっくりと、人波を遮りつつ歩く。
新しいカクテルの名前は……
開店初日のために用意しておこうと今しがた考えて、かすかに微笑む。
この名前を聞いたら彼は、どんな反応を見せるだろう。
少しずつ、今日が楽しくなってくる。
「……よし」
忘れないうちにメモしておこう、と松岡は急ぐ。
ビルの窓枠に月明かりが垂直に下りる夜、多くの人たちと、都会の中へ帰っていく。
10月のやさしい言葉
10月のネオン街を、とめどなく過ぎる風が雑踏の手前で消えた。松岡は立ち止まった。
呼ばれたような気がしたのではなく、ただ何となく、少し思考回路の線が引っかかって足がもつれただけのこと。
すぐに、その理由を知ることができた。
「松岡」
スクランブル交差点のど真ん中で、ぱたりと目が合った人物に、松岡の顔はほころんでいく。
「太一くんじゃん」
行き交う大勢の人波を断ち割るように、太一はするすると近づいて来る。
やがて松岡の前に到着したところで、人波が徐々に空いて行く。
「ひさしぶり」
先に声をかけたのは、松岡だ。
「うん、しばらくぶり」
続いて相槌を返したのは、太一だ。
松岡は、胸ポケットに入っているはずの煙草を指先で探している。
「最近、時間帯合わないじゃん?」
「うん。有給消化中なの」
「おーダメサラリーマン」
「ひでぇな」
松岡は一人癖のように肩をすくめた。
まだ煙草は見つからない。
「年末までには、まだ店来るでしょ」
「行くよ。どーせ仕事ですよー。まぁ、お得意さまですから?」
「わーすごい心こもってない」
「松岡、お前は? シフト」
早くも、歩行者信号の青が明滅し始める。
松岡はジャケットの右ポケットに手をつっこんだ。
指先がシガーケースに触る。
一瞬だけ、尋ねられたシフトのこと、それに、現在の時空間を愉しむ自分のことを考える。
松岡は煙草を諦めた。
「詰まってる。もう一ヶ月はほとんど休み無いもん。ピチピチ」
「全身タイツ並に?」
「んや、鮮魚並みに」
「楽しそうじゃん」
「そう見える?」
「すげぇ見える」
そう言い抜かれては、反論のしようも無い。松岡は眉尻を下げて笑う。
声が出せないほどに、満足だ。
「今なら何時来てもオレ担当。なんならサービスするし」
「ふぅん。じゃあ、夕方でも会えるな」
「ん? 今日の夕方? 何で?」
「んー。何でって? それを聞くか、お前が?」
いかにも隠し事をしています的な表情で笑った太一を、松岡が覗き込む。
「何よ」
「いやいや。どうせなら明日にしようと思って。居るでしょ?」
「居る、けど……何の用事? 今言えないこと?」
「いや、あーやっぱダメだわ! ……松岡!」
急ぎ足で通り過ぎる数人のスーツにも、松岡の視線はぶれなかった。
歩行者信号はすっかり赤に変わっている。
時間が惜しい。
少しずつ歩道に近づいていく太一の頭が、松岡に対して斜め45度に曲がった。
「おめでとうございます!」
前後で遮断された、いきなりの謝辞に松岡は呆ける。
「へ?」
「辞めるんでしょ、今の店」
松岡、目を丸くする。
この様子を見て、にっこりと満面の笑みを浮かべた太一である。
「“開店”、おめでとう」
目が泳ぐ。松岡は吹くように笑った。
内緒にしておこうと思っていたのに、とっくに勘付かれていたとは。
「……フライングじゃねーか」
「来月だっけ? 独立祝い、考えとくね」
「期待はしないよ」
「期待すんなよ」
矢継ぎ早に飛び交った会話は、急ぐ人波に押される速さか。
「ぜってーお前の店行くから。バー・マツオカでしょ」
「バっ……そんな名前じゃねぇよ!」
二人の横を、幾人かが駆け足で通り過ぎていく。
自動車用の信号が、もう青に変わろうとするところ。車のクラクションが鳴った。
松岡は向かいの歩道に走る。
太一は、反対側の歩道に。
慌てた様子を作ってはいたものの、その実、不思議と落ち着いていた。
動き出した自動車の騒音の向こうから、松岡の背中に、太一の声が飛んでくる。
「予約客一号だからな!」
歩道に辿り着いたところで、ようやく振り向けた。
応えて、松岡が手を振る。
同じ分だけ離れた位置で、太一は軽く手を挙げると、そのまま小走りで去っていった。
境界を隔てる自動車の数が増える。
都会の混沌とした波に、その後姿があっという間に紛れて途絶えた。
思考の時間が動き出す。
彼の痕跡をしばらく目で追いながら、松岡はぼんやりと視線を戻した。
そこはやはり騒がしく、何ら変化の無いコンクリートジャングルの風景。
とても短い邂逅だ。
何万、何億の地球時間に比べれば、人の営みなどほんの刹那。
それは、今後高確率で続くことを祈りたい人生の長さに比べたとしても、ほんの刹那。
もしかしたら君の顔も声も、忙しさに押しやられて忘れてしまうことだってあるのかもしれない。
そんなロマンティックにして物騒なことを考えながら、松岡は舗道を歩き出す。
思い出し笑いをごまかすように、ゆっくりと、人波を遮りつつ歩く。
新しいカクテルの名前は……
開店初日のために用意しておこうと今しがた考えて、かすかに微笑む。
この名前を聞いたら彼は、どんな反応を見せるだろう。
少しずつ、今日が楽しくなってくる。
「……よし」
忘れないうちにメモしておこう、と松岡は急ぐ。
ビルの窓枠に月明かりが垂直に下りる夜、多くの人たちと、都会の中へ帰っていく。
See you later.
キーワードは“リアルタイム”でした。場面転換無しで書いた記念すべき1作(?)