3月の深海
雨は五分前に止んだ。コンクリートの舗装道路は金属のように磨き上げられて、所々で光っている。
長瀬は、まだ傘を差している。
気を抜くと首筋に落ちてくる、電線から伝う雫が苦手なのかもしれない。
真正面に構える大きな水溜りを、両足揃えて飛び越える。
けれども完全には飛び越えられず、対岸の渚に踵が埋まる。
向かい風を諸に受けた傘が、パラシュートのように進行を阻んだのだ。
情けない水しぶきが上がる。
「やめとき転ぶ」
その少し後ろで、城島は傘を畳んでいる。
分厚い雲が小出しに切れて、合間から太陽が顔を覗かせる。
もう今日中は、雨になることはないだろうか。連続した晴れ間が見え始める。
「リーダー、リーダー」
大きな水溜りの向こうで、長瀬が手招きしている。
「にほんかい」
城島は、単語を無変換のまま平仮名で耳に入れたのである。
意味が分からず首を傾げると、長瀬は満面の笑顔で、地面を指差した。
城島と長瀬との間に陣取る、水の固まりがひとつ。
「これ日本海」
出来上がったばかりの単なる水溜りを、海だ、と彼は言ってのけたのだ。
また笑う。
こちらの反応をしばらく窺ってから、ゆらゆら振れながら、のんびりと進行方向へ向かい出すと、前方には再び、水溜りがひとつ。
「オホーツク海」
長瀬が大きな歩幅を最大限に活かし、歩で挟むように跳び越える。
海に比べればごく小さな水の集合体。
その分子の一欠片まで残らず見透かすように、ゆっくりと跳ぶ。
「インド洋」
オホーツク海の反動のままで、スキップの感覚で跳ぶ小さめの水溜り。
先の状況を見て、長瀬は深呼吸する。
三歩後戻りするとインド洋の岸辺でスニーカーが濡れる。
「……太平洋っ」
小さな池ほどの大きな水溜りを、勢いつけて跳び越える。
これは、跳び越えられない面積だった。
対岸の手前、あと一寸のところで深みに着水し、盛大な水しぶきが上がる。
「長瀬ぇ」
一 「あー! 濡れた、濡れたっ」
「言うたやん。しらんでぇ」
そっけなく言いやった城島は、のんびりと日本海を横断していく。
二歩、三歩。海面を踏み崩す。
踵に余裕のある靴を履いている城島なので、水深の浅い水溜りには困らない。
長瀬は、少し不服そうな表情でこちらの様子を窺ったが、無視しておいてやった。
「……大西洋ー」
その城島を無視して、長瀬は、また跳び始めた。
「瀬戸、内海」
珍しく危なっかしい足取りで、連続ステップ。
自然の水溜まりには、一つとして同じものが無いから、長瀬も毎回、修正を迫られているのだ。
「北……極海」
外洋から、近海へ、別に法則性は無いらしい。
オホーツク海に差し掛かった城島は、歩幅を変えずに水溜りをやり過ごした。
「……南極海?」
「何で疑問系やねん」
うろうろと、次の目算を付けながら、長瀬は水溜りを越え続ける。
笑いが込み上げてくる。
そろそろ、辞書のページが捲れなくなってきているはずだ。
さて、どこまで続けられるだろう、ほんの少し意地悪してみる城島である。
「・・・カスピ海」
「黒海ー!」
「エーゲ海」
なるほど、欧州方面に行ったか。
城島は妙に感心しながら、インド洋を横切っていく。
「湘南の海っ」
「いきなり近場やなぁ」
吹き出した城島は、太平洋の手前で躊躇しているところだった。
右に迂回するか、爪先で越えていくか、革靴と相談してみる。
深みにはまるだろうことを予測して、右へと進路を取った。
「……琵琶湖!!」
「海やないでぇ」
琵琶湖を最後に、長瀬は立ち止まっていた。大通りに行き着いていた。
平坦なアスファルトは、雨上がりの玩具を残しておいてはくれない。
近代的に、中央でゆるやかなカーブを描く舗装道路。
雨水は全て側溝に流れ込み、海は干上がっている。
これで歩きやすくなる、そう安堵した城島の心境を鋭敏に感じ取ったのか。
長瀬は、唐突に振り向いた。
太平洋を恐る恐る迂回する城島に向かって、仁王立ちして、少しばかり偉そうな態度で一言。
「リーダー、回れ右して」
そして、10m前の水溜りを指差した。
「日本海から跳んできて」
ようやく越えたばかりの太平洋を眼下に見た。
ふと、すっかり水が染みて重みを増したズボンの裾に気付く。
二重の苦笑いを浮かべる。
城島はくるりと方向転換して、大きな水溜りを掻き分け日本海の対岸へと戻った。
「はいよ」
二人の空間を分かつ水溜りは、こんなにも広く、狭い。
城島は長瀬に量での返却を求めない。与えるだけだが、それで良い。
ただ、強いて過ぎ去っていく時間だけが、惜しい。
不確かな遠い未来、君より先にいなくなってしまう。
現実という怪物は、本当はもっと単純な造りで、寂寞としている。
どちらかが、先にいなくなる。
同時ではありえない。
城島は、暖かい冬の海を一つ、跳び越えた。
ごく最近のことだ。現在、今、この一分一秒を大切にしたいと願うようになったのは。
魂の老けた感情に、我にも無く切なくなり始めたのは。
何故だろう、という疑問符に、城島は既に的確な答えを一つ持っているが、自分では気付かない振りをしている。
きっと、別れが近いという予感があるからだ。
Wait a moment.
“リアルタイム”第2作。ああ、完全におじいちゃんと孫のような話に……。