遺体は風葬された。
魂が風に乗って散っていく、一つ所に留まることを許されずに。
残酷だと、どこかの誰かが言っていた気がしたが、太一は、そうは思わなかった。
死灰に魂が宿るなどと考えていない、わけでは無い。(この場合の灰は、すなわち遺灰ではない。)
果てなく吹かれていく魂のほうが、楽しそうではないか。毎日見る景色も違ってくるだろうし。
それだけの理由が、だからこそ彼に相応しいとも考え取れた。
日和は良かった。
小粒の雲が地平線近くで上昇を断念するほどの、快晴だった。
その日、訪れた弔問客をもてなすために、何かを作らねばならなかった。
ありあわせの偽精進料理でも失礼は無いだろうか、考えながら台所に向かいやっていた。
天麩羅を作ることにした。
食材は事足りている。
なのに、指が慌てて小麦粉をボウルから溢してしまってから、ぴたりと手が止まってしまった。
以降、動いてくれない。
ひたすらに、気分が滅入っていた。
小麦粉を散らかした不注意に苛立っているせいでは無いのだ。
ストレスでもって、手を動かしたくないということなのかもしれない。
こんなときに、料理なんて作れなかった。
彼なら、こんなときだからこそ、と言ってくれるはずなのに、その彼がいないのだ。
分かっている。代わりを誰にも求めはしない。
けれど、代わりがいなければ動くことも出来ない自分が、ただ情けない。
松岡は、周囲が聞いていたら落ち込むような溜め息を、どっしりと吐いた。
布巾で零れた小麦粉を回収するという動作が、ようやく再開される。
反作用のようにてきぱきと、まな板を用意して、コンロの火を点けた。
深呼吸の後、首を巡らせる。
何から手を付けようか、と眼をやった先に青葉が束ねてある。
裏庭に、彼が大量に植えた葉野菜の一つだ。
――よし、とりあえず、青葉の天麩羅。
考えるのも、大泣きするのも、作り終わってからで十分間に合うだろう。
城島は、珍しく外で風に当たっていた。
何も触らないで、眠らないで、ただ黙考することは割と難儀なのだと、城島は最近気がついた。
自分が考え事をするときは、必ず何かが手元にあったからだ。
それは例えば弦楽器であり、一枚の紙であり、物ではなくて、一人の友であったりした。
黙っているのが苦な、城島ではない。
相手が一方的にしゃべっては、こちらはギターの弦を爪弾くだけで、面倒くさくて相槌も返さないことなど多々ある。
返事を求めずにいてくれた声が、壁に溶けるように馴染んでいた。
聞いていないようで、耳に飛び込んでくるBGM。
それが、当たり前なのだと、やはり最近気がついた。
結局、全てが後手に回ってはついて来る。
ありがとう、という感謝の言葉も口に出来なければ、今更、という呆れた言葉も聞けなかった。
何だかんだ言って、彼の声がある空間が、自分にとっての安らぎの場だったのだろう。
「置いてくよ」
ふと聞こえた声に、ゆっくりと顔をずらす。
太一が壁際にギターケースを立て掛けていた。
無造作に、だが慎重に休ませて、彼はさっさと裏庭へ消えてしまう。
何か声をかけようと思ったが、快い文句が浮かばなかったのだ。
――幸せになれるだろうか。
首の運動がてら額を上に向けると、空は確かに快晴だった。
長瀬は、フローリングの床に足を投げ出して座り込んでいる。
何となく家の白壁に頭を擦らせて、居間のテーブルを見ていた。
弔事の後片付けは八割ほど終わっている。
早急にすることも無い、と言われて、ぽんと居間に取り残されたのである。
手暇になってしまった。
後で怒られるなと思いつつも、気休めに煙草をふかしてみる。
すべきことが無くなった時点で唐突に不安になるという感覚を、長瀬は初めて知った。
もっとも、そのピークも過ぎてしまった今では、とりあえずは肺呼吸をするだけだ。
誰もいない。
想像力が、また、波打ち際の不安を誘ってくる。
目をつぶると少し落ち着くが、これも気休めだろう。
視覚が閉ざされる分、沈黙にさえ敏感になる。
幻聴が聞こえる。
壁にほんのわずかに伝う足音、かすれる草の音、誰かの声、どれも現実味を帯びない。
この家に独りでいるような気分になる。
間近で響いた物音に、長瀬はぼんやりと眼を開けた。
先程から何度か呼ばれたような気がしたのは、どうも気のせいでは無かったらしい。
引き戸を開けた松岡が、台所から顔を見せる。
「メシ出来たから、外の呼んで来てくれる?」
あたかも今しがたの偶然のように目を覚まして、長瀬はうなずく。
些細な違和感があった。
眠気と戦っている最中の長瀬の受け答えに、周囲は小指の先ほどの信用も置いていない。
なのに、松岡は、重ねて確認するようなことをしなかった。
見えにくいところから少しずつ、つじつまが合わなくなってきている。
――誰かがいない。
眼に塩水が溜まろうとしているのを慌てて振り切って、長瀬は居間を出ることにした。
煙草を揉み消すタイミングを見誤ってしまった。
山口は、何も考えずに遺品を整理していた。
整理していたように思うだけで、実際は何ひとつ動きなどなかった。
彼との思い出の品を一つ、また一つと眺めては、
別に感傷に浸るでもなく、結局また元の位置に戻してしまう。
あるがままにしておくのは気味が悪い、と整理を買って出たのは自分のはずだったのに。
生活スケジュールに空いた穴を、このダンボールで塞ごうとでもしたのかもしれない。
幼子の造る秘密基地程度の発想である。
すぐに壊れるか、忘れるか、無くなるかの三択以外にあるとすれば、最後に記憶に残される。
綺麗な記憶は、いつ思い出しても飾り付けが増えるだけで済む。
不意に窓際から、ギターの音が流れ込んで来る。
城島だろうとすぐに気付き、部屋に置いてあるはずの弦楽器を目で探す。
が、目に止まって、そこまでだった。
哀しみを共有するなどという理由で、流れる曲に、安易に横やりを入れたくなかったのだ。
それほどまでに、物憂げな旋律だった。
彼にそんな曲を弾かせているのは、この部屋が在るせいなのだろうかと、思わずにはいられない。
何気なく顔を上げると、誰も触っていない写真立てが置いてあった。
五人で海に行ったときの写真。
美しい色彩の最上面に位置する記憶の中、あの笑顔はいつのものだったろうか。
すぐには、戻ってこない。
戻りたい、という矛盾地味た肯定が、今の自分を支えている。
人なんてものは、一瞬である。
いつ死んでも悔いを残さないように、みんな生きているのだろうか。
そんなことを考えたことなど、今まで一度も無かった山口である。
――寂しくなんかない、どうせいつかは、また会うことになるんだろうから。
「待てるよな?」
天国地獄やらの存在を信じているわけでもないのに、都合の良い要望ばかりが頭を掠める。
山口はぽつりと漏らした独り言を最後に、空のダンボール箱をテープで閉じた。
きっと形の無い思い出も、一緒に封をされるのだと、淡い期待を賭けていた。
回り出した換気扇の小窓から、揚げ物の匂いが上って来る。
一番泣くだろうと思っていた松岡が、泣かなかった。
太一は、階下の忙しい空気から逃げて、屋根に寝そべっていた。
日和は良かった。
視界いっぱいを埋める天空を、ただ過ぎる灰色の風だけが奇怪だった。
「太一くん、ごはんー」
長瀬の大声を、彼の口ずさんでいた曲に当てはめてしまう。
すると、妙なことに、ぴたりと当てはまる。
――もらっておくよ。
太一は人知れずほくそ笑む。
もうすぐ、しびれを切らした長瀬は屋根上に登ってくるだろう。
そのために用意していた笑顔で、太一は庭へと飛び降りるのだ。
魂が風に乗って散っていく、一つ所に留まることを許されずに。
残酷だと、どこかの誰かが言っていた気がしたが、太一は、そうは思わなかった。
死灰に魂が宿るなどと考えていない、わけでは無い。(この場合の灰は、すなわち遺灰ではない。)
果てなく吹かれていく魂のほうが、楽しそうではないか。毎日見る景色も違ってくるだろうし。
それだけの理由が、だからこそ彼に相応しいとも考え取れた。
日和は良かった。
小粒の雲が地平線近くで上昇を断念するほどの、快晴だった。
弔い風と
松岡は、いつものようにキッチンにいた。その日、訪れた弔問客をもてなすために、何かを作らねばならなかった。
ありあわせの偽精進料理でも失礼は無いだろうか、考えながら台所に向かいやっていた。
天麩羅を作ることにした。
食材は事足りている。
なのに、指が慌てて小麦粉をボウルから溢してしまってから、ぴたりと手が止まってしまった。
以降、動いてくれない。
ひたすらに、気分が滅入っていた。
小麦粉を散らかした不注意に苛立っているせいでは無いのだ。
ストレスでもって、手を動かしたくないということなのかもしれない。
こんなときに、料理なんて作れなかった。
彼なら、こんなときだからこそ、と言ってくれるはずなのに、その彼がいないのだ。
分かっている。代わりを誰にも求めはしない。
けれど、代わりがいなければ動くことも出来ない自分が、ただ情けない。
松岡は、周囲が聞いていたら落ち込むような溜め息を、どっしりと吐いた。
布巾で零れた小麦粉を回収するという動作が、ようやく再開される。
反作用のようにてきぱきと、まな板を用意して、コンロの火を点けた。
深呼吸の後、首を巡らせる。
何から手を付けようか、と眼をやった先に青葉が束ねてある。
裏庭に、彼が大量に植えた葉野菜の一つだ。
――よし、とりあえず、青葉の天麩羅。
考えるのも、大泣きするのも、作り終わってからで十分間に合うだろう。
城島は、珍しく外で風に当たっていた。
何も触らないで、眠らないで、ただ黙考することは割と難儀なのだと、城島は最近気がついた。
自分が考え事をするときは、必ず何かが手元にあったからだ。
それは例えば弦楽器であり、一枚の紙であり、物ではなくて、一人の友であったりした。
黙っているのが苦な、城島ではない。
相手が一方的にしゃべっては、こちらはギターの弦を爪弾くだけで、面倒くさくて相槌も返さないことなど多々ある。
返事を求めずにいてくれた声が、壁に溶けるように馴染んでいた。
聞いていないようで、耳に飛び込んでくるBGM。
それが、当たり前なのだと、やはり最近気がついた。
結局、全てが後手に回ってはついて来る。
ありがとう、という感謝の言葉も口に出来なければ、今更、という呆れた言葉も聞けなかった。
何だかんだ言って、彼の声がある空間が、自分にとっての安らぎの場だったのだろう。
「置いてくよ」
ふと聞こえた声に、ゆっくりと顔をずらす。
太一が壁際にギターケースを立て掛けていた。
無造作に、だが慎重に休ませて、彼はさっさと裏庭へ消えてしまう。
何か声をかけようと思ったが、快い文句が浮かばなかったのだ。
――幸せになれるだろうか。
首の運動がてら額を上に向けると、空は確かに快晴だった。
長瀬は、フローリングの床に足を投げ出して座り込んでいる。
何となく家の白壁に頭を擦らせて、居間のテーブルを見ていた。
弔事の後片付けは八割ほど終わっている。
早急にすることも無い、と言われて、ぽんと居間に取り残されたのである。
手暇になってしまった。
後で怒られるなと思いつつも、気休めに煙草をふかしてみる。
すべきことが無くなった時点で唐突に不安になるという感覚を、長瀬は初めて知った。
もっとも、そのピークも過ぎてしまった今では、とりあえずは肺呼吸をするだけだ。
誰もいない。
想像力が、また、波打ち際の不安を誘ってくる。
目をつぶると少し落ち着くが、これも気休めだろう。
視覚が閉ざされる分、沈黙にさえ敏感になる。
幻聴が聞こえる。
壁にほんのわずかに伝う足音、かすれる草の音、誰かの声、どれも現実味を帯びない。
この家に独りでいるような気分になる。
間近で響いた物音に、長瀬はぼんやりと眼を開けた。
先程から何度か呼ばれたような気がしたのは、どうも気のせいでは無かったらしい。
引き戸を開けた松岡が、台所から顔を見せる。
「メシ出来たから、外の呼んで来てくれる?」
あたかも今しがたの偶然のように目を覚まして、長瀬はうなずく。
些細な違和感があった。
眠気と戦っている最中の長瀬の受け答えに、周囲は小指の先ほどの信用も置いていない。
なのに、松岡は、重ねて確認するようなことをしなかった。
見えにくいところから少しずつ、つじつまが合わなくなってきている。
――誰かがいない。
眼に塩水が溜まろうとしているのを慌てて振り切って、長瀬は居間を出ることにした。
煙草を揉み消すタイミングを見誤ってしまった。
山口は、何も考えずに遺品を整理していた。
整理していたように思うだけで、実際は何ひとつ動きなどなかった。
彼との思い出の品を一つ、また一つと眺めては、
別に感傷に浸るでもなく、結局また元の位置に戻してしまう。
あるがままにしておくのは気味が悪い、と整理を買って出たのは自分のはずだったのに。
生活スケジュールに空いた穴を、このダンボールで塞ごうとでもしたのかもしれない。
幼子の造る秘密基地程度の発想である。
すぐに壊れるか、忘れるか、無くなるかの三択以外にあるとすれば、最後に記憶に残される。
綺麗な記憶は、いつ思い出しても飾り付けが増えるだけで済む。
不意に窓際から、ギターの音が流れ込んで来る。
城島だろうとすぐに気付き、部屋に置いてあるはずの弦楽器を目で探す。
が、目に止まって、そこまでだった。
哀しみを共有するなどという理由で、流れる曲に、安易に横やりを入れたくなかったのだ。
それほどまでに、物憂げな旋律だった。
彼にそんな曲を弾かせているのは、この部屋が在るせいなのだろうかと、思わずにはいられない。
何気なく顔を上げると、誰も触っていない写真立てが置いてあった。
五人で海に行ったときの写真。
美しい色彩の最上面に位置する記憶の中、あの笑顔はいつのものだったろうか。
すぐには、戻ってこない。
戻りたい、という矛盾地味た肯定が、今の自分を支えている。
人なんてものは、一瞬である。
いつ死んでも悔いを残さないように、みんな生きているのだろうか。
そんなことを考えたことなど、今まで一度も無かった山口である。
――寂しくなんかない、どうせいつかは、また会うことになるんだろうから。
「待てるよな?」
天国地獄やらの存在を信じているわけでもないのに、都合の良い要望ばかりが頭を掠める。
山口はぽつりと漏らした独り言を最後に、空のダンボール箱をテープで閉じた。
きっと形の無い思い出も、一緒に封をされるのだと、淡い期待を賭けていた。
回り出した換気扇の小窓から、揚げ物の匂いが上って来る。
一番泣くだろうと思っていた松岡が、泣かなかった。
太一は、階下の忙しい空気から逃げて、屋根に寝そべっていた。
日和は良かった。
視界いっぱいを埋める天空を、ただ過ぎる灰色の風だけが奇怪だった。
「太一くん、ごはんー」
長瀬の大声を、彼の口ずさんでいた曲に当てはめてしまう。
すると、妙なことに、ぴたりと当てはまる。
――もらっておくよ。
太一は人知れずほくそ笑む。
もうすぐ、しびれを切らした長瀬は屋根上に登ってくるだろう。
そのために用意していた笑顔で、太一は庭へと飛び降りるのだ。
Was a cleanup finished?
一人いません。答え合わせの無いミスリードという性悪作。