今日もあの囚人は石の壁を眺めながら、うっすらと笑みを浮かべている。
つまるところ刑務所の……牢屋の、看守である。
施設の中には、罪状も刑罰もピンからキリまでの囚人が、近代にあるまじく、別に区分けされるでもなしに収容されている。
彼が見回りをするのは、専ら独房だった。
この独り牢に入れられるのは、たいてい団体生活の出来ないハミダシ者で、放り出せば周囲に当たり散らすような一匹狼で、規律も守れない輩で、つまり、ここは懲罰房でもあった。
牢には、備え付けのものがごく少ない。
あるのは薄平いラクダ色の毛布と、間切りの無い便器だけ。
あまりにも単純で無機質なひとつの空間、それだけがぽかりぽかりと、並んでいるのだ。
山口が靴音を止めたのは、一番奥の独房。
「生きてるのか?」
ほとんど独り言だったのだが、そうつぶやいて、牢の中に目をやってみる。
一人の囚人がまさしく死んだように、石壁にもたれかかっていた。
「……死んでる」
「何でやねん!」
関西特有の反射的つっこみ。
山口が眉根を上げて、わざとらしく牢を覗きこんでやると、起き上がった囚人の、その口元は(ああ、やっぱり今日も)わずかに笑っている。
「……笑いながら死ぬやつがどこにおんのや」
「あんたなら、笑いながらフワーと死んでくんじゃないの?」
「夢遊病者かい」
山口は、たまらず笑い声を上げる。
すると朝の早い時間帯。
他の房の囚人はまだ眠っていると気付き、慌ててボリュームを下とす。
いつからか、看守・山口は、この房の囚人・城島と言葉を交わすまでの仲になっていた。
起き立ちで、どこか楽しげな城島が鉄柵に擦り寄ってくる。
「なぁなぁ、看守さん。朝っぱらから、ちょっと頼みがあるんやけど」
「脱走の手引きだったら他を当たれ」
この即返答が面食らったらしく、違う違う違う、と大声で首を横に振る城島。
あるいは、本当に脱走話でも持ちかけようと思っていたのか、白々しく疑う山口に、彼はそそくさと言葉を繋ぐ。
「本、もらえるかなぁ」
「本?」
実に些細な頼みごとに、山口は目を丸くする。
開けっ広げの便所以外、何も無い牢屋。
とは言え、何もかもの持ち込みが禁じられているわけではない。
「本ぐらい、自分で持ってこなかったのか? 図書室にあるだろう」
「僕、図書室行かんのや。ってゆーか、ココが一番、好きやから」
「……あんた、変わってんな」
あっさりとした極論に、山口は呆れ気味につぶやく。
そういえば、この囚人が自由時間を有意義に使っているところを見たことが無い。
「で、何の本?」
「持って来てくれるんか!?」
自分から言っておきながら、相手は心底驚いたように、声を上ずらせる。
少し横切った優越感で、山口は目を細めてやった。
「まだ、持って来るとは言ってません」
「……せやったら何で聞くの」
「世間話のひとつ」
「冷たいなぁ」
「で? 何の本」
そっぽを向いてしまった城島が、やおら振り向いて、また同じセリフを口にすることになる。
「持って来てくれるんか?」
意外、とでも言いたそうな瞳だが、隠せない笑みがこぼれ落ちている。
結局こうなるのである。山口は妥協してしまう。
「持ってこないといつまでもうるさそうなんだもん。仕方ねーわな」
「いやぁ。分かってるやん、看守さん」
「……まぁ、別にヒマだからいいけど。何の本が良いんだ?」
城島はつとめて真面目に、今までの流れを淀ませることなく答えた。
「航空力学」
ぶっと、音が内から出る勢いで山口が吹いた。
予想だにしていない空気砲に、城島があとずさる。
「失敬な」
「いや……ごめん。でも、また何で“航空力学”? パイロットにでもなりてぇの?」
「今から、それは無理やわー。あと10年早かったらなぁ」
20年早くても無理だろうというつっこみは、喉元でかろうじて止めた。
「そんな専門書あったかどうか……」
「ん? なら、別に“折り紙”の本でも良いんやけど」
「幅広すぎるだろ」
即行で切り返しておき、ぶつくさながらも、山口はとりあえず、牢の見回りを終えて戻る。
巡回の仕事以上の何か、義務感のようなものがあった。
城島はたぶん承知しているのだ、山口はこう言いながらも、必ず本を持って来る。
見透かされていることを山口自身も分かっていて、それを城島も分かっている。
両者の暗黙の了解のようなもので、だが不思議と嫌では無かったのだ。
腐れ縁なのだろうかと、山口は苦笑混じりに手の中でメモ帳を翻す。
『紙飛行機のつくりかた』
力学からは大分、譲歩したようだ。
ようは、紙飛行機を飛ばしたかったらしい。出来るだけ遠くに、綺麗に。
「……似合わねーな」
空に憧れる中年囚人、かと。
事務室に戻る長い廊下で、ぽつり、つぶやいてみる。
城島は人の良さそうな男だ。
無論、柔いだ顔に似合わぬ罪を犯す者も、世の中には大勢いるのだが、
それらを考慮したとしても、彼が何の罪で服役しているのか山口には計れない。
「なぁ、前から聞きたかったんだけど」
山口が、突き当たりの牢で足を止めるようになって数日後のこと。
「あんた、何の罪で入ってんだ?」
「さぁ、何やったかなぁ」
ちょっとばかりは学んだ紙飛行機の改良に勤しみつつ、城島は曖昧に言葉を流す。
この質問は、聞いても多分答えてはくれないだろう。山口も諦める。
「家族とか……親戚は?」
「おったかなぁ。けど、たぶん忘れてるんやろなぁ」
相変わらず、飄とした口調のままである。
城島の手から紙飛行機が離れるのと同時に、山口が軽く息を吐く。
「……まぁ、別に知りたくも無いけど」
ふらふらと蛇行する(新型)紙飛行機は、向かいの壁で失速した。
残念がる城島が、ちらりと山口を視界に入れたようで、紙飛行機を拾って柵際に戻ってくる。
「看守さん、他に質問は?」
目を細めるさわやかな笑顔の背後に、サボテンが見えた気がした。
この分で、ひょいひょいと避けられてしまいそうだ。
質問も投げやりに、山口は、一番聞きたかった質問を予定より早くぶつけてしまうことにした。
「じゃあ、あと何年くらい?」
「何年かって?」
少なくとも、山口が気付いたときには、牢に入っていた城島である。
城島は紙飛行機を飛ばし損ねる。
「刑期。あんた、何年目なんだ? いや、あとどのくらい?」
城島が機嫌を損ねる質問だとして、おかしくない。
囚人に遠慮する看守も珍しいとは思うが、山口は答えを期待しなかった。
「せやなぁ……」
紙飛行機が、手元からちょうど部屋を半回転して、彼の膝元に戻ってくる。
それを拾わず、城島はふいに山口に目を向けた。
「うん。何年が良いと思う?」
「……?」
謎掛けか何か哲学かと、山口はしばらく真剣に探っていたが、
「何年、が良いやろなぁ?」
「……は?」
城島がいつもと変わらず、石牢に小さく響く笑い声を立てているのに気付いてしまう。
騙された、直感で山口の眉間にシワが寄る。
「僕、ここが好きでなぁ」
「……はぁ?」
開いた口が塞がらない。
“そもそも、何で自分は、こんなやつに話しかけているんだ?”などと、根本的な疑問が、今更になって浮かび上がる。
城島は、そんな思索など全く気にもしない様子で、陽気に語った。
「別に何年いても良いんよ? 僕はいつでも、出られるから」
たとえ本当にそうだとしても。
狙い値をミリ間隔で外した最終回答に、山口はとりあえず牢を離れるしかない。
「看守さん。最近よく来るよね」
突き当たりから、三つ隣の牢に入っていた男が、からかい気味に口にした。
城島という囚人の背景について収入の無いまま、事務室に戻る途中だった。
「手がかかるのが、一人いんだよ」
「へー。あんたでも手がかかるのが、あるんだ?」
他の囚人たちからは、割合と鬼看守(仏の顔も三度までタイプ)で有名な山口である。
山口は「うるせぇ」と一喝しようとして、だが、ふと気に掛かって、彼の牢の前に座り込む。
「んん? なにやってんの、看守さん」
「聞いても良いか?」
山口がそう言って手招きすると、男は不信がりつつも、ぺたぺたと寄ってきた。
同じ独房立場の囚人同士、何か知っているかも、と考えたのだ。
「なぁ。お前、いつからここに入ってる?」
「はあ? なに突然。二年……くらい前だと思うけど?」
山口が施設に配属されたのと同じ時期か、わずかに前だ。
その貫禄ぶりと牢への慣れ具合で、もっと長いのかと思っていた山口は、心の中で謝る。
「じゃあ、この房の三つ隣。突き当たりのヤツのこと、何か知ってるか?」
「えぇ? わっかんねーなぁ」
「しゃべったこと無いのか?」
この男、黙々作業する囚人たちの中で、際立って話上手なあまりに、他の囚人の作業を止めてしまう、との妙な理由で独房入りしているのだ。
そんな彼が、一風変わった囚人・城島と会話したことも無い、というのだろうか。
「わざわざ、三つ隣まで、ここから声かけたりしないっしょ?」
「談話室があるだろう」
作業終わりの休憩時間、囚人たちが集まるフロアである。
テレビも置かれているし、いくつかの雑誌やテーブルゲームも備えてある開放された一室。
だが、男はふるふると首を横に振った。
「大体、オレ、その人が談話室に来たとこなんか、見た覚えないよ」
山口も、彼が自由時間を有意義に使っているところを、見たことが無かった。
事務室から、交代の見回りに向かおうとしていた同僚に、運良く鉢合わせた。
「一番奥の牢、のヒト?」
世間話に、あの男の話題を混ぜてみたのだ。
「いや……変わってんな、と思って。いつごろから入ってるヤツなんだろうな?」
「……んー?」
やはり、少し不自然であったか。同僚は怪訝そうな顔をする。
何かしら思い巡らせたようだったが、そのうち、はたと気がついた表情で見返してきた。
「……それって、名簿調べれば分かることじゃないの?」
迂闊であった。
一瞬、自分が看守だという事実さえ、忘れてしまっていた。
山口は示された通り、収監されている人間の名簿を広げている。
考えてみれば当然だ。初めから名簿を見ておけば済むことだったのだ。
まず挙がるはずのこの案が、風化の土にでも、埋もれてしまったらしい。
自分で思っているより、短絡的になっているのだろうか。
あるいは、そうさせる何かが、城島にあるのか。
ことの御時世で増える囚人の数、名簿のページも付け足されていく一方だ。
完璧には並ばない五十音順の、『さ』の見出しから開こうとして、めくったページの一番上に見知らぬ囚人の記述を見つけて、その情報を自然と目で追ったとき……
山口は、名簿を閉じた。
急かした拍子に、ぱたんと勢い付いたバインダーから埃が散った。
あえて、調べる必要などなかった。それどころか、調べようとした自身を恥じるしかなかった。
調べなくとも、察しはついた。
城島の服役期間は……
彼が、果てしない空に憧れていると、知っていながら。
山口が、城島のバックグラウンドに気付いても、変わらない日々が続いていた。
突然に転換するということも無かった。
城島は、相変わらず作業マニュアルのページを破いては紙飛行機を造り、時折ぽーっと房の真ん中あたりを注視したりする。
通りかかれば他愛も無い雑談を交わす。
ただ、ひとつ微かにずれが生じてきたことと言えば、旧知の同僚の、山口を監視するような目だ。
監視とまでは行かなくても、しきりに何かを警戒している。
食事時は特に。
彼が何を見ているのか、おおよその当たりは付いている。
「山口くん、今日もあの人に食事置きに行くの?」
台車に並ぶ食事のアルミ盆を、目の前に出して、だが手を添えたまま。
わざわざこの瞳を合わせてきてまで、案の定、同僚は盆を渡そうとしない。
「……置かなきゃダメだろ」
「……」
それきり黙ってしまった同僚は、小柄な体躯に反比例する鋭い目つきで、少し眉をひそめる。
言わんとすることは覚った。
「自分で言うのもなんだけど。俺は、“模範的な看守”だぜ?」
威嚇も込めて、同僚の隙を突いてみる。
つまり同僚は、山口が、城島と脱走の事付けなり手引きをしないかを、危惧しているのだ。
そもそも、看守が特定の、一人の囚人と親しくなるということも稀だ。
だが山口には、城島という特定の、一人の囚人と親しく会話をしていても、一角線を引いて向き合える自信があった。
その自信を知ってか知らずか、同僚が垣間見せた表情は、実に奇妙だった。
「だから、心配なんだ」
憎しみでもなく疑いでもない、あれは一抹の不安をうかがう眼だ。
山口に押しつけるように盆を持たせると、彼は足早に別の房に食事を運んでいった。
怒るいとまも与えられなかった。
底にあるのは囚人・城島の存在だろうかと、改めて疑問が過ぎる。
そういえば、あの囚人。
自分からは滅多に話しかけず、他の囚人たちと一緒に談話室にも来ず、おまけに、ひょっともすれば懲役にも朝の集会にも来ていなさそうで、傍からはふてぶてしい態度。
元から看守たちには、目を付けられていたのだろう。
納得したところで、山口はまた、疑問を抱く。
看守である自分は、何を思って、あの男を気にかけるのだろう、と。
その答えに辿り着くことは決して無いと分かっていながら、うやむやに出来ない自問。
早朝、山口が独房の様子を見て廻っていると、突き当たり、一番奥の牢には、すでに動き出した気配が待っていた。
「おはよーさん」
風変わりな囚人、城島。
朝は早起きらしい。
「早いな」
「うん? いや、この部屋、時計が無いからなぁ。時間が判らんから、こう……自然と早起きなってまうんや」
寝起きとは思えない朗らかな口調ぶりが、もう何時間も前に起きて、すっかり身支度を整えていたようにも見える。
が、頭は無造作すぎる無造作ヘアである。
「朝の号鈴が鳴るだろう。その時に起きれば良い」
そっけなく言いやり、踵を返す。
「時計欲しいとか言うんだろ? 先に言っとくけど、時計はダメ」
「えー……」
「文句言うな。ってゆか、お前囚人だぞ。ここは牢屋。立場解ってるのか?」
昨晩、食事時の同僚の仕種は、少なからずとも山口の心象に影響を与えていた。
自分は看守、奴は囚人。
鉄柵を越えることは出来ないし、越えようとも思わない。
どこまでも、山口は模範的な看守である。
「……なぁ山口」
そんな思惑もどこ吹く風、城島が呑気に口を挟む。
「風が欲しいなぁ」
城島は、ときどき、哲学的なことを口にする。
ほとほとと迫っている夜明けの月入りに、追い立てられるかのように饒舌になる。
「窓、開いてるだろう」
「窓から入る風は、部屋の空気やろ?」
「なら、外に出れば……」
外に出れば良いのに、という台詞が口の中にあって、ついにつっかえた。
牢の隅で出番を待つ紙飛行機が、すす、と隙間風に振れる。
「……あんた、外に出ないよな」
「僕、ココが好きやからなぁ」
「違う」
山口が先を制した。
いつになく切羽詰まった口調に、城島が冗談として笑い飛ばそうとするのさえ、制した。
彼の一句一句が不安定に思えてならなかった。
「判ってるはずだ」
城島にとって、世界はその小さな真四角の部屋だ。
籠に入った小鳥と同じで、陽の光を羽根にかざせる位置で眺めているのに、それと共に飛ぶことは永遠に叶わない。
「あんたがいくら望んでも、風になんてなれないんだ」
届かないのならば、外を見なければ良い。ただ内を見るだけで良い。
灰色の天井は、吹き抜けた空。壁のスクリーンは、どこまでも続く草原の緑。
すべて、幻。
二度と大地を踏めない男は、この箱庭を、世界に変えようとしたのだ。
「世界はこんなに狭くない。もっと広いんだ」
「……」
残酷なことだと、山口も十二分にわかっている。
「……判ってるはずだ」
「山口」
「判ってくれ。あんたは……こんなところで終わるべきじゃない」
城島の柔らかい笑みが、その一瞬だけ、陽の影となった。
山口は、ポケットの中を探る。
お気に入りだった手巻きの懐中時計。
素早く、その鎖を外し、牢の鉄柵から滑り込ませた。
脱走を企てられそうな金属類はご法度だと、知っている。
鉄柵を越えた懐中時計は、細い金属音を伴って、城島のかかとにコツンと当たった。
「これが最後だ」
城島が顔を上げる前に、彼の表情を見誤る前に、山口は逃げるようにして独房を去った。
捨て台詞を放った人間とは似つかない、情けない顔をしているにちがいない。
それでも、事務室に辿り着くまでには、平静な顔に戻らなければならない。
どこまでも、山口は模範的な看守なのだから。
光がやっと射す渡り廊下は、いつになく長かった。
山口は一人の哀れな囚人を見た。
事務室に戻ったら、異動願いを出そうかとも思い出していた。
これ以降、城島に会うことは二度と無いのではないかという焦りが、緩やかに安堵へと変わっていく不快感が、うっすらと脳裏を過ぎっていた。
食事時になって、山口の気分が冴えるはずも無かった。
盆を置きに行けば、否応なしに牢の様子を窺うことになる。
どこの面を下げて、言葉をかければ良いものか。
小さく吐いた溜め息で、途方にくれる。
「どうかしたんですか?」
一緒に食事の盆を運んでいるのは、先週あたりに配属された新人だった。
旧知の同僚で無くて良かったと思う一方で、居心地に慣れない。
「いや、何でも」
「疲れてるんスか? この仕事、キツイですもんね」
まだ数日、顔を合わせただけの新米同僚に見抜かれるとは、相当参っているらしい。
こんなに弱い人間ではなかったはずなのだがと、まぶたも据わる。
山口は曖昧な生返事を返すしかない。
食事皿の数が減っていくにつれて、このときばかりは、役割を代わって欲しいと切に思えた。
「ひとつ……あの、前から聞きたいことあったんスけど」
新入りの看守が、ふと、好奇の目で首を傾げてきた。
手渡された最後の食事の行き先は、一ヶ所しかない。
「何?」
「あの、一番奥の牢」
何の変哲も無い問いに、山口の心臓が跳ねた。
一瞬向かいやった、こちらからは死角になる、突き当たりのあの牢。
そして、牢の主は……
「誰もいないのに、どうして山口くんはいつも、食事を置いていくんですか?」
――いつ、逃げたのだろう。
光だけが射し込む簡素な石の独房には、もはや、誰もいなかった。
置き場の無い盆を抱えて、山口はぼんやりと、格子を見とめていた。
牢の中にはキレイに畳まれた毛布一式と、広げられていない本、針の止まった懐中時計。
何でもあげてやれたのに、あの男は逃げてしまった。
灯した火を消すために水をやれば光になって、光を覆い隠すブラインドをやれば掴み所のない風になって、密閉された部屋を与えれば燃えさしの火になるのだから、結局、鉄柵など彼にとって、何の意味も持たない飾り物だったのだ。
もう、あげられるものは何も無い。
最後に余った自分という人間ひとつが、透明な風景の中にひっそりと立ち尽くしたまま。
残された彼の品が、暮らしの糧に変わっていく時を待っている。
川の向こう岸ほどに遠くで、同僚の呼び声がする。
ぶ厚い埃の層が、牢という孤独な空間を切り離していた。
今、あの男が壁にもたれて座っている幻影すら、掠むほどに。
俺が見ていたのは……
散らばり落ちた、幾数の紙飛行機。
山口は、牢が捕らえている真実に、ようやく気付き始めていた。
風になって
山口は、ある施設の看守である。つまるところ刑務所の……牢屋の、看守である。
施設の中には、罪状も刑罰もピンからキリまでの囚人が、近代にあるまじく、別に区分けされるでもなしに収容されている。
彼が見回りをするのは、専ら独房だった。
この独り牢に入れられるのは、たいてい団体生活の出来ないハミダシ者で、放り出せば周囲に当たり散らすような一匹狼で、規律も守れない輩で、つまり、ここは懲罰房でもあった。
牢には、備え付けのものがごく少ない。
あるのは薄平いラクダ色の毛布と、間切りの無い便器だけ。
あまりにも単純で無機質なひとつの空間、それだけがぽかりぽかりと、並んでいるのだ。
山口が靴音を止めたのは、一番奥の独房。
「生きてるのか?」
ほとんど独り言だったのだが、そうつぶやいて、牢の中に目をやってみる。
一人の囚人がまさしく死んだように、石壁にもたれかかっていた。
「……死んでる」
「何でやねん!」
関西特有の反射的つっこみ。
山口が眉根を上げて、わざとらしく牢を覗きこんでやると、起き上がった囚人の、その口元は(ああ、やっぱり今日も)わずかに笑っている。
「……笑いながら死ぬやつがどこにおんのや」
「あんたなら、笑いながらフワーと死んでくんじゃないの?」
「夢遊病者かい」
山口は、たまらず笑い声を上げる。
すると朝の早い時間帯。
他の房の囚人はまだ眠っていると気付き、慌ててボリュームを下とす。
いつからか、看守・山口は、この房の囚人・城島と言葉を交わすまでの仲になっていた。
起き立ちで、どこか楽しげな城島が鉄柵に擦り寄ってくる。
「なぁなぁ、看守さん。朝っぱらから、ちょっと頼みがあるんやけど」
「脱走の手引きだったら他を当たれ」
この即返答が面食らったらしく、違う違う違う、と大声で首を横に振る城島。
あるいは、本当に脱走話でも持ちかけようと思っていたのか、白々しく疑う山口に、彼はそそくさと言葉を繋ぐ。
「本、もらえるかなぁ」
「本?」
実に些細な頼みごとに、山口は目を丸くする。
開けっ広げの便所以外、何も無い牢屋。
とは言え、何もかもの持ち込みが禁じられているわけではない。
「本ぐらい、自分で持ってこなかったのか? 図書室にあるだろう」
「僕、図書室行かんのや。ってゆーか、ココが一番、好きやから」
「……あんた、変わってんな」
あっさりとした極論に、山口は呆れ気味につぶやく。
そういえば、この囚人が自由時間を有意義に使っているところを見たことが無い。
「で、何の本?」
「持って来てくれるんか!?」
自分から言っておきながら、相手は心底驚いたように、声を上ずらせる。
少し横切った優越感で、山口は目を細めてやった。
「まだ、持って来るとは言ってません」
「……せやったら何で聞くの」
「世間話のひとつ」
「冷たいなぁ」
「で? 何の本」
そっぽを向いてしまった城島が、やおら振り向いて、また同じセリフを口にすることになる。
「持って来てくれるんか?」
意外、とでも言いたそうな瞳だが、隠せない笑みがこぼれ落ちている。
結局こうなるのである。山口は妥協してしまう。
「持ってこないといつまでもうるさそうなんだもん。仕方ねーわな」
「いやぁ。分かってるやん、看守さん」
「……まぁ、別にヒマだからいいけど。何の本が良いんだ?」
城島はつとめて真面目に、今までの流れを淀ませることなく答えた。
「航空力学」
ぶっと、音が内から出る勢いで山口が吹いた。
予想だにしていない空気砲に、城島があとずさる。
「失敬な」
「いや……ごめん。でも、また何で“航空力学”? パイロットにでもなりてぇの?」
「今から、それは無理やわー。あと10年早かったらなぁ」
20年早くても無理だろうというつっこみは、喉元でかろうじて止めた。
「そんな専門書あったかどうか……」
「ん? なら、別に“折り紙”の本でも良いんやけど」
「幅広すぎるだろ」
即行で切り返しておき、ぶつくさながらも、山口はとりあえず、牢の見回りを終えて戻る。
巡回の仕事以上の何か、義務感のようなものがあった。
城島はたぶん承知しているのだ、山口はこう言いながらも、必ず本を持って来る。
見透かされていることを山口自身も分かっていて、それを城島も分かっている。
両者の暗黙の了解のようなもので、だが不思議と嫌では無かったのだ。
腐れ縁なのだろうかと、山口は苦笑混じりに手の中でメモ帳を翻す。
『紙飛行機のつくりかた』
力学からは大分、譲歩したようだ。
ようは、紙飛行機を飛ばしたかったらしい。出来るだけ遠くに、綺麗に。
「……似合わねーな」
空に憧れる中年囚人、かと。
事務室に戻る長い廊下で、ぽつり、つぶやいてみる。
城島は人の良さそうな男だ。
無論、柔いだ顔に似合わぬ罪を犯す者も、世の中には大勢いるのだが、
それらを考慮したとしても、彼が何の罪で服役しているのか山口には計れない。
「なぁ、前から聞きたかったんだけど」
山口が、突き当たりの牢で足を止めるようになって数日後のこと。
「あんた、何の罪で入ってんだ?」
「さぁ、何やったかなぁ」
ちょっとばかりは学んだ紙飛行機の改良に勤しみつつ、城島は曖昧に言葉を流す。
この質問は、聞いても多分答えてはくれないだろう。山口も諦める。
「家族とか……親戚は?」
「おったかなぁ。けど、たぶん忘れてるんやろなぁ」
相変わらず、飄とした口調のままである。
城島の手から紙飛行機が離れるのと同時に、山口が軽く息を吐く。
「……まぁ、別に知りたくも無いけど」
ふらふらと蛇行する(新型)紙飛行機は、向かいの壁で失速した。
残念がる城島が、ちらりと山口を視界に入れたようで、紙飛行機を拾って柵際に戻ってくる。
「看守さん、他に質問は?」
目を細めるさわやかな笑顔の背後に、サボテンが見えた気がした。
この分で、ひょいひょいと避けられてしまいそうだ。
質問も投げやりに、山口は、一番聞きたかった質問を予定より早くぶつけてしまうことにした。
「じゃあ、あと何年くらい?」
「何年かって?」
少なくとも、山口が気付いたときには、牢に入っていた城島である。
城島は紙飛行機を飛ばし損ねる。
「刑期。あんた、何年目なんだ? いや、あとどのくらい?」
城島が機嫌を損ねる質問だとして、おかしくない。
囚人に遠慮する看守も珍しいとは思うが、山口は答えを期待しなかった。
「せやなぁ……」
紙飛行機が、手元からちょうど部屋を半回転して、彼の膝元に戻ってくる。
それを拾わず、城島はふいに山口に目を向けた。
「うん。何年が良いと思う?」
「……?」
謎掛けか何か哲学かと、山口はしばらく真剣に探っていたが、
「何年、が良いやろなぁ?」
「……は?」
城島がいつもと変わらず、石牢に小さく響く笑い声を立てているのに気付いてしまう。
騙された、直感で山口の眉間にシワが寄る。
「僕、ここが好きでなぁ」
「……はぁ?」
開いた口が塞がらない。
“そもそも、何で自分は、こんなやつに話しかけているんだ?”などと、根本的な疑問が、今更になって浮かび上がる。
城島は、そんな思索など全く気にもしない様子で、陽気に語った。
「別に何年いても良いんよ? 僕はいつでも、出られるから」
たとえ本当にそうだとしても。
狙い値をミリ間隔で外した最終回答に、山口はとりあえず牢を離れるしかない。
「看守さん。最近よく来るよね」
突き当たりから、三つ隣の牢に入っていた男が、からかい気味に口にした。
城島という囚人の背景について収入の無いまま、事務室に戻る途中だった。
「手がかかるのが、一人いんだよ」
「へー。あんたでも手がかかるのが、あるんだ?」
他の囚人たちからは、割合と鬼看守(仏の顔も三度までタイプ)で有名な山口である。
山口は「うるせぇ」と一喝しようとして、だが、ふと気に掛かって、彼の牢の前に座り込む。
「んん? なにやってんの、看守さん」
「聞いても良いか?」
山口がそう言って手招きすると、男は不信がりつつも、ぺたぺたと寄ってきた。
同じ独房立場の囚人同士、何か知っているかも、と考えたのだ。
「なぁ。お前、いつからここに入ってる?」
「はあ? なに突然。二年……くらい前だと思うけど?」
山口が施設に配属されたのと同じ時期か、わずかに前だ。
その貫禄ぶりと牢への慣れ具合で、もっと長いのかと思っていた山口は、心の中で謝る。
「じゃあ、この房の三つ隣。突き当たりのヤツのこと、何か知ってるか?」
「えぇ? わっかんねーなぁ」
「しゃべったこと無いのか?」
この男、黙々作業する囚人たちの中で、際立って話上手なあまりに、他の囚人の作業を止めてしまう、との妙な理由で独房入りしているのだ。
そんな彼が、一風変わった囚人・城島と会話したことも無い、というのだろうか。
「わざわざ、三つ隣まで、ここから声かけたりしないっしょ?」
「談話室があるだろう」
作業終わりの休憩時間、囚人たちが集まるフロアである。
テレビも置かれているし、いくつかの雑誌やテーブルゲームも備えてある開放された一室。
だが、男はふるふると首を横に振った。
「大体、オレ、その人が談話室に来たとこなんか、見た覚えないよ」
山口も、彼が自由時間を有意義に使っているところを、見たことが無かった。
事務室から、交代の見回りに向かおうとしていた同僚に、運良く鉢合わせた。
「一番奥の牢、のヒト?」
世間話に、あの男の話題を混ぜてみたのだ。
「いや……変わってんな、と思って。いつごろから入ってるヤツなんだろうな?」
「……んー?」
やはり、少し不自然であったか。同僚は怪訝そうな顔をする。
何かしら思い巡らせたようだったが、そのうち、はたと気がついた表情で見返してきた。
「……それって、名簿調べれば分かることじゃないの?」
迂闊であった。
一瞬、自分が看守だという事実さえ、忘れてしまっていた。
山口は示された通り、収監されている人間の名簿を広げている。
考えてみれば当然だ。初めから名簿を見ておけば済むことだったのだ。
まず挙がるはずのこの案が、風化の土にでも、埋もれてしまったらしい。
自分で思っているより、短絡的になっているのだろうか。
あるいは、そうさせる何かが、城島にあるのか。
ことの御時世で増える囚人の数、名簿のページも付け足されていく一方だ。
完璧には並ばない五十音順の、『さ』の見出しから開こうとして、めくったページの一番上に見知らぬ囚人の記述を見つけて、その情報を自然と目で追ったとき……
山口は、名簿を閉じた。
急かした拍子に、ぱたんと勢い付いたバインダーから埃が散った。
あえて、調べる必要などなかった。それどころか、調べようとした自身を恥じるしかなかった。
調べなくとも、察しはついた。
城島の服役期間は……
彼が、果てしない空に憧れていると、知っていながら。
山口が、城島のバックグラウンドに気付いても、変わらない日々が続いていた。
突然に転換するということも無かった。
城島は、相変わらず作業マニュアルのページを破いては紙飛行機を造り、時折ぽーっと房の真ん中あたりを注視したりする。
通りかかれば他愛も無い雑談を交わす。
ただ、ひとつ微かにずれが生じてきたことと言えば、旧知の同僚の、山口を監視するような目だ。
監視とまでは行かなくても、しきりに何かを警戒している。
食事時は特に。
彼が何を見ているのか、おおよその当たりは付いている。
「山口くん、今日もあの人に食事置きに行くの?」
台車に並ぶ食事のアルミ盆を、目の前に出して、だが手を添えたまま。
わざわざこの瞳を合わせてきてまで、案の定、同僚は盆を渡そうとしない。
「……置かなきゃダメだろ」
「……」
それきり黙ってしまった同僚は、小柄な体躯に反比例する鋭い目つきで、少し眉をひそめる。
言わんとすることは覚った。
「自分で言うのもなんだけど。俺は、“模範的な看守”だぜ?」
威嚇も込めて、同僚の隙を突いてみる。
つまり同僚は、山口が、城島と脱走の事付けなり手引きをしないかを、危惧しているのだ。
そもそも、看守が特定の、一人の囚人と親しくなるということも稀だ。
だが山口には、城島という特定の、一人の囚人と親しく会話をしていても、一角線を引いて向き合える自信があった。
その自信を知ってか知らずか、同僚が垣間見せた表情は、実に奇妙だった。
「だから、心配なんだ」
憎しみでもなく疑いでもない、あれは一抹の不安をうかがう眼だ。
山口に押しつけるように盆を持たせると、彼は足早に別の房に食事を運んでいった。
怒るいとまも与えられなかった。
底にあるのは囚人・城島の存在だろうかと、改めて疑問が過ぎる。
そういえば、あの囚人。
自分からは滅多に話しかけず、他の囚人たちと一緒に談話室にも来ず、おまけに、ひょっともすれば懲役にも朝の集会にも来ていなさそうで、傍からはふてぶてしい態度。
元から看守たちには、目を付けられていたのだろう。
納得したところで、山口はまた、疑問を抱く。
看守である自分は、何を思って、あの男を気にかけるのだろう、と。
その答えに辿り着くことは決して無いと分かっていながら、うやむやに出来ない自問。
早朝、山口が独房の様子を見て廻っていると、突き当たり、一番奥の牢には、すでに動き出した気配が待っていた。
「おはよーさん」
風変わりな囚人、城島。
朝は早起きらしい。
「早いな」
「うん? いや、この部屋、時計が無いからなぁ。時間が判らんから、こう……自然と早起きなってまうんや」
寝起きとは思えない朗らかな口調ぶりが、もう何時間も前に起きて、すっかり身支度を整えていたようにも見える。
が、頭は無造作すぎる無造作ヘアである。
「朝の号鈴が鳴るだろう。その時に起きれば良い」
そっけなく言いやり、踵を返す。
「時計欲しいとか言うんだろ? 先に言っとくけど、時計はダメ」
「えー……」
「文句言うな。ってゆか、お前囚人だぞ。ここは牢屋。立場解ってるのか?」
昨晩、食事時の同僚の仕種は、少なからずとも山口の心象に影響を与えていた。
自分は看守、奴は囚人。
鉄柵を越えることは出来ないし、越えようとも思わない。
どこまでも、山口は模範的な看守である。
「……なぁ山口」
そんな思惑もどこ吹く風、城島が呑気に口を挟む。
「風が欲しいなぁ」
城島は、ときどき、哲学的なことを口にする。
ほとほとと迫っている夜明けの月入りに、追い立てられるかのように饒舌になる。
「窓、開いてるだろう」
「窓から入る風は、部屋の空気やろ?」
「なら、外に出れば……」
外に出れば良いのに、という台詞が口の中にあって、ついにつっかえた。
牢の隅で出番を待つ紙飛行機が、すす、と隙間風に振れる。
「……あんた、外に出ないよな」
「僕、ココが好きやからなぁ」
「違う」
山口が先を制した。
いつになく切羽詰まった口調に、城島が冗談として笑い飛ばそうとするのさえ、制した。
彼の一句一句が不安定に思えてならなかった。
「判ってるはずだ」
城島にとって、世界はその小さな真四角の部屋だ。
籠に入った小鳥と同じで、陽の光を羽根にかざせる位置で眺めているのに、それと共に飛ぶことは永遠に叶わない。
「あんたがいくら望んでも、風になんてなれないんだ」
届かないのならば、外を見なければ良い。ただ内を見るだけで良い。
灰色の天井は、吹き抜けた空。壁のスクリーンは、どこまでも続く草原の緑。
すべて、幻。
二度と大地を踏めない男は、この箱庭を、世界に変えようとしたのだ。
「世界はこんなに狭くない。もっと広いんだ」
「……」
残酷なことだと、山口も十二分にわかっている。
「……判ってるはずだ」
「山口」
「判ってくれ。あんたは……こんなところで終わるべきじゃない」
城島の柔らかい笑みが、その一瞬だけ、陽の影となった。
山口は、ポケットの中を探る。
お気に入りだった手巻きの懐中時計。
素早く、その鎖を外し、牢の鉄柵から滑り込ませた。
脱走を企てられそうな金属類はご法度だと、知っている。
鉄柵を越えた懐中時計は、細い金属音を伴って、城島のかかとにコツンと当たった。
「これが最後だ」
城島が顔を上げる前に、彼の表情を見誤る前に、山口は逃げるようにして独房を去った。
捨て台詞を放った人間とは似つかない、情けない顔をしているにちがいない。
それでも、事務室に辿り着くまでには、平静な顔に戻らなければならない。
どこまでも、山口は模範的な看守なのだから。
光がやっと射す渡り廊下は、いつになく長かった。
山口は一人の哀れな囚人を見た。
事務室に戻ったら、異動願いを出そうかとも思い出していた。
これ以降、城島に会うことは二度と無いのではないかという焦りが、緩やかに安堵へと変わっていく不快感が、うっすらと脳裏を過ぎっていた。
食事時になって、山口の気分が冴えるはずも無かった。
盆を置きに行けば、否応なしに牢の様子を窺うことになる。
どこの面を下げて、言葉をかければ良いものか。
小さく吐いた溜め息で、途方にくれる。
「どうかしたんですか?」
一緒に食事の盆を運んでいるのは、先週あたりに配属された新人だった。
旧知の同僚で無くて良かったと思う一方で、居心地に慣れない。
「いや、何でも」
「疲れてるんスか? この仕事、キツイですもんね」
まだ数日、顔を合わせただけの新米同僚に見抜かれるとは、相当参っているらしい。
こんなに弱い人間ではなかったはずなのだがと、まぶたも据わる。
山口は曖昧な生返事を返すしかない。
食事皿の数が減っていくにつれて、このときばかりは、役割を代わって欲しいと切に思えた。
「ひとつ……あの、前から聞きたいことあったんスけど」
新入りの看守が、ふと、好奇の目で首を傾げてきた。
手渡された最後の食事の行き先は、一ヶ所しかない。
「何?」
「あの、一番奥の牢」
何の変哲も無い問いに、山口の心臓が跳ねた。
一瞬向かいやった、こちらからは死角になる、突き当たりのあの牢。
そして、牢の主は……
「誰もいないのに、どうして山口くんはいつも、食事を置いていくんですか?」
――いつ、逃げたのだろう。
光だけが射し込む簡素な石の独房には、もはや、誰もいなかった。
置き場の無い盆を抱えて、山口はぼんやりと、格子を見とめていた。
牢の中にはキレイに畳まれた毛布一式と、広げられていない本、針の止まった懐中時計。
何でもあげてやれたのに、あの男は逃げてしまった。
灯した火を消すために水をやれば光になって、光を覆い隠すブラインドをやれば掴み所のない風になって、密閉された部屋を与えれば燃えさしの火になるのだから、結局、鉄柵など彼にとって、何の意味も持たない飾り物だったのだ。
もう、あげられるものは何も無い。
最後に余った自分という人間ひとつが、透明な風景の中にひっそりと立ち尽くしたまま。
残された彼の品が、暮らしの糧に変わっていく時を待っている。
川の向こう岸ほどに遠くで、同僚の呼び声がする。
ぶ厚い埃の層が、牢という孤独な空間を切り離していた。
今、あの男が壁にもたれて座っている幻影すら、掠むほどに。
俺が見ていたのは……
散らばり落ちた、幾数の紙飛行機。
山口は、牢が捕らえている真実に、ようやく気付き始めていた。
The end of the phantom.
長いです。原案はもっと長かったのですが、途中で挫折(弱)